非才の催眠術師

水城ひさぎ

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救えなかった少女、救えたはずの少年

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「あら悠紀ちゃん、お出かけするの?」

 私が喫茶店に顔を出すと、カウンターでお客さんとおしゃべりしていたママが私に気づいてそう言う。

「ちょっとだけ散歩に行ってこようと思って。それでミカドが……」
「ミカド? ミカドならここにいるわよ」
「え……」

 カウンターの下からミカドが現れる。私の足元に軽やかにやってくると、ゆるりとしっぽを振る。

「ミカド……、ずっとここにいたの? 心配したのに」
「今日は悠紀ちゃん、仕事じゃないの? ミカドも仕事と思ってここへ来たのかしらね。大丈夫よ、ミカドは見てるからゆっくり出かけていらっしゃい」
「ミカドはいいの? 一緒に行ってもいいよ」

 腰を屈めてミカドにそう問うが、彼はいまだしっぽを振ったまま、行儀よく座っている。

「じゃあ、すぐに帰ってくるね」

 ミカドの頭をなでて、あごの下をくすぐる。首輪に触れて、私は首を傾げる。

「ミカド、一つ飾りが取れちゃってるね」

 MIKADOと並べたアンティークのゴールドパーツが一つなくなっている。なくなったのは、Iの文字のようだ。

「どこで落ちたのかな……」
「悠紀ちゃん? 何かないの?」
「あ、うん。ミカドの首輪の飾りが一つないの。アイがなくて」
「“愛”がないなんて大変。ママも探しておくから、出かけてらっしゃい」

 ママがくすりと笑うと常連客も湧くから、なんだか恥ずかしくなる。私をジッと見上げるミカドに「行ってくるね」と小さな声で囁きかけるとすぐに喫茶店を出た。




 真咲さんにもらったドーナツ屋のオープンチラシを手に、駅のコンコースを抜ける。駅裏に来るのは久しぶりだ。少し様変わりしている。

 以前美容院があった角地に今はコンビニがあって、私は地図と見比べながら信号待ちをする。

 ふと隣に誰かが立つ。広い道だ。それほど近づかなくても信号待ちが出来るはずなのに、といぶかしく思って顔を上げると、若い青年と目があった。

 人なつこい笑顔を浮かべた青年は、グレイ混じりの茶髪で、ジーンズにダッフルコート、学生かなと思うような様相をしている。

 大きな瞳の女の子のような愛らしい顔立ちについ見惚れていると、青年は「あの……」と声を発した。

「え、……私に用ですか?」

 辺りを見回すが、信号待ちをしているのは私たちだけだ。

「ドーナツ屋を探してるの?」

 青年はやけに親しげに話しかけてくる。しかし不思議だ。嫌悪感はない。むしろよく知った友人と話しているかのように自然なこととして受け入れている私がいる。

「そう、そうなの。ちょっとよくわからなくて」
「ドーナツ屋ならあっちだよ」

 私が握りしめるチラシに視線を落とした彼はそう言う。

「あっちって?」
「一緒に行こう。俺が連れて行ってあげるよ」
「えっ!」

 驚く私の手を握り、青年は歩き出す。弾むように歩く彼の背中は楽しげで、浮かれている。

 私はこの背中を知っているような気もする。彼を包む雰囲気も、私の手を握る彼の手も。

「あの、……前にもどこかで?」

 私は勇気を出して尋ねる。忘れているかもしれない記憶をたどる。それでもすぐには思い出せない。

 青年は立ち止まると、ちょっとだけ戸惑ったような笑みを見せる。

「悠紀はわかるんだ」
「え、私の名前……」
「嬉しいよ、俺は。すごく嬉しい」

 うっすら涙を浮かべさえする青年は純粋だ。やはりどこかで会ったことがあるのだ。以前勤務していた病院の入院患者に彼のような青年がいたら忘れることはないような気がしたが、私は恐る恐る尋ねる。

「あなたの名前は?」
「……俺は」

 意外にも彼は言いよどむ。急に表情をくもらせて。しかしすぐに口を開く。

「俺は……リ、……リンだよ」

 青年はチラシを握る私の手元をじっと見たままに言う。

「リン君? ごめんね、私の名前は覚えててくれたのに思い出せなくて」
「いいよ、いいんだ。思い出せなくても仕方ないからいいんだ」

 思ったより落胆もしないでリン君はそう言うと、「ドーナツ一緒に食べようよ」と私の手を引いてまた歩き出した。




 イートインスペースのあるドーナツ屋は混雑していた。『RingRingリングリング』と店名を飾るポップな看板の前で、若いカップルや小さな子供を連れたママたちが行列を作っている。

 きょろきょろとしながらも最後尾に並ぶリン君に、私はついていく。勝手がわからず戸惑っているようにも見える。

「前にも来たことあるの?」
「さっき見に来たんだ。その時はこんなに並んでなかったんだけど」
「人気なんだね。ドーナツは好き?」

 私に弟はいないけれど、まるで弟に話すかのように尋ねてしまう。私より断然年下だろう彼は、はつらつとした可愛らしい青年だ。

「ドーナツは食べたことないんだ。だから悠紀と食べたくて。どうしても今日食べたくて」
「どうしても今日? リン君は学生なの? 明日は学校かな?」
「そうじゃなくて。今日じゃないとダメだから」

 リン君はふるふると首を横に振る。ふわふわと揺れる髪に既視感がある。

 私は彼を知っている。だけどどこで出会ったことがあるのかわからない。忘れてしまった過去が私にあるだろうか。

「リン君、ドーナツ、私がおごるね」

 お詫びの気持ちを込めてそう言うと、彼はきょとんとする。

「あ、……お金、持ってない」

 途方に暮れたようにつぶやくからおかしい。

 私はくすりと笑う。不思議な子だ。間の抜けたところが可愛らしい。

「何しに来たの?」
「悠紀とドーナツ食べに来た」

 あんまり素直にそう答えるから、私は声を立てて笑う。

 久しぶりだ。こんな風に笑ったりするのは。私にもまだ、楽しいと思える感情が残っていたのだと気付かされる。

 彼に会えてよかった。真咲さんと一緒にいる時とは違う安心感に支えられている気がした。だから私は言う。

「リン君とはやっぱり初めて会った気がしないの。きっとリン君を知ってる私もこんな風に安らぐことがあったのかもしれないね」
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