非才の催眠術師

水城ひさぎ

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かからない魔法とめざめる奇跡

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***


 夢川千秋は長いストレートの黒髪をかきあげ、奇抜なサングラスを持ち上げて、私の顔をジッと見るなり、「この間の」と言った。

「古谷先生が決めてた人ってあなたなんだ?」

 千秋はぶしつけにそう言うと、申込用紙を私から奪うように受け取り、カウンターに寄りかかったまま記入を始める。

 彼女のせっかちなペンの動きを視線で追う。夢川千秋。29歳。住まいはここから近い。電話番号を書こうとした指がふと止まり、彼女はゆっくりと私に目を移す。

「必ず電話は古谷先生からかけて」
「……はい、わかりました」

 千秋に気おされて、声が震えてしまう。明らかな彼女の敵意が私に向いているのを感じる。

「頼りないわね、あなた。それで先生の助手が務まるの?」

 電話番号を走り書きして、申込用紙を突き返してくる千秋は、首から下がる私のネームプレートに視線を落とす。

「古屋悠紀?」
「あ、はい……」
「古屋、ゆき……。どこかで聞いたことある名前ね。あなた、この辺の人?」

 千秋はサングラスを外すと、けげんそうに私の顔を覗く。細いあごが特徴的な綺麗な顔立ちの彼女に見つめられると身がすくむ。

 こんな綺麗な人が知り合いなら忘れないだろう。たとえ患者だったとしても。彼女が私を知っているなんて思えない。

「一応、地元です……」
「古屋っていうぐらいだものね。古谷先生とは親戚じゃないわよね?」
「親戚ではないです」
「ふーん。……ま、あなたみたいな人のこと考えてても時間の無駄ね。古谷先生はまだかしら?」

 千秋がそう言った時、診察室から真咲さんが現れる。ドクターの白衣を着た彼にはまだ慣れない。どきりとしてしまうのは、真咲さんだからか、それとも白衣姿の彼にか。

「夢川さん、お待たせしました。急な移転でご迷惑をおかけしましたね。だいぶクリニックの雰囲気は変わりましたが大丈夫ですか?」
「あっ、古谷先生っ。先生に会いたくて来ちゃいました。連絡待ってたのに、全然くれないんだもの」
「すみません。忙しいことを理由にしてはいけませんが、多忙続きで」

 千秋はすぐに真咲さんに駆け寄る。彼はそっと距離を取るが、彼女はかまわず近づいていく。

「先生のお手伝いならいくらでもします。頼りない助手みたいだし、私、心配で」
「頼りない助手? ……ああ、古屋さんのことですか。まだ開業したばかりで慣れないこともありますが、優秀な方ですから、気になることがあればなんでも相談されるといいですよ」
「相談相手は先生だけでいいの」
「そうですか。では中へどうぞ」

 真咲さんに心酔する千秋の様子はいつものことだろうか。彼は困る様子を見せずに微笑すると、彼女を連れて診察室へと入っていった。





 真咲さんが患者にかける診察時間は通常一時間だった。だが夢川千秋が診察室に入ってから、もう一時間半が過ぎようとしている。

 呼ばれなければ私が診察室へ入ることはない。しかし一時間半を越えて診察する患者は初めてで落ち着かない。

 受付を出て、診察室の前を通ると、わずかに話し声が聞こえる。世間話でもしているような、楽しげな笑い声も漏れてくる。

 千秋は真咲さんに会いに来ただけだ。それを目のあたりにした気がする。そして彼もそれを承知していて受け入れている。

 受付へ引き返そうとした私は、ふと足を止めてクリニックの入り口に視線を向けた。見知った人が商店街を通りすぎていった気がして、ガラスドアを開けて左手を覗く。そこには人波にまぎれる知った背中があった。

「お兄ちゃん……っ」

 私は外へと飛び出した。少しだけ私の声に反応して振り返った兄の遼が早足になるから、ナースシューズのままと気づいたけど、そのまま商店街を走り出す。

「お兄ちゃん、待って!」

 遼の背中を追いかける。早足だった遼の背中にだんだん追いつく。歩をゆるめている。私からはもう逃げられないと諦めたかのように、私が追いついた頃には彼は立ち止まっていた。

「お兄ちゃん……、うちに来たの?」

 息を弾ませながら尋ねる。遼は申し訳なさげに眉を下げて、私を見下ろす。

「私……、お兄ちゃんに会いたくて」

 私はそっと遼の腕に手を伸ばす。触れたら、彼はびくりと体を震わす。

「悠紀、違う、ダメなんだ……」
「違うって? ダメって何が? お母さんは私に会ったらダメっていうの?」
「そうじゃない。俺は悠紀の兄になりたいなんて望んだわけじゃなくて……」

 遼は絶望するように目をぎゅっと閉じる。

「とにかく……、もう悠紀には会わない」

 拒絶するように吐き出した息が悲しかった。私は遼をつかんでいた手をそっと下げる。

「お兄ちゃんは……、私がいると迷惑なんだね」

 迎えに来てくれたわけじゃなかった。遼は私を妹として受け入れることを拒んだ。わかっていたことじゃないか。ばらばらになった家族が元通りになる日が来るなんて、そんなこと……。

「悠紀……」

 遼は私の手をそっと握るが、すぐに首を横に振ってうつむく。苦しげな兄を見ていられない。だから私は笑顔で言う。

「わかってるよ、お兄ちゃん。私は……、幸せなんだよ、ママと一緒にいられて。だからもう昔に戻りたいなんて本当は思ったらいけないって知ってるから、会うのはこれが最後だよ」

 そう言ったら、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

 私の心は幼い。家族を失ったあの日から成長が止まっているかのようだ。

 過去を取り戻せるなら、あの日に戻りたい。

 どうして?
 って言えば良かった。

 どうして私を置いていくの?
 どうして今まで通り暮らせないの?
 どうして?

 って。

 なぜ私は聞き分けのいい子供でいたのだろう。

 すべてを失うぐらいなら、欲しいものは欲しいと言うべきだった。家族も、敬太も……。

「お兄ちゃん……」

 気づくと目の前から兄はいなくなっていた。

 私を置いて行ってしまった。もう二度と会うことは出来ないだろう。

 私が拒んだのだ。もう会いたくないと、兄の気持ちを推し量ったようなつもりで、いい顔をした。

 来た道を戻る。足取りが重い。自分が何をしているのか見失いそうだ。

 視線を落とすと、汚れたつま先が目に入る。ナースシューズでこんなところまで来てしまった。仕事もほったらかしにして、私は何をしているのだろう。

 みじめな気持ちになりながらクリニックのドアを開けた私は、入り口に足を踏み込むと同時にハッと息を飲んだ。
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