非才の催眠術師

水城ひさぎ

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かからない魔法とめざめる奇跡

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 白衣の上にコートを羽織った真咲さんが、クリニックの鍵を持って目の前に立っていた。不安そうな彼は私を見つけるとともに、眉をひそめていく。

「どこに行ってたんですか。心配しましたよ」
「……すみません」

 頭を下げる。足元に千秋の靴はなかった。もう帰ったのだ。診察を終えた後、私がいないことに気づいた彼の気持ちを思うと情けなくなる。

「私……なんの役にも立たなくて……」

 涙がたまらず溢れてくる。

 私はずっといらない子だった。これからもずっといらない子だ。

 そう自分を責める。なんのために生きているのか。私なんていなくても誰も困りはしないのに。関わったために、私は彼を困らせている。

「悠紀さん……」

 涙をぬぐう私の後ろに回り込んだ彼は、クリニックのドアを閉めるとロールカーテンを下ろす。私の肩に手を乗せ、「座りましょう」と待合室のソファーへといざなう。

「寒かったですね……」

 真咲さんはコートを脱ぐと、私の肩にそっとかけてくれる。彼のぬくもりに体が震える。

 ソファーへ座る私の前にひざをつく彼は、ハンカチで私の頬をぬぐってくれる。

「古谷先生……」

 彼の腕にそっと触れる。抱きしめてほしい。そう思うけど、安心したくて彼を求めるのは間違っている。ひとりよがりな思いに苦しみながら、私はやはり一歩踏み出せなくて、すぐに彼の腕を押し返す。

「どうしましたか? 診察中でも、何かあれば声をかけてくれていいんですよ」

 優しい彼の眼差しで私は次第に落ち着いていく。

「お兄ちゃんと話をしていたんです」
「遼? 遼が来たんですか?」

 私はゆるりと首をふる。

「ドアからお兄ちゃんの姿が見えて。それで、追いかけて……」

 仕事中だったのだから追いかけるべきではなかった。社会人として未熟な私を見つめる彼の目には憂いが浮かぶ。

「でももう、二度としません……」
「悠紀さんには遼が必要ですね」

 私はめいいっぱい頭をふる。

「もう、お兄ちゃんには会いません。お兄ちゃんは私に会いたくないから……」
「悠紀さんは会いたいのに? どうして我慢を?」
「昔のことは忘れたいんです」
「忘れる? 覚えてもいない過去でしょう? 忘れている記憶の中に優しい記憶もあるでしょう。優しい記憶が悠紀さんを救うこともあります」
「催眠術で記憶を呼び覚ますの? お兄ちゃんが私に優しくしてくれた過去をどんなに思い出しても、壊れた家族は戻らないのに……」
「違いますよ、悠紀さん。優しい記憶が悠紀さんをたくましくするんです。すべて受け入れることが出来たら、前に進めます」
「お兄ちゃんは私を妹として見てなかったかもしれない……」
「俺の中の遼は妹として大切にしていました」
「キスをしようとしたの……」

 私は唇に指を触れさせる。

「悠紀さん……」

 彼は息を飲む。唐突な告白にうろたえた。

「お兄ちゃんが私にそんな気持ちを持ってたから、私はお母さんに捨てられたの……」
「それはわからないでしょう? 推測に傷つくなんていけません」
「でも捨てられたのは事実でしょう? お兄ちゃんはもう私に会いたくないって。妹として見れる日が来ないからそう言ったの」
「遼が、そんな。信じられない」
「古谷先生は出来ないんでしょう? 昔の記憶を思い出させることも、お兄ちゃんが私をどう思ってたか思い出させることも出来なくて……、私を救えないんでしょう?」

 真咲さんを責めるのは間違っているのに言葉が止まらない。

「優しい記憶なんてないの。ないから……、私はこうしてここにいるの」

 私を構築するすべては、私の過去が形成したものだ。兄の愛が欲しかったのかもわからない私の過去も、もう思い出すことはできない。

「悠紀さんは遼が好きですか?」

 真咲さんは頼りなく眉を下げて、いまだ流れる涙をぬぐってくれる。

「お兄ちゃんは私のたった一人の兄弟だから……」

 血がつながっていなかったのだとしても、私が兄と呼べる唯一の人だから。愛がないわけがない。私は兄として、古屋遼が好きだったはずだ。

「私に、お兄ちゃんの優しい記憶を返して……」

 ソファーから崩れ落ちる体を真咲さんが受け止める。そっと抱きしめられたら、安堵でますます力は抜ける。彼の腕の中は居心地がいい。私を甘やかす。失いたくないと思える大切な人に抱きしめられたら、つらい記憶も乗り越えられる気がした。

「俺にはできない……」

 真咲さんが私の耳元で苦しげに吐き出す。

「愛する人に催眠をかけることができない、俺は非才の催眠術師なんです」

 私の意識は遠くなる。彼の言葉は途切れ途切れに聞こえて、目の前は闇に満たされた。
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