非才の催眠術師

水城ひさぎ

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救えなかった少女、救えたはずの少年

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 目覚めの悪い朝は私をもうろうとさせる。洗面所の水を出しっぱなしにして、髪を濡らす。つむじから広がる冷たい水が首を冷やし、全身を凍えさせていく。

「……悠紀、さん?」

 洗面所のカーテンが開き、顔を上げた。

 涙か水かわからないしずくが頬を伝い、あごから床へとしたたり落ちていく。

「悠紀さん、……ああ、冷たいですね。風邪をひいてしまいますよ」

 洗面所の前を通りがかった真咲さんはすぐに様子のおかしい私に気づき、棚から取り出したスポーツタオルで私の髪をふいてくれる。

 私はその腕をつかみ、そっと離させると、スポーツタオルに顔をうずめた。

「すみません……すみません……」

 声が震えてくぐもる。何度謝っても足りないだろう。社会人として失格なばかりか、真咲さんを困らせてばかりいる。

「悠紀さん……、そんなに謝ることはないですよ。昨日のことでしたら、何も怒っていません。ただちょっと心配にはなりますから、一声かけてもらえればそれでいいんです」

 真咲さんは私の背中を押して洗面所を出ると、暖かいリビングへと連れて行ってくれる。

 私が仕事を抜け出して兄の遼に会ったことも、その後気を失って仕事を放棄したことも許してくれる優しさが心苦しい。

「ごめんなさい。頭を冷やしたくて……」
「冷やす必要なんて。体調が優れない時は無理をしなくていいんですよ。今日は仕事を休んで大丈夫ですから、ゆっくりしていて下さい」
「でも、部屋にいると余計なことばかり考えちゃうから……」

 以前は部屋にいることが平穏を保つ術だったのに。今は部屋にいたくないと思うなんて。

「そうですか。……では散歩に出かけてはどうですか? 駅裏にドーナツ店が開業したとか。様子を見てきては?」

 真咲さんはひょんな提案をする。

「ドーナツ……?」
「明日は俺も休みですから、興味をそそるような店でしたら一緒に行きましょう」
「え……」
「飲食店ですので、ミカドくんは連れていけませんが」

 そう言って、真咲さんは少しばかり苦々しく笑う。まるで私とミカドはセットだと思っているみたい。

「あ、ミカド……。ミカドがいなくて……」
「いないですか?」
「朝はいて、ミカドの食事を取りに行ってる間にいなくなって。それで私……」
「ミカドくんがいないと不安ですね。大丈夫ですよ、彼なら。ちゃんと戻ってきます」
「最近、ミカドが変なの。前は勝手に外に出たりするようなことなかったのに」
「悠紀さんが明るくなって、行動範囲も広がりましたからね、ミカドくんも感化されたのでしょう」
「そんな、私。全然……」
「変わりましたよ、悠紀さんは。ここで初めて会った時より、ずっと綺麗です。もう、指輪ははまるんじゃないですか?」
「指輪……、指輪はなくしてしまって」

 胸元を握りしめる。トレーナーの下にある指輪の存在を確かめれば、次第に落ち着いていく。

「いつか、どこかからひょっこり出てくるかもしれません。その時ははめてください。悠紀さんにとても似合う素敵な指輪ですから」
「……そんな日が来るとは思えません」
「来ますよ、悠紀さんが信じてさえいれば。大丈夫です」

 真咲さんは断言する。私を勇気づけようと必死だ。

「古谷先生はお医者様だからそんなに優しくしてくれるんですね……」
「医師だからとか……」
「今日は先生が言うように仕事は休みます」
「そうですね、それがいいです」
「あの、先生……」

 私はようやく顔を上げて、真咲さんと目を合わす。優しく私を見つめる眼差しに、安堵感と温かな思いが込み上げてくる。

「どうしましたか?」

 彼は不安そうに私を見つめる。その瞳を見つめ返したままでは声が出そうになくて、私はやはりうつむいた。

「あの、ドーナツ、……ドーナツ見てきます。だから明日、一緒に食べてください」

 私はそれだけを言うと、真咲さんの返事を待つことができなくて、リビングを飛び出して階段を逃げるように駆け上がった。
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