非才の催眠術師

つづき綴

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まわり始める運命の時計

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『悠紀ちゃん、今日から私と暮らすことになったのよ。お姉さんは少し具合が良くなくて、もうここでは暮らせなくなってしまったの』

「お兄ちゃんは……?」

『ほら、遼くんはもう大学生だから。お姉さんは悠紀ちゃんにお友だちのいる中学校に通わせたいの。だから、ね。私と暮らそう?』

「……いつ、退院するの?」

『退院したら、悠紀ちゃんを迎えに来てくれるから。そうしたら、また一緒に暮らせるから』

 小学校からいつものように下校した私を出迎えたのは、お母さんではなくママだった。

 あの時のママの顔だけははっきりと覚えている。他のことはおぼろげな記憶になって、いつしか消えたり、違う記憶にすり替えられてしまっているだろうに、あの時のママだけは覚えている。

 ママは苦しげで、切なげで、でも私をなぐさめようと必死で、そのもれ出る感情を隠すかのような笑顔を浮かべていた。

 だから中学校の入学式にママは言ったのだ。

『もうお姉さんは帰らないの。お父さんとも遼くんとも会いたいなんて思ったらだめよ、悠紀ちゃん。だって……、だってお父さんや遼くんは悠紀ちゃんの本当の家族じゃないから……』






 ハッとまぶたをあげたら、揺れるカーテンが視界に入る。カーテンの隙間から朝日が漏れ出て、奥からミカドが顔を出す。

 前にもどこかで体験したような光景だった。

 私は机から顔を上げる。しおりが挟まれた読みかけの小説は几帳面に机の上に置かれ、私の手には写真が一枚握られている。

 時間が、巻き戻ったわけではないのだろうか……。

 嫌な記憶だ。家族を失った日のことを思うと、あの日に帰りたいと願う。幸せだったあの頃に戻りたい。

 そう願う時はいつだって時間の歪みを感じる。

 重たい頭を持ち上げて立ち上がると、ミカドが心配そうに足元へやってくる。そしてジーンズに爪を立てないように立ち上がり、私の握りしめる写真に鼻を近づける。

 兄と真咲さんの写真だ。
 昨日、真咲さんにもらった。本当に昨日だろうか。もしかしたら最初から持っていた写真で、真咲さんからもらったことすら、私の偽りの記憶かもしれないなんて考え始める。

 コトリ、と音がして振り返る。

 ママの手がくぐり戸から差し込まれ、フードボウルが部屋に置かれる。

「悠紀ちゃん、おはよう。食事の用意はしてあるから食べてね」

 毎朝同じ文言を言うママの機械的な声が耳に届く。ママの立ち去る足音が聞こえて、私はとっさにドアを開けた。少し驚いて振り返るママに私は問う。

「今日は日曜日?」
「……え、ええ、そうよ。日曜日よ、悠紀ちゃん」

 ママは何事かと目を見開いたまま、そううなずく。

「12月2日?」
「ええ。ええ、そう」

 私は肩の力を抜く。やはり時間は戻っていなかった。

「ありがとう……」

 そう言って部屋に戻ろうとすると、ハッとしたママが私を呼び止める。

「ああ、そうだわ。悠紀ちゃん、古谷さんを呼んできてくれる? 今はクリニックで片付けをしてるみたい。一緒に朝ごはん、食べたらいいわ」
「一緒に……?」

 ため息まじりの声が出る。身体がだるい。朝ごはんを食べる気力もない。思い出したくもない出来事の夢を見たからだろうか。

「あら……、写真?」

 ママの視線が私の手に集中する。

「……古谷さんと、遼くん?」

 ママは私の手首を取り、写真を上に向かせる。私に向けられるのは、ハツラツとした笑顔の男子学生二人の視線。そして複雑そうなママの視線。

「古谷さんがくれたの。私には思い出の写真がないからって……。ごめんね、ママ」
「どうして謝るの」

 そんなこと言いながら、ママは困り顔だ。ママは嫌なのだ。私が過去に、家族に触れることを嫌がってる。

「お兄ちゃんは……」

 元気にしてる? と聞きたかったけれど、言葉になる前にため息が出て、言葉にならない。

「悠紀ちゃん……」

 ママが私の肩に手を伸ばし、何かを言いかけた時、静かでゆっくりとした足取りで階段を上ってくる足音がする。

「ああ、悠紀さん、今から朝食ですか?」

 階段を上がってきたばかりの真咲さんは、ママに少しだけ頭を下げると、私に優しく微笑んだ。

「そうなの。今ね、古谷さんを呼びに行こうと思っていて。悠紀ちゃん、あとはお願いね」

 階下から、「ママはいるかー?」と常連客らしき男性の声がして、ママは「はーい!」と返事をしながら階段を駆け下りていく。

「お忙しいですね。朝食は必要ないと言ったのですが、一人も二人も変わらないからと作ってくれるようです」

 真咲さんはそう言って、二階へ降りるとリビングへと入っていく。

 不思議と違和感がなくて戸惑う。この家に真咲さんがいることも、彼との会話で感じる空気感も。兄と同い年だからだろうか。それともやはり真咲さんだからだろうか。

「ああ、美味しそうなみそ汁です。具だくさんのみそ汁は好きなんですよ」

 真咲さんはキッチンに立ち、勝手知ったる場所のように手際よくみそ汁をお椀につぎ、ごはんをお茶碗に盛る。

 あらかじめ用意されているいくつかの惣菜を小皿に盛ると、リビングテーブルの上へと運んでくれる。

「ママの料理が口に合うみたいですね」
「作って頂けるものはありがたくちょうだいします。外折さんの作る食事が特別というわけじゃないですよ」

 ママに好意があるのか? と疑った私の発言を意識してか、真咲さんはうっすらと笑って続ける。

「外折さんが結婚するのは反対ですか?」
「え、ママが……? あんまり考えたことはないけど、でも古谷さんみたいに若い人と結婚するのは想像がつかなくて」
「そうですか。若いと思ってもらえるんですね」
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