非才の催眠術師

水城ひさぎ

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優しい真実と苦しい選択

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 それから十年の月日が経った。

 憧れだったカフェを開業し、経営も順調だった。忙しさに月日が経つのも忘れたこともあったが、由香と雫のことを想わない日はなかった。

 いつか二人を迎えに行く。その思いが俺を奮い立たせていた。

 そんな折、駅前商店街にカフェがオープンしたと情報が入った。従業員が早速訪れてみたが、カフェというより昔ながらの喫茶店で、うちのカフェの競合店にはなり得ないとの報告がすぐにあがった。

「念のため、資料をそろえてくれ」

 そう指示をした俺に報告があがったのは、それから一週間後のことだった。

 営業が終了した店内のカウンターに座り、俺は開いた資料を見るなり目を見張った。

 カフェの名称は喫茶店SIZUKUだった。
 真っ先に浮かんだのは、さびれた呉服店と由香と雫の顔。

「まさか……」

 今すぐにでも確かめたい。その衝動にかられて立ち上がった俺の前に、一人の女が現れた。

「すみません、もう閉店で……」

 鍵をかけ忘れていたようだ。かけ忘れるなんて失念していた。運命のいたずらとはこういうことを言うのかもしれない。

 女は店内に入ってくるなり、「創士」とつややかに微笑んだ。

「どうしたんですか? こんな時間に」
「こんな時間だから来たのよ」

 女の名前は水澤みずさわ京子きょうこ。俺が勤務していたカフェのオーナーの娘で、一時期共に働いたこともある。美人で仕事もできる、従業員の誰もが憧れる女だった。

「創士のカフェ、すごく順調だってパパが褒めてたわ」
「ありがとうございます。オーナーのアドバイスのおかげです」

 はあ、と内心首を傾げながらも、俺は頭を下げた。

 京子がプライドの高い女だということは承知していた。つまらないプライドを捨てて、頭など簡単に下げられた。

「そうよね。パパが考案したデザートも、相当人気よね」
「まあ、ええ」

 少し語弊がある。そのデザートは俺が考案したものだ。独立する俺へのはなむけとして、オーナーが名前をつけてくれた、大切なデザートだ。

「私たち、もう28ね」

 唐突に京子はそう言った。

「そろそろ結婚を考えてもいい年じゃない?」
「まあ……」

 曖昧にうなずく。

 結婚なら何度も考えた。しかし仕事が軌道に乗るまでは由香と雫を迎えに行けない。そう思いながら一生懸命働いてきた。

「パパがね、創士となら結婚してもいいっていうの」

 京子はまたもや唐突に言うと、困惑する俺の腕をつかんだ。

「私、創士のこと、調べたの」

 それは悪夢の再来だったのか。

 京子は俺と同い年だった。高校は同じではなかったが、地元の高校に通っていた。
 俺の噂を耳にしたことがあっても不思議ではなかった。

「外折由香。彼女ね、最近商店街にカフェをオープンしたみたい」

 そう言った時、俺の視線が動いたのを京子は見逃さなかった。

 カウンターの上にある調査資料を手に取り、「ふうん」とひとことだけつぶやいた。

「結婚はしません。決まった相手があるとかではなく、結婚に興味がないからです」

 俺はすぐさま突っぱねた。俺には心に決めた女性がいる。離れていても、彼女を想わない日はなかった。あの日から、彼女への愛情は変わることなく続いている。それに俺は京子という女が苦手だった。結婚などできるはずもなかった。

「喫茶店SIZUKU、なんて古くさい名前。センスのかけらもないの。じきにつぶれるわ」

 バカにしたように笑った京子を許せないと思った。しかし怒りはこらえた。

 俺はまだ由香に対して、雫に対して、何もやってあげられていない。

 つぶれると言った京子の真意も恐れた。喫茶店のノウハウのない由香が切り盛りするカフェだ。少しばかり悪い噂が立てば、つぶれてしまう。そんな懸念も覚えた。何より、喫茶店を開業した由香の思いを大切にしたかった。

 いつか二人でカフェをやろう。
 口には出せない、そんな儚い思いが伝わるようだった。

 翌日、俺は喫茶店SIZUKUを訪れた。

「いらっしゃいま……」

 喫茶店のドアを開け、中へと進み入る俺を出迎えた由香は、少し老けたが昔と変わらない可愛らしい女性のままだった。

 彼女は俺と一目で気付き、両手を口に当てて、目を潤ませた。

「待たせたね」

 そう言ったら、由香は俺の胸にしがみついて泣いた。

 もっと早く迎えに来たら良かった。そう思いながら、俺はそっと由香を抱きしめた。

 水澤京子の求婚はしばらく続いた。嫌がらせの電話もたびたびかかってくるのだと、由香がおびえる日も続いていた。

 由香とはまだ結婚できない。

 そう由香には伝えた。彼女は昔と変わらず従順で、俺の言葉に素直にうなずいてくれた。
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