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救えなかった少女、救えたはずの少年
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喫茶店SIZUKUの中には男性客が一人いた。彼は周囲の空気を遮断するような物言わぬ背中を見せて、カウンターの端に腰かけていた。
以前にも見たことのある客だ。そう思ったのは、ゆっくりと振り返った男のあごひげに見覚えがあったからだ。
男の目は冷静だった。深い黒い瞳。目を合わせたら、背筋にぞくりとしたものが走る。それは恐怖ではない。だが、何に私の体が反応したのかはわからなかった。
彼は立ち上がり、帽子を外す。ニット帽の下から現れた髪は長めでゆるやかなパーマがかかっていた。このさびれた商店街には不似合いで垢抜けた印象を受ける。
「悠紀ちゃん、紹介するわ。彼、益田創士さん。よくお店に来てくれるから覚えてる?」
益田創士と紹介された男は、まばたきを一つだけする。無口な人のようだ。私もそうだ。わずかに頭を下げて、ママへ視線を移す。
「昔からのママの知り合いなの」
そう言われても、なぜママが私に彼を紹介するのかわからず、ぼんやりと彼を見上げる。
「小中と同じ学校に通っていたの。彼は二歳年上なんだけど」
やはりママが何を言いたいのかわからなくて、私は相づちも打てない。
「悠紀ちゃん、ママね、彼に交際を申し込まれているのよ」
落ち着かない様子でママは言う。私も彼も何も言わないから、言わざるを得なかった。そんな感じだ。
しかしやはり途方に暮れてしまう。結婚もせずに私を育ててくれたママだ。ママが恋愛したいというなら私が口を出すことは一つもなかった。
紹介したぐらいなのだから、結婚も考えている、ということだろうか。
その先の意味を考えたらいけない気がして私は視線を落とす。
ママは私が邪魔なんだ……。
考えたらいけないと思いながら、その思いは振り払えなくて、私は後ずさる。
「悠紀ちゃん……」
「私、もう行かなきゃ」
「悠紀ちゃん、違うのよ。お付き合いしてるとか、そういうことじゃなくて。ただ彼のことを知っていて欲しくて」
立ち去ろうとする私を必死になって引き止めるママをぼんやりと見上げる。その奥に立つのは益田さんだ。彼は私を無感情に見つめている。
「反対なんて、してないよ……」
「古屋さん、いまさら時間がかかるのはかまわない。ただ誤解だけはしないで欲しい」
私は目を見張った。
ママを後ろ手にかばい、彼は深々と頭を下げた。長い髪が揺れて、90度に曲げられた腰はいつまでも戻ることがない。
何より、彼が私を古屋さんと呼んだことが衝撃だった。
君は古屋なんだから、外折由香を苦しめる権限はない。そう言われた気がした。
「私は……、いつでも家を出ていく覚悟があるよ」
「悠紀ちゃ……」
「ママの重荷になるためにここにいるわけじゃないの」
あふれ出しそうになる涙をこらえて、震える唇を手のひらで覆った。私はまた追い出されるのだ。
『もう一緒に暮らせないよ』
あの言葉に傷つけられる人生などいらない。
「私、出ていくから大丈夫だよ」
めいいっぱいの強がりを見せた。ママがいなくなったら、私には何が残るだろう。
複雑そうに私を見つめる彼らから逃げ出す。喫茶店を訪れる客に紛れて外へ飛び出す。
ドアをすり抜けた先にいる真咲さんを見つけて私は走り出す。
真咲さんっ、と心の中で呼んで彼に伸ばそうとした腕は、不意に横から現れた手につかまれた。
「え……」
「悠紀、大丈夫?」
それは心底心配そうに私を見つめる若い青年だった。垂れた目じりがミカドを思い起こさせる。私に残るのはミカドだけだと思えて、彼の胸に飛び込む。
「リン君っ」
薄い胸に頬が当たり、細い腕に抱きしめられたら、不思議とミカドに抱かれる安心感に包まれて、涙がとめどなくあふれ出した。
「悠紀、部屋に戻ろう……」
泣きやんだ私に声をかけたのは、リン君だった。私の髪を優しくなでて、肩に腕を回してくる。
不思議だ。彼とは毎日のようにこうして身を寄せて生活しているような気がして、やはり当たり前のように受け入れる自分がいる。
「ミカド……」
そう、まるでリン君はミカドだ。ミカドのような存在だ。そっとつぶやいた時、リン君はわずかに私の肩に乗せた手を離す。
「リン君……?」
彼を見上げた瞬間、背中に声をかけられる。
「悠紀さん、部屋に戻る必要はないです。出かけましょう。俺は悠紀さんと出かけたい」
真っ直ぐな瞳で真咲さんは私を見つめる。揺るがない黒い瞳に私はハッとする。
「部屋に戻ったらいけない」
続けて真咲さんはそう言う。逃げたらダメだ。そう言われたみたいだ。
リン君が何か言おうと口を開きかけると、真咲さんは私たちの間を裂くように手を伸ばす。
「行きましょう、悠紀さん。俺は楽しみにしているんですから」
「古谷先生……、でも私、楽しくなんて過ごせそうになくて。先生を困らせます」
「悠紀さんと楽しく過ごしたいだけじゃないですよ。悠紀さんと過ごす時間が大事なんです」
「先生……」
「行きましょう。それに俺だけドーナツ食べてませんね」
真咲さんはふんわりと笑う。彼の穏やかさに私は救われる。私は彼をつなぎ留めておけないけれど、彼が離さないでいてくれるうちは側にいられる。
「あの、ちょっとメイクを直してきます……」
頬に張り付く涙が急に気になりだして、気恥ずかしくて赤くなる。彼の前では可愛い女の子でいたいのだと思う自分に気づいて戸惑いもする。
「待ってます」
真咲さんがそう言うと、隣に立つリン君も言う。
「俺も待ってる。真咲と二人で出かけるなんてさせないから」
喫茶店SIZUKUの中には男性客が一人いた。彼は周囲の空気を遮断するような物言わぬ背中を見せて、カウンターの端に腰かけていた。
以前にも見たことのある客だ。そう思ったのは、ゆっくりと振り返った男のあごひげに見覚えがあったからだ。
男の目は冷静だった。深い黒い瞳。目を合わせたら、背筋にぞくりとしたものが走る。それは恐怖ではない。だが、何に私の体が反応したのかはわからなかった。
彼は立ち上がり、帽子を外す。ニット帽の下から現れた髪は長めでゆるやかなパーマがかかっていた。このさびれた商店街には不似合いで垢抜けた印象を受ける。
「悠紀ちゃん、紹介するわ。彼、益田創士さん。よくお店に来てくれるから覚えてる?」
益田創士と紹介された男は、まばたきを一つだけする。無口な人のようだ。私もそうだ。わずかに頭を下げて、ママへ視線を移す。
「昔からのママの知り合いなの」
そう言われても、なぜママが私に彼を紹介するのかわからず、ぼんやりと彼を見上げる。
「小中と同じ学校に通っていたの。彼は二歳年上なんだけど」
やはりママが何を言いたいのかわからなくて、私は相づちも打てない。
「悠紀ちゃん、ママね、彼に交際を申し込まれているのよ」
落ち着かない様子でママは言う。私も彼も何も言わないから、言わざるを得なかった。そんな感じだ。
しかしやはり途方に暮れてしまう。結婚もせずに私を育ててくれたママだ。ママが恋愛したいというなら私が口を出すことは一つもなかった。
紹介したぐらいなのだから、結婚も考えている、ということだろうか。
その先の意味を考えたらいけない気がして私は視線を落とす。
ママは私が邪魔なんだ……。
考えたらいけないと思いながら、その思いは振り払えなくて、私は後ずさる。
「悠紀ちゃん……」
「私、もう行かなきゃ」
「悠紀ちゃん、違うのよ。お付き合いしてるとか、そういうことじゃなくて。ただ彼のことを知っていて欲しくて」
立ち去ろうとする私を必死になって引き止めるママをぼんやりと見上げる。その奥に立つのは益田さんだ。彼は私を無感情に見つめている。
「反対なんて、してないよ……」
「古屋さん、いまさら時間がかかるのはかまわない。ただ誤解だけはしないで欲しい」
私は目を見張った。
ママを後ろ手にかばい、彼は深々と頭を下げた。長い髪が揺れて、90度に曲げられた腰はいつまでも戻ることがない。
何より、彼が私を古屋さんと呼んだことが衝撃だった。
君は古屋なんだから、外折由香を苦しめる権限はない。そう言われた気がした。
「私は……、いつでも家を出ていく覚悟があるよ」
「悠紀ちゃ……」
「ママの重荷になるためにここにいるわけじゃないの」
あふれ出しそうになる涙をこらえて、震える唇を手のひらで覆った。私はまた追い出されるのだ。
『もう一緒に暮らせないよ』
あの言葉に傷つけられる人生などいらない。
「私、出ていくから大丈夫だよ」
めいいっぱいの強がりを見せた。ママがいなくなったら、私には何が残るだろう。
複雑そうに私を見つめる彼らから逃げ出す。喫茶店を訪れる客に紛れて外へ飛び出す。
ドアをすり抜けた先にいる真咲さんを見つけて私は走り出す。
真咲さんっ、と心の中で呼んで彼に伸ばそうとした腕は、不意に横から現れた手につかまれた。
「え……」
「悠紀、大丈夫?」
それは心底心配そうに私を見つめる若い青年だった。垂れた目じりがミカドを思い起こさせる。私に残るのはミカドだけだと思えて、彼の胸に飛び込む。
「リン君っ」
薄い胸に頬が当たり、細い腕に抱きしめられたら、不思議とミカドに抱かれる安心感に包まれて、涙がとめどなくあふれ出した。
「悠紀、部屋に戻ろう……」
泣きやんだ私に声をかけたのは、リン君だった。私の髪を優しくなでて、肩に腕を回してくる。
不思議だ。彼とは毎日のようにこうして身を寄せて生活しているような気がして、やはり当たり前のように受け入れる自分がいる。
「ミカド……」
そう、まるでリン君はミカドだ。ミカドのような存在だ。そっとつぶやいた時、リン君はわずかに私の肩に乗せた手を離す。
「リン君……?」
彼を見上げた瞬間、背中に声をかけられる。
「悠紀さん、部屋に戻る必要はないです。出かけましょう。俺は悠紀さんと出かけたい」
真っ直ぐな瞳で真咲さんは私を見つめる。揺るがない黒い瞳に私はハッとする。
「部屋に戻ったらいけない」
続けて真咲さんはそう言う。逃げたらダメだ。そう言われたみたいだ。
リン君が何か言おうと口を開きかけると、真咲さんは私たちの間を裂くように手を伸ばす。
「行きましょう、悠紀さん。俺は楽しみにしているんですから」
「古谷先生……、でも私、楽しくなんて過ごせそうになくて。先生を困らせます」
「悠紀さんと楽しく過ごしたいだけじゃないですよ。悠紀さんと過ごす時間が大事なんです」
「先生……」
「行きましょう。それに俺だけドーナツ食べてませんね」
真咲さんはふんわりと笑う。彼の穏やかさに私は救われる。私は彼をつなぎ留めておけないけれど、彼が離さないでいてくれるうちは側にいられる。
「あの、ちょっとメイクを直してきます……」
頬に張り付く涙が急に気になりだして、気恥ずかしくて赤くなる。彼の前では可愛い女の子でいたいのだと思う自分に気づいて戸惑いもする。
「待ってます」
真咲さんがそう言うと、隣に立つリン君も言う。
「俺も待ってる。真咲と二人で出かけるなんてさせないから」
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