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最悪の出会い
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私は桜の花のように生きたいと願う。
満開に咲き誇る優美さにあこがれ、いさぎよく散るさまに凛とした強さを感じて、こうありたいという理想の姿を重ね見ている。
筆先が桃色を重ねていく。キャンパスを埋め尽くす桜の花びら一枚一枚に込める心は、それを眺め見る人にどのような印象を与えるのだろう。
それを考えない日はなかったが、同時に『ただ美しい』と思ってもらえるだけでもいいと思っていた。
油絵は売れればいい。私のこだわりまで理解してもらう必要はない。お金儲けができれば、それでいいのだ。
「あ、そろそろ戻らなきゃ」
筆を置き、作業台の端にある置き時計へと視線を移す。いつもより集中していたみたい。お昼を少し過ぎている。
絵の具で汚れたエプロンをはずし、流し台で手を洗うと、一つに束ねていた髪をほどく。
腰まで伸びた黒髪に櫛を通し、姿見で顔に汚れがないか確認する。メイクの崩れもない。笑顔をつくると、鏡の中の私が愛想笑いを浮かべる。でも、上出来。
アトリエを一歩出たら、私は神林家の居候、26歳の白川佐那子になる。
ここで生涯暮らすためには、神林家の人々に恥をかかせてはいけないし、来客の対応もきっちりとこなさなければならない。そのためにも、身だしなみには人一倍気をつけている。
「今日は呼ばれるまでリビングに顔を出したらいけないんだっけ」
神林家に珍しい人が来るから、午後からは部屋で待機しているように言われていたのだった。
アトリエの戸締りをして、外へと出る。
裏庭にあるアトリエの真向かいに、カントリーハウス風のゴージャスな屋敷がある。神林充寿の建てた邸宅だ。
充寿さんは一代で上場企業を築いたレストランチェーンの社長。ご縁があって、私は6年前から屋敷の一室を間借りして暮らしている。
アトリエから伸びるレンガの小道を進むと、屋敷の裏口へとたどり着く。
不必要に屋敷の住人と顔を合わせることがないようにと、居候の身の私は普段、ここから出入りしている。
といっても、ここで暮らし始めた当初は充寿さんの長男である叶冬さんや、長女の秋花さんがいたが、ふたりとも結婚して屋敷を出たため、今は充寿さんと私のふたり暮らしで、誰かと顔を合わせるかもしれないなんて心配はいらない。
その充寿さんも、少し前に屋敷の階段から転がり落ちて頭を強く打ち、今は大事をとって入院している。このところは私ひとりの生活が続いていた。
アトリエの裏手にある駐車場には、一台の見慣れた赤い車が停車していた。秋花さんのものだ。
秋花さんは週末になると、神林家へとやってくる。私ひとりに充寿さんのお世話を押し付けるのは申し訳ないと思っているようだが、充寿さんは家にいないことの方が多く、心配されるほどの重労働はしていなかった。
秋花さんが、今日は叶冬兄さんと珍しい人が来るから呼ばれるまで部屋にいてね、と言っていたが、駐車場には私と秋花さん以外の車はなかった。
叶冬さんと珍しい来客は表門の方へ停めているか、まだ来ていないのかもしれない。
とりとめのないことを考えながら裏口の扉を開く。中へ入ると、正面と左手に廊下が伸びている。リビングと私の部屋につながる廊下だ。
足元には、秋花さんのものと思われる赤いヒールが置かれていた。彼女は使い勝手のいい裏口を好んで使う。
その実、私も居候だからという理由をつけてはいるが、正門からリビングまでの距離が遠い生活動線の不便さになれず、リビングへすぐに行ける裏口を好んでいる。
靴を脱いでいると、正面の廊下の先にあるリビングの方から人の話し声が聞こえてきた。
話し声は、秋花さんと思われる女性のものと、男の人がひとり……ふたり。ひとりは叶冬さんだろう。ということは、来客は男の人か。
珍しい来客って、誰なのだろう。
ちょっとばかり好奇心が芽生えてリビングの扉に近づくと、男の人の声がはっきりと廊下にまで響いてきた。
「父さんが重体だって聞いて飛んで帰ってきたら、どうなってんだっ、これは」
いきなりの大きな声に驚いて、わずかに目を見開いた。
父さん? 充寿さんの息子さん? でも、いつも穏やかな叶冬さんの声じゃない。それじゃあ、もしかして、珍しい来客というのは充寿さんの次男の……。
「ちょ、ちょっといきなり、何。落ち着いて、夏凪。重体だなんて誰が言ったのよー? 打ちどころが悪かったら危なかったって言っただけよ」
あわてたように言うのは、秋花さんだ。
やっぱり、大声の主は次男の夏凪さんみたい。彼は高校卒業後、海外の大学へ進学し、そのまま海外の企業に就職したと聞いていて、一度もお会いしたことがない。
「これが落ち着いてられるか。兄さんも兄さんだ。どこの馬の骨かもわからない女と父さんをふたりきりでここに住まわせるって、どういうつもりだよっ」
「佐那子さんの親戚縁者に関しては調べ尽くしているよ。身元の確かなお嬢さんだ。それにね、父さんのお世話をよくやってくれている」
いきり立つ夏凪さんをなだめるように叶冬さんは言うが、彼の怒りはおさまらないようだった。
「どうだかね。父さんが階段から落ちたのだって、本当に事故なのか? 佐那子って女が突き落としてない証拠はあるのかよ」
「やめてよ、夏凪。そんなことするような子じゃないわよ。すぐに気づいた佐那子ちゃんが救急車呼んでくれたから、大事にならなかったのっ」
「じゃあ、父さんに恩を売っておく作戦か。そうだよな。父さんにもしものことがあったら、あの女にも莫大な遺産が入るんだろ?」
ピクッと動いた指を握りしめた。
神林家の居候になるとき、遺産分配の話は聞いていた。それを縁戚の人々がどう思っていたのか知らなかったわけじゃない。むしろ、わかっていた。わかっていたけど、私にはお金が必要だから、誰に何を言われようとかまわないと思って、充寿さんの決断を受け入れた。
「その話はよくよく話し合って決めたのよ。みんな、納得してるの」
「みんなって、俺を一緒にするなよ。俺は納得してない。俺たちと同じ遺産分配の相続なんてあり得ないだろ」
秋花さんはかばってくれるけど、夏凪さんの言うことは正しい。私の遺産相続の取り分は、四分の一。充寿さんは実の子どもたちと同等の分配を考えてくれている。
「それは、夏凪が全然帰国しないからじゃない。お父さんの出した手紙だってろくに読んでないんでしょう? 返事も来ないって、お父さん、嘆いてたわよ」
「だからって、なんで姉さんも兄さんも納得してるか理解できないね。俺は遺産目当てだとしか思ってない。うまく父さんの懐に入り込んだつもりだろうが、俺が帰ってきたからには今までのようにはさせないからな」
充寿さんにうまく取り入ったと陰口を言われるのは慣れていたつもりだけど、あからさまに遺産目当てと言われると、もやもやする。
さっきから、夏凪さんは人の話を聞こうともしないで、一方的だ。
「落ち着きなさいよ。夏凪だって、佐那子ちゃんに会えば、思ってるような子じゃないってわかるから」
「ああ、会ってやるよ。出ていけって、兄さんたちが言えないなら俺が言ってやる」
近づいてくる足音に身構える前に、ガチャリと扉の開く音がして背筋が伸びた。
「あの女の部屋はどこ……」
扉を開けるなり私に気づいた青年が絶句した。いきなりの対面に驚いたようだが、彼はすぐに気を取り直し、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「盗み聞きか。まるで泥棒猫だな」
私は唇をきつく結んだ。なんて失礼な人だろう、と不信感をあらわに夏凪さんを見上げる。
彼は充寿さんにあまり似ていなかった。母親似なのだろう。切れ長の目もとは充寿さんの妻である四季さんの面影がある。挑戦的に上がる口角は憎らしいけれど、鼻筋がスッと通る高い鼻や細いあごも彫刻のように美しく、見目麗しい男だった。
「なんだ、その冷ややかな目は。今の話、聞いてたんだろ? そんな非難がましい目をするぐらいなら、言いたいことを言えばいい」
けんか腰の彼からスッと目をそらすと、申し訳なさそうに眉を寄せる叶冬さんと、心配そうにこちらをうかがう秋花さんと目が合った。
何か言いたげな秋花さんから目を放し、ふたたび、夏凪さんを見上げる。
「お初にお目にかかります、白川佐那子と申します。神林さまにはひとかたならぬご厚情を日頃より賜り、大変感謝申し上げております。つきましては、いただけるご厚意は遠慮なくもらうようにと仰せつかっておりますので、出ていけとおっしゃられても、神林さまのお気持ちに反しますので快諾は致しかねます。お見受けしたところ、あなたさまは広量なお心をお持ちの方のようですので、お父上である充寿さまを悲しませることはなさりませんよね?」
にっこりとほほえむと、夏凪さんは怒りでカッと顔を赤らめた。
「ずいぶん慇懃無礼だが、出ていくつもりはないって言うのか」
「ええ。出ていく理由もありませんので」
しれっと答える。そのしらけた態度は、ますます彼の神経を逆撫でしたようだ。
「理由? 理由なんているものか。ここにいる自体がおかしいって言ってるんだからな」
彼は何度も私を指差し、顔を真っ赤にしてそう言う。そんな非礼な態度に、私の方もむきになる。
「それはあなたの勝手な言い分でしょう。なぜ私が、初対面のあなたの言うことを聞かなければならないのですか?」
「文句があるなら、父さんに言えってことか。よっぽど、父さんをうまく丸め込んでるんだな。わかった。そうしようじゃないか。正当な理由をもって、おまえをこの家から追い出してやろう」
「お好きになさるといいわ」
「ああ、好きにさせてもらうよ。二度と俺の前に姿を見せられないようにしてやる」
にらみつけてくる夏凪さんから、ふんっと顔を背け、心配そうにこちらを見守る叶冬さんと秋花さんの前へと歩み出る。
「これから、充寿さんのお見舞いに行ってきますね。叶冬さんたちも行かれますか?」
「あ、いや、俺はここへ来る前に行ってきたから、すぐに帰るよ」
「私は行くわ。一緒に行きましょう? 佐那子ちゃん、ごめんね。うちの夏凪が馬鹿騒ぎして」
叶冬さんも秋花さんも、こういった私に対する理不尽な出来事にはなれている。大丈夫だと伝わったのか、いつも通りに接してくれる。
「気にしてないです。それでは、叶冬さん、秋花さんと一緒にお見舞いに行ってきますので、このまま失礼させていただきます」
「ありがとう、佐那子さん。ああ、それとね、夏凪はアメリカから帰国したばかりなんだが、しばらく日本にいるらしい。今日からこの屋敷で暮らすことになるからよろしく頼むよ」
一礼する私を呼び止めて、叶冬さんはそう言う。
急な話だ。言いたいことはあったが、全部飲み込んで、笑顔でうなずく。
「わかりました」
「うん。夏凪も本当はいいやつだから、ゆっくり時間をかけて、わかり合ってもらえるとうれしいよ」
「はい。ご心配はおかけしません」
わかり合えるなんて本当に思ってるんだろうか。そうだとしたら、ずいぶんなお人よしだ。だが、叶冬さんならあり得るとも思う。彼は充寿さんによく似た、危なっかしいぐらいのいい人だ。
「よかった。本当に佐那子さんは物分かりがよくて助かるよ。秋花も頼む」
「叶冬兄さん、私は余分。佐那子ちゃんと私は本当の姉妹以上に仲がいいんだから。じゃあ、佐那子ちゃん、行きましょ。車は私が出すわ」
そう言うと、秋花さんは私の肩を抱き寄せ、夏凪さんを軽くにらみつける。
「今日から一緒に暮らすからって、佐那子ちゃんをいじめたらダメよ、夏凪」
「なんで、俺がこの女と一緒に住まなきゃいけないんだよ」
「嫌なら、出ていけば?」
「やだね。出ていくのはそっちだからな」
宣戦布告するように、夏凪さんはまっすぐ私を指さすと、「このままで済むと思うなよ」と捨て吐き、リビングを出ていった。
満開に咲き誇る優美さにあこがれ、いさぎよく散るさまに凛とした強さを感じて、こうありたいという理想の姿を重ね見ている。
筆先が桃色を重ねていく。キャンパスを埋め尽くす桜の花びら一枚一枚に込める心は、それを眺め見る人にどのような印象を与えるのだろう。
それを考えない日はなかったが、同時に『ただ美しい』と思ってもらえるだけでもいいと思っていた。
油絵は売れればいい。私のこだわりまで理解してもらう必要はない。お金儲けができれば、それでいいのだ。
「あ、そろそろ戻らなきゃ」
筆を置き、作業台の端にある置き時計へと視線を移す。いつもより集中していたみたい。お昼を少し過ぎている。
絵の具で汚れたエプロンをはずし、流し台で手を洗うと、一つに束ねていた髪をほどく。
腰まで伸びた黒髪に櫛を通し、姿見で顔に汚れがないか確認する。メイクの崩れもない。笑顔をつくると、鏡の中の私が愛想笑いを浮かべる。でも、上出来。
アトリエを一歩出たら、私は神林家の居候、26歳の白川佐那子になる。
ここで生涯暮らすためには、神林家の人々に恥をかかせてはいけないし、来客の対応もきっちりとこなさなければならない。そのためにも、身だしなみには人一倍気をつけている。
「今日は呼ばれるまでリビングに顔を出したらいけないんだっけ」
神林家に珍しい人が来るから、午後からは部屋で待機しているように言われていたのだった。
アトリエの戸締りをして、外へと出る。
裏庭にあるアトリエの真向かいに、カントリーハウス風のゴージャスな屋敷がある。神林充寿の建てた邸宅だ。
充寿さんは一代で上場企業を築いたレストランチェーンの社長。ご縁があって、私は6年前から屋敷の一室を間借りして暮らしている。
アトリエから伸びるレンガの小道を進むと、屋敷の裏口へとたどり着く。
不必要に屋敷の住人と顔を合わせることがないようにと、居候の身の私は普段、ここから出入りしている。
といっても、ここで暮らし始めた当初は充寿さんの長男である叶冬さんや、長女の秋花さんがいたが、ふたりとも結婚して屋敷を出たため、今は充寿さんと私のふたり暮らしで、誰かと顔を合わせるかもしれないなんて心配はいらない。
その充寿さんも、少し前に屋敷の階段から転がり落ちて頭を強く打ち、今は大事をとって入院している。このところは私ひとりの生活が続いていた。
アトリエの裏手にある駐車場には、一台の見慣れた赤い車が停車していた。秋花さんのものだ。
秋花さんは週末になると、神林家へとやってくる。私ひとりに充寿さんのお世話を押し付けるのは申し訳ないと思っているようだが、充寿さんは家にいないことの方が多く、心配されるほどの重労働はしていなかった。
秋花さんが、今日は叶冬兄さんと珍しい人が来るから呼ばれるまで部屋にいてね、と言っていたが、駐車場には私と秋花さん以外の車はなかった。
叶冬さんと珍しい来客は表門の方へ停めているか、まだ来ていないのかもしれない。
とりとめのないことを考えながら裏口の扉を開く。中へ入ると、正面と左手に廊下が伸びている。リビングと私の部屋につながる廊下だ。
足元には、秋花さんのものと思われる赤いヒールが置かれていた。彼女は使い勝手のいい裏口を好んで使う。
その実、私も居候だからという理由をつけてはいるが、正門からリビングまでの距離が遠い生活動線の不便さになれず、リビングへすぐに行ける裏口を好んでいる。
靴を脱いでいると、正面の廊下の先にあるリビングの方から人の話し声が聞こえてきた。
話し声は、秋花さんと思われる女性のものと、男の人がひとり……ふたり。ひとりは叶冬さんだろう。ということは、来客は男の人か。
珍しい来客って、誰なのだろう。
ちょっとばかり好奇心が芽生えてリビングの扉に近づくと、男の人の声がはっきりと廊下にまで響いてきた。
「父さんが重体だって聞いて飛んで帰ってきたら、どうなってんだっ、これは」
いきなりの大きな声に驚いて、わずかに目を見開いた。
父さん? 充寿さんの息子さん? でも、いつも穏やかな叶冬さんの声じゃない。それじゃあ、もしかして、珍しい来客というのは充寿さんの次男の……。
「ちょ、ちょっといきなり、何。落ち着いて、夏凪。重体だなんて誰が言ったのよー? 打ちどころが悪かったら危なかったって言っただけよ」
あわてたように言うのは、秋花さんだ。
やっぱり、大声の主は次男の夏凪さんみたい。彼は高校卒業後、海外の大学へ進学し、そのまま海外の企業に就職したと聞いていて、一度もお会いしたことがない。
「これが落ち着いてられるか。兄さんも兄さんだ。どこの馬の骨かもわからない女と父さんをふたりきりでここに住まわせるって、どういうつもりだよっ」
「佐那子さんの親戚縁者に関しては調べ尽くしているよ。身元の確かなお嬢さんだ。それにね、父さんのお世話をよくやってくれている」
いきり立つ夏凪さんをなだめるように叶冬さんは言うが、彼の怒りはおさまらないようだった。
「どうだかね。父さんが階段から落ちたのだって、本当に事故なのか? 佐那子って女が突き落としてない証拠はあるのかよ」
「やめてよ、夏凪。そんなことするような子じゃないわよ。すぐに気づいた佐那子ちゃんが救急車呼んでくれたから、大事にならなかったのっ」
「じゃあ、父さんに恩を売っておく作戦か。そうだよな。父さんにもしものことがあったら、あの女にも莫大な遺産が入るんだろ?」
ピクッと動いた指を握りしめた。
神林家の居候になるとき、遺産分配の話は聞いていた。それを縁戚の人々がどう思っていたのか知らなかったわけじゃない。むしろ、わかっていた。わかっていたけど、私にはお金が必要だから、誰に何を言われようとかまわないと思って、充寿さんの決断を受け入れた。
「その話はよくよく話し合って決めたのよ。みんな、納得してるの」
「みんなって、俺を一緒にするなよ。俺は納得してない。俺たちと同じ遺産分配の相続なんてあり得ないだろ」
秋花さんはかばってくれるけど、夏凪さんの言うことは正しい。私の遺産相続の取り分は、四分の一。充寿さんは実の子どもたちと同等の分配を考えてくれている。
「それは、夏凪が全然帰国しないからじゃない。お父さんの出した手紙だってろくに読んでないんでしょう? 返事も来ないって、お父さん、嘆いてたわよ」
「だからって、なんで姉さんも兄さんも納得してるか理解できないね。俺は遺産目当てだとしか思ってない。うまく父さんの懐に入り込んだつもりだろうが、俺が帰ってきたからには今までのようにはさせないからな」
充寿さんにうまく取り入ったと陰口を言われるのは慣れていたつもりだけど、あからさまに遺産目当てと言われると、もやもやする。
さっきから、夏凪さんは人の話を聞こうともしないで、一方的だ。
「落ち着きなさいよ。夏凪だって、佐那子ちゃんに会えば、思ってるような子じゃないってわかるから」
「ああ、会ってやるよ。出ていけって、兄さんたちが言えないなら俺が言ってやる」
近づいてくる足音に身構える前に、ガチャリと扉の開く音がして背筋が伸びた。
「あの女の部屋はどこ……」
扉を開けるなり私に気づいた青年が絶句した。いきなりの対面に驚いたようだが、彼はすぐに気を取り直し、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「盗み聞きか。まるで泥棒猫だな」
私は唇をきつく結んだ。なんて失礼な人だろう、と不信感をあらわに夏凪さんを見上げる。
彼は充寿さんにあまり似ていなかった。母親似なのだろう。切れ長の目もとは充寿さんの妻である四季さんの面影がある。挑戦的に上がる口角は憎らしいけれど、鼻筋がスッと通る高い鼻や細いあごも彫刻のように美しく、見目麗しい男だった。
「なんだ、その冷ややかな目は。今の話、聞いてたんだろ? そんな非難がましい目をするぐらいなら、言いたいことを言えばいい」
けんか腰の彼からスッと目をそらすと、申し訳なさそうに眉を寄せる叶冬さんと、心配そうにこちらをうかがう秋花さんと目が合った。
何か言いたげな秋花さんから目を放し、ふたたび、夏凪さんを見上げる。
「お初にお目にかかります、白川佐那子と申します。神林さまにはひとかたならぬご厚情を日頃より賜り、大変感謝申し上げております。つきましては、いただけるご厚意は遠慮なくもらうようにと仰せつかっておりますので、出ていけとおっしゃられても、神林さまのお気持ちに反しますので快諾は致しかねます。お見受けしたところ、あなたさまは広量なお心をお持ちの方のようですので、お父上である充寿さまを悲しませることはなさりませんよね?」
にっこりとほほえむと、夏凪さんは怒りでカッと顔を赤らめた。
「ずいぶん慇懃無礼だが、出ていくつもりはないって言うのか」
「ええ。出ていく理由もありませんので」
しれっと答える。そのしらけた態度は、ますます彼の神経を逆撫でしたようだ。
「理由? 理由なんているものか。ここにいる自体がおかしいって言ってるんだからな」
彼は何度も私を指差し、顔を真っ赤にしてそう言う。そんな非礼な態度に、私の方もむきになる。
「それはあなたの勝手な言い分でしょう。なぜ私が、初対面のあなたの言うことを聞かなければならないのですか?」
「文句があるなら、父さんに言えってことか。よっぽど、父さんをうまく丸め込んでるんだな。わかった。そうしようじゃないか。正当な理由をもって、おまえをこの家から追い出してやろう」
「お好きになさるといいわ」
「ああ、好きにさせてもらうよ。二度と俺の前に姿を見せられないようにしてやる」
にらみつけてくる夏凪さんから、ふんっと顔を背け、心配そうにこちらを見守る叶冬さんと秋花さんの前へと歩み出る。
「これから、充寿さんのお見舞いに行ってきますね。叶冬さんたちも行かれますか?」
「あ、いや、俺はここへ来る前に行ってきたから、すぐに帰るよ」
「私は行くわ。一緒に行きましょう? 佐那子ちゃん、ごめんね。うちの夏凪が馬鹿騒ぎして」
叶冬さんも秋花さんも、こういった私に対する理不尽な出来事にはなれている。大丈夫だと伝わったのか、いつも通りに接してくれる。
「気にしてないです。それでは、叶冬さん、秋花さんと一緒にお見舞いに行ってきますので、このまま失礼させていただきます」
「ありがとう、佐那子さん。ああ、それとね、夏凪はアメリカから帰国したばかりなんだが、しばらく日本にいるらしい。今日からこの屋敷で暮らすことになるからよろしく頼むよ」
一礼する私を呼び止めて、叶冬さんはそう言う。
急な話だ。言いたいことはあったが、全部飲み込んで、笑顔でうなずく。
「わかりました」
「うん。夏凪も本当はいいやつだから、ゆっくり時間をかけて、わかり合ってもらえるとうれしいよ」
「はい。ご心配はおかけしません」
わかり合えるなんて本当に思ってるんだろうか。そうだとしたら、ずいぶんなお人よしだ。だが、叶冬さんならあり得るとも思う。彼は充寿さんによく似た、危なっかしいぐらいのいい人だ。
「よかった。本当に佐那子さんは物分かりがよくて助かるよ。秋花も頼む」
「叶冬兄さん、私は余分。佐那子ちゃんと私は本当の姉妹以上に仲がいいんだから。じゃあ、佐那子ちゃん、行きましょ。車は私が出すわ」
そう言うと、秋花さんは私の肩を抱き寄せ、夏凪さんを軽くにらみつける。
「今日から一緒に暮らすからって、佐那子ちゃんをいじめたらダメよ、夏凪」
「なんで、俺がこの女と一緒に住まなきゃいけないんだよ」
「嫌なら、出ていけば?」
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