非才の催眠術師

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かからない魔法とめざめる奇跡

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 真咲さんのいない生活は何か物足りない寂しさがあった。以前だって、それほど頻繁に会っていたわけではないのに、彼の気配がないのは物哀しい。

 毎日兄の遼と真咲さんの写真を眺めて過ごした。

 真咲さんに抱きしめられた身体の記憶も遠い記憶だ。彼は医師だから、私と結婚なんて出来るはずない。付き合うことが出来たとしても、結婚を考え出した途端に引き裂かれる恋なんて私にはたえられない。

 私にはママがいる。ミカドがいる。それ以上を望む必要などどこにあるだろう。

「ミカド……、お兄ちゃん、どこで何をしてるんだろうね」

 写真立てを一緒に覗くミカドに声をかける。

 クリスマスイブに真咲さんと出かけた翌日からミカドは私からぴたりとくっついて離れなくなった。あの日の夜、ミカドはママの部屋で過ごしたから、私がいなくなったのだと不安に思ったのかもしれない。

「ミカドはずっと一緒にいてね……」

 ミカドを抱きしめる。彼はジッとしている。私をなぐさめる方法がわからなくて戸惑っているみたいに体を固くしていた。





 カレンダーの3の文字にバツを打つ。今日は真咲さんが帰ってくる日だ。

 少しばかり落ち着かない。どんな顔をして彼に会えばいいだろう。告白もなかったことにして欲しいと言った彼を思えば、普段通りでいいのだと思う。だけどその普段通りが、私にはまだ難しい。

 引き出しから小箱を取り出し、蓋を開ける。

 そこに納められたのは、ピンクゴールドのリングに、ダイヤモンドが品良く鎮座する指輪。

 どんな思いで真咲さんは指輪を私にプレゼントしてくれたのだろう。

 指輪をそっと指にはめてみる。わずかにリングは大きい。それも真咲さんがそれで大丈夫だと言ったからだ。

 私に指輪に合う体型に戻って欲しいとの願いだっただろうか。こんなやせぎすな身体、誰も抱きたいだなんて思わないだろう。少なくとも真咲さんは嫌だったのだ。

 私は指輪を箱に戻し、コートのポケットに入れた。そしてリビングへ向かい、ミカドを探す。

「悠紀ちゃん、お昼ごはん用意したから、後で食べてね」

 キッチンには昼食の準備をするママがいた。彼女の足元に視線を落として、辺りを見回す。

「ミカドは?」

 てっきりリビングに来ているものだと思っていたが、ミカドの姿がない。

「ミカド? 来てないわよ」
「来てない? だってさっき、部屋から出て……」
「お店の方かしら? いいわ、一階の方は探しておくから。悠紀ちゃんはお出かけするの?」
「あ、うん……。欲しいものがあって。ミカドと一緒に行こうと思ったんだけど」
「商店街で買い物? 三が日はどこも閉まってるわよ。せっかくだからデパートに行ってきなさいよ。ミカドはママに任せて」
「でも……」

 ママは外出する私が嬉しいのか、どんどんと話を進めてしまう。

「あとね、悠紀ちゃん。さっき古谷さんから連絡があって、夕方には帰るそうよ。夕食は一緒に、ですって」
「……そう」
「夕食、一緒に作らない? 準備はしておくわ。ミカドも古谷さんが帰ってくるから隠れてるのかもしれないわね」
「そう、かな……」

 ミカドが真咲さんから身を隠す理由もないけれどと思うが、彼が勝手に外に出たりすることはないと知っているから、ママの好意に甘えることにする。

「じゃあ、ちょっと行ってくるね。すぐに帰るから」

 そう言って、私はコートのポケットに箱があるのを確かめてリビングを出た。

 ママの言う通り、商店街は閑散としていた。最近は元旦から営業する店も多く、この商店街も同様だと思っていたが記憶違いだったようだ。

 マフラーに顔をうずめて駅前のデパートへ向かう。周囲の賑やかしい雰囲気には圧倒される。場違いなところへタイムスリップしたような、私はここにそぐわない気がする。華やかな世界は外から眺めるだけでじゅうぶんだ。

 デパートに到着すると、アクセサリーショップを探した。幸いにも案内看板を見つけるよりも先に、入り口の横にあるアクセサリーショップはすぐに見つかった。

 用事が済めば、すぐさま帰りたい。私は早足でショップに入り、コートのポケットから小箱を取り出した。

 私より年下に見える女性店員は福袋の販売に力を入れている。声をかけるのも気後れして、ざわざわとした店内の奥へと進み、店内の様子に監視の目を光らせている店長らしき店員を見つけた。

「あの……」

 小箱から指輪を取り出して、店員に声をかける。正月商戦の大変な中、わずらわしいお願いをしようとする私は邪険にされることも覚悟したが、女性店員はゆったりと私に歩み寄ってくれた。

「どうされましたか?」
「指輪……、あの、指輪をネックレスにしたくて」

 手のひらに指輪を乗せて女性店員に見せる。その手の先には、店長と印刷されたネームプレートが下がる。

「ネックレスに、というと、チェーンに通してって感じでよろしいですか?」

 店長はすぐに私を店内の喧騒から離れた対面のテーブルへ案内してくれる。

「ではお預かりしますね」

 店長は白手袋をはめるとジュエリートレイの上へ私の指輪を乗せた。

「こちらでお求めのものではなかった、ですね?」
「あ、すみません……。お店の名前は忘れちゃって……」

 真咲さんに勧められるままだったから、店名どころか、どこで購入したかもわからない。

「まだ新しいですね。プレゼントですか?」
「……はい。サイズが合ってないし、はめるのもちょっと。でも、捨てられないので……」
「そうですか。大切な指輪なんですね。ネックレスにするとなると……ちょっと待ってくださいね」

 さらりと大切な指輪と言ってもらえて、私の胸は熱くなる。そう、これは大切なものだ。真咲さんの気持ちには応えられなかったけど、大切にしたいものだ。

「リングホルダーっていうのがあるんですけど」

 店長はそう言って、チェーンの先に付いているリングを私に見せてくれる。

「このホルダーでリングをはさむ感じで止めて、ホルダーにチェーンを通す形になるんです」
「指輪が傷つきにくいですか?」
「直接チェーンを通すよりは。材質にもよりますけど」
「種類って……」
「いろいろございますよ。シンプルでとても可愛らしいリングだから、チェーンも細身のものがいいかもしれませんね」
「じゃあ、おすすめのものを見せてください」

 そう言うと、店長は見本を取りに行くと言って席を外す。私はうつむきながら、ぼんやりと店長が戻るのを待った。

『ゆき……』

 私はハッと顔を上げて辺りを見回す。どこからか私の名を呼ぶ青年の声が聞こえた気がした。

 頭に浮かんだのは敬太だったが、彼がいるはずもなく、周囲は依然として雑然としていて、私を注視するような人はいなかった。




「いかがですか? 可愛らしくてよくお似合いですよ」

 鏡を向けられて、やせぎすな自分の顔を直視できず、思わずうつむく。

 店長に勧められたチェーンはプラチナのものだったけれど、私の胸元で揺れる指輪をつなぐのはシルバーチェーンだ。

 シルバーで充分な私に不似合いな品の良い指輪は、もったいないぐらい高価なものだ。真咲さんの思いがつまった指輪なのだと今更気づく。同時に彼の思いに応えなくてよかったのだとも思う。彼が傷つく姿なんて見たくない。

「これで、大丈夫です。このままつけて帰りたいんですけど」

 私はそう言って、財布を取り出す。

 真咲さんの選んでくれた財布。かばんもコートも、私を包むものすべてが、彼の選んだもの。彼に抱きしめられているみたいだ。こんなにも優しくしてもらっていたのに、彼に愛されてると、どうして気づかなかったのだろう。

 私は料金を支払うと、笑顔の店長に見送られながらすぐにショップをあとにした。

 そのままデパートを出る。早く帰りたくて足早になりながら駅前に向かう。やがて見えてきたスクランブル交差点の奥に商店街のアーケードが見える。家はもうすぐそこだ。

 交差点に一歩足を踏み込むと、青信号が点滅を始める。渡り切れる気がしなくて、足を後ろへ下げようとした時、私は「あ……っ」と声を上げた。

 前方を横切る黒髪の青年に目を奪われる。ふわっとした短髪に手を置き、人波に乗れずぶつかりそうになりながら歩む彼の足取りには迷いがある。

 目的地はわかっているのに、行き方がわからなくて探しているような戸惑いに満ちた足取りに、見ている私がひやひやする。

 私は青信号の点滅する交差点に飛び込んだ。人波に流されていく青年の後ろ姿を追う。

 一歩、二歩と近づく。手を伸ばす。もう少しで届く。

 チャコールグレーのコートに指が触れる。もう一歩踏み込んで、私はその腕にしがみつく。

 交差点を渡り切った時、信号は赤信号になり、その場に私と青年だけが取り残される。

「……ゆ、き」

 青年は私の名を呼んで、私の髪に手を伸ばす。その指が私の髪をなでた途端、涙があふれ出てくる。

「お兄ちゃ……ん」
「悠紀……」
「お兄ちゃん……っ」

 私はしゃにむに青年に抱きつく。

 もう兄を失いたくない。この手を離したら、また大切な人を失うんじゃないかと思って、しっかりと兄の背中を抱きしめた。
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