非才の催眠術師

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まわり始める運命の時計

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 真咲さんは写真を片付けると、今度はビジネスバッグからファイルを取り出す。そこから何枚か書類を引き抜き、目を通し始める。

 今週の予定と銘打ってある時間割のような表はスケジュールに見えるが、白紙の部分がほとんどなくて、過密スケジュールであることは間違いなさそうである。

「今日は日曜日ですか?」

 思わず尋ねた。今日は真咲さんに時間の余裕があるように見えたからだ。

「あ、いえ、土曜日ですよ。今日は補講もなくて、珍しく俺指定の診療も予約が入っていないので、こうしてひまそうにしているわけです。夕方はドクターと移転に伴う会食があるので、もうそろそろ行かなくてはいけませんが」
「古谷さんがおひまなら、たいていの人は毎日ひまを持て余してますね。忙しいのはいいことだけど……、あんまり無理しないでください」

 真咲さんの身体を気遣うようなことを言ってしまって恥ずかしくなる。彼もそう受け取ったのだろう、心なしか嬉しそうに目を細める。

 職業柄、気難しかったり、身の回りがだらしなくて、看護師や患者に対して態度が横柄な医師を何人か見てきたけれど、真咲さんはそのどれにもあてはまらない気がする。

 いたのだ。こんなに優しそうに微笑んでくれる医師が他にも。

「がむしゃらになんでも頑張らないようにしています。ほんの少し美味しいものが食べれて、ほんの少し欲しいものが手に入る生活が出来るなら、住む家も仕事もほどほどでいいんです」
「一番ぜいたくみたい」
「そうですね。そうかもしれません。でもそれが当たり前な生活だと幸せですね」
「私は……そんな当たり前な生活も出来てないので……、立派なこと言えなくて」
「休むことも大事ですよ。何も恥じることはありません。何十年と続く人生のたった一年です。一日として考えれば、こうして悠紀さんとお茶をするほんのささいなひとときぐらいの休憩です。これは俺の人生にとって、とても大切な時間だと思いますよ」
「……大げさな話するんですね。私、立ち止まってたらいけないって焦ってばっかりで。でも何もやれなくて」

 素直な気持ちを吐露する。先ほどから私はじょう舌だ。こんな風に話せるのは、相手が真咲さんだからだろうか。

「まずは一歩踏み出してみてもいいかもしれません。どうでしょう。俺のクリニックに来てみますか?」

 真咲さんは真っ直ぐに私を見つめてそう問う。

「え……っ」

 私は驚きをあらわにしてしまう。頭の中に催眠療法という言葉が浮かぶ。それに対しての思いは戸惑いしかなくて。

「誰にでも効果のあるものじゃないことはわかってます。効果がなければ、高額の費用を払うだけ払って、合わなかったんだと帰されることも知ってます。だいたい私、そんな診療費を払うお金もなくて」

 だからずっと悩んで、ずっと落ち込むばかりの生活をしてきた。

 少しだけ上を向いてみようと思い始めた矢先に真咲さんが現れて、私はやはり受け入れたい気持ちとそうでない気持ちの板挟みの中にいる。

「そういったことは話すまでもないことです。俺は日本で心理学を学び、海外で催眠療法のトレーニングを積んできました。幸い、有能な心療内科のドクターに出会い、こうして今の生活があるだけですが、こんな俺でも必要としてくれる患者はいます。悠紀さんにも支えてもらえるなら、こんなに素晴らしい出会いはないと思ってます」
「私が支える、って……」

 まるでどこかで聞いたプロポーズのようだ。

 落ち着かない気分というより、真咲さんの言葉に現実味がなくて、ぽかんとしてしまう。

 同時に私は彼となぜこんな話をしているのだろうと疑問に感じている。何かが変だ。でも何が変なのかよくわからない。

「働いてみますか? うちのクリニックで」
「え……」
「悠紀さんにとって悪い話ではないと思います」

 驚きは続く。目の前の彼が意図することが私にはまだ見えていない。

「働くって……。患者としてクリニックに来いと言ったわけじゃないの?」
「では、患者として来ますか?」

 真咲さんの目が急に真剣なものになるから、ますます戸惑う。自分がどうしたいのか、どうされたいのか、まだ何もわからないのだから。

「古谷さんの目には、私は診療を受けた方がいいように見えるんですね……」
「悠紀さん……」

 ため息を漏らすと、真咲さんは後悔するみたいに切なげに眉を下げる。

「可愛くないでしょう? 私。だからみんな、私を捨てるの」

 わかったでしょう? というように私は立ち上がる。ついで真咲さんが慌てて立ち上がるのに気づき、彼から逃げ出すようにリビングを飛び出した。
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