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佐鳥姫の憂鬱 〜貞華の愛した幻の桜〜
幻惑の桜 3
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「本当にこんなにも頂いていいんですか?」
ビニール袋いっぱいの桜の花びらを両手に抱えた湘子さんは嬉しそうだ。
「ええ、どうぞ。お役に立つかはわかりませんが」
母の凡子は愉快げに目尻を下げ、庭に積もった桜の花びらを木箱に集める父の清丈に視線を移す。すると、促されたかのように父が言う。
「お風呂に浮かべるだけでも肌の調子が良くなるそうだよ。入っていくかい? お嬢さん」
「いえ、これだけ頂いたんですもの。家に帰ったら試してみます」
湘子さんは満足そうだ。
「そうかい」
父も母と目を合わせ、そっと微笑む。
「佐鳥くんはもらっていかないのかい?」
夜間瀬先生が珍しく好奇心溢れる様子で花びらを欲しがるから、私は迷って首を傾げる。
「華南、先生は滑らかな肌がお好きなようね。可愛らしい方」
ふふふ、と母は笑うが、先生は澄ました様子でカバンから瓶を取り出す。
「少し頂いていきます」
「まあ、準備がよろしいこと」
「研究者はいつも持ち歩いているものですよ」
「そう思っておきますね」
先生は手のひらほどの大きさの瓶に花びらを詰めるとしっかりと蓋を閉じる。それをカバンに戻して、湘子さんに声をかける。
「そろそろ帰ろうと思っていたところだが、途中まで送ろうか」
「はい、喜んで」
湘子さんがすぐにそう返事をすると、花びらの回収を父に任せたまま、母は庭を出ていく。
その背中を先生と湘子さんは追う。振り返ると、父がゆったりと左右に手を振っている。
私もすぐに前方へ視線を戻し、軽やかに歩く先生についていく。
玄関へ行くと、すでに私たちの荷物はまとめて置かれていた。
先生の運転してきた車も玄関前に運ばれている。
「またいらしてくださいね。先生がお越しになると、佐鳥の姫たちがとても賑やかしくて」
「悲しい運命を背負った姫たちの憂鬱が少しでも和らぐなら」
「少しどころか」
母はそっと笑んで、それ以上は口にすることなく、荷物を持ち上げる私たちを見守る。
「行こうか、佐鳥くん」
先生に促されて私たちは母へ別れの挨拶を済ませると、車へ向かった。
トランクへ荷物を乗せ、私は助手席に座るが、湘子さんは桜の入った袋を大事そうに抱えているため、後部座席に促されても文句の一つも言わない。
よほど貴重な桜なのだろうか。
私は生まれ育った御簾路のことを本当に何も知らない。
夜間瀬先生は無言で運転席に乗り込むと、すぐに車を発車させる。
「季節外れの桜とは、なかなか粋なことをするね、貞華は」
しばらく車を走らせたところでようやく口を開いた先生はそう言った。
「貞華様ですか? 吉継様ではなく」
「吉継にそんな力はないだろう。凡子さんの様子からすると、ああいうことが起きるのは初めてではなさそうだしね」
「私、全然知らなくて」
「佐鳥くんは素直だからね。不可思議な現象を他言してはならないと釘をささなくてもいいように、余計なことは知らせずにいたのかもしれない」
「まるで私がおしゃべりみたいです」
「そう見えなくもない」
夜間瀬先生はおかしそうに目尻を下げると、バックミラー越しに湘子さんを見る。
「そこの信号を越えると御簾路を出る。君もこの地に出入りする時は、何も後悔のないよう覚悟した方がいい」
それはもうここへは来るな、という牽制だったのかはわからないが、湘子さんが何かを答える前に、車は青信号の道を止まることなく進んでいく。
そして、交差点を渡り終えた時、後方から湘子さんの「あ……っ」と驚く声が聞こえてきた。
思わず振り返った私の目に飛び込んできたのは、しぼむ袋。袋いっぱいの桜の花びらが、湘子さんの手の中で消えていく。
「先生っ、知ってたんですかっ?」
ショックを隠し切れない湘子さんとミラー越しに目を合わせて、珍しく彼は声を立てて笑う。
「清丈さんが風呂に入っていくか? と聞いた時に薄々とね」
「そんなっ! せっかくの美肌の素が……」
がっくりと肩を落とした湘子さんだが、すぐにハッと背筋を伸ばし、私の方に身を乗り出してくる。
「佐鳥さんならまた手に入れられるわよね?」
「幻の桜を咲かせることができるのは私ではありませんから」
「にべもないのね。いいわ、別に。一瞬でもあなたに期待できると思った私が馬鹿だったわ」
「わかって頂けたならそれで」
御簾路のことは、十三代当主である凡子が実権を握る。今の私にはどうすることもできないのだ。
「横土里くん、ここから一番近い駅まで送るよ」
拗ねる湘子さんに先生が声をかける。
「え、近くですか?」
「途中まで送ると言ったはずだよ」
「私、大学近くに住んでます」
「そう。初耳だね」
夜間瀬先生はしれっとそう言うと、いくつか道を曲がった先に見えてきた小さな駅へと向かう。
湘子さんは駅に到着すると、無言の先生に取りつく島もなく、渋々といった様子で車を降りた。
「先生、大学近くなら家まで送っても良かったんじゃないですか?」
不服そうに改札口へと入っていった湘子さんを見送った後、私がそう尋ねると、先生は私のほおをそっと撫でる。
「少しでも早く二人きりになりたい。君はそう思わなかったのかい?」
「本当にこんなにも頂いていいんですか?」
ビニール袋いっぱいの桜の花びらを両手に抱えた湘子さんは嬉しそうだ。
「ええ、どうぞ。お役に立つかはわかりませんが」
母の凡子は愉快げに目尻を下げ、庭に積もった桜の花びらを木箱に集める父の清丈に視線を移す。すると、促されたかのように父が言う。
「お風呂に浮かべるだけでも肌の調子が良くなるそうだよ。入っていくかい? お嬢さん」
「いえ、これだけ頂いたんですもの。家に帰ったら試してみます」
湘子さんは満足そうだ。
「そうかい」
父も母と目を合わせ、そっと微笑む。
「佐鳥くんはもらっていかないのかい?」
夜間瀬先生が珍しく好奇心溢れる様子で花びらを欲しがるから、私は迷って首を傾げる。
「華南、先生は滑らかな肌がお好きなようね。可愛らしい方」
ふふふ、と母は笑うが、先生は澄ました様子でカバンから瓶を取り出す。
「少し頂いていきます」
「まあ、準備がよろしいこと」
「研究者はいつも持ち歩いているものですよ」
「そう思っておきますね」
先生は手のひらほどの大きさの瓶に花びらを詰めるとしっかりと蓋を閉じる。それをカバンに戻して、湘子さんに声をかける。
「そろそろ帰ろうと思っていたところだが、途中まで送ろうか」
「はい、喜んで」
湘子さんがすぐにそう返事をすると、花びらの回収を父に任せたまま、母は庭を出ていく。
その背中を先生と湘子さんは追う。振り返ると、父がゆったりと左右に手を振っている。
私もすぐに前方へ視線を戻し、軽やかに歩く先生についていく。
玄関へ行くと、すでに私たちの荷物はまとめて置かれていた。
先生の運転してきた車も玄関前に運ばれている。
「またいらしてくださいね。先生がお越しになると、佐鳥の姫たちがとても賑やかしくて」
「悲しい運命を背負った姫たちの憂鬱が少しでも和らぐなら」
「少しどころか」
母はそっと笑んで、それ以上は口にすることなく、荷物を持ち上げる私たちを見守る。
「行こうか、佐鳥くん」
先生に促されて私たちは母へ別れの挨拶を済ませると、車へ向かった。
トランクへ荷物を乗せ、私は助手席に座るが、湘子さんは桜の入った袋を大事そうに抱えているため、後部座席に促されても文句の一つも言わない。
よほど貴重な桜なのだろうか。
私は生まれ育った御簾路のことを本当に何も知らない。
夜間瀬先生は無言で運転席に乗り込むと、すぐに車を発車させる。
「季節外れの桜とは、なかなか粋なことをするね、貞華は」
しばらく車を走らせたところでようやく口を開いた先生はそう言った。
「貞華様ですか? 吉継様ではなく」
「吉継にそんな力はないだろう。凡子さんの様子からすると、ああいうことが起きるのは初めてではなさそうだしね」
「私、全然知らなくて」
「佐鳥くんは素直だからね。不可思議な現象を他言してはならないと釘をささなくてもいいように、余計なことは知らせずにいたのかもしれない」
「まるで私がおしゃべりみたいです」
「そう見えなくもない」
夜間瀬先生はおかしそうに目尻を下げると、バックミラー越しに湘子さんを見る。
「そこの信号を越えると御簾路を出る。君もこの地に出入りする時は、何も後悔のないよう覚悟した方がいい」
それはもうここへは来るな、という牽制だったのかはわからないが、湘子さんが何かを答える前に、車は青信号の道を止まることなく進んでいく。
そして、交差点を渡り終えた時、後方から湘子さんの「あ……っ」と驚く声が聞こえてきた。
思わず振り返った私の目に飛び込んできたのは、しぼむ袋。袋いっぱいの桜の花びらが、湘子さんの手の中で消えていく。
「先生っ、知ってたんですかっ?」
ショックを隠し切れない湘子さんとミラー越しに目を合わせて、珍しく彼は声を立てて笑う。
「清丈さんが風呂に入っていくか? と聞いた時に薄々とね」
「そんなっ! せっかくの美肌の素が……」
がっくりと肩を落とした湘子さんだが、すぐにハッと背筋を伸ばし、私の方に身を乗り出してくる。
「佐鳥さんならまた手に入れられるわよね?」
「幻の桜を咲かせることができるのは私ではありませんから」
「にべもないのね。いいわ、別に。一瞬でもあなたに期待できると思った私が馬鹿だったわ」
「わかって頂けたならそれで」
御簾路のことは、十三代当主である凡子が実権を握る。今の私にはどうすることもできないのだ。
「横土里くん、ここから一番近い駅まで送るよ」
拗ねる湘子さんに先生が声をかける。
「え、近くですか?」
「途中まで送ると言ったはずだよ」
「私、大学近くに住んでます」
「そう。初耳だね」
夜間瀬先生はしれっとそう言うと、いくつか道を曲がった先に見えてきた小さな駅へと向かう。
湘子さんは駅に到着すると、無言の先生に取りつく島もなく、渋々といった様子で車を降りた。
「先生、大学近くなら家まで送っても良かったんじゃないですか?」
不服そうに改札口へと入っていった湘子さんを見送った後、私がそう尋ねると、先生は私のほおをそっと撫でる。
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