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 蓮に出会う12時間前、私のもとへもたらされたのは、新しいプロジェクトだった。

tofitトゥフィット? 新しいアプリ開発ですか?」

 たまきさんから差し出された企画書に、すばやく目を通しながら尋ねる。

 株式会社サク美の第三企画部係長、古賀こが環さんは、私の直属の上司。

 すでに、小野おの企画部長との打ち合わせをまとめた資料のタイトルには、仮のプロジェクト名が書かれている。

 今日から始めるフィットネスをコンセプトとする、todayとfitnessを合わせた、その名も、tofit開発プロジェクト。

 トレーニングジムを始め、ダンススタジオなども運営し、ヘルシー料理のレシピ開発や勉強会の開催など、ヘルスケアに関連する提案を手広く行う株式会社サク美が、社運をかけて取り組む企画のようだ。

「そう。我が社が3年前に東崎とうさき大学と共同開発した健康アプリがあるの、知ってるよね」

 ホワイトボードの前に移動した環さんは、企画部内をぐるりと見渡して、そう言った。

 私が所属する第三企画部のメンバーは、小野部長と環さんを除き、総勢5人。

 女性社員ばかりで、28歳の私が最年長。女性ならではの目線から企画開発するためのチームとして、一年前に発足された部署だった。

 入社当時から私をかわいがってくれていた先輩の環さんが係長に抜擢され、第三企画に来ないか、と誘いを受けた私に断る理由などなかった。

 その後、何人か別の部署から引き抜いて、今年の4月に新入社員の配属があり、総勢5人となった。

「全年齢対象のヘルスケアアプリですね。私、今でも使ってます。使いこなせてない機能もたくさんあるんですけど」

 そうは言うものの、実際使っているのなんて、体重、体脂肪や生理日の管理ぐらい。

「そう、それ。花村、良いこと言う」

 マジックペンを私に向けて、環さんは力強くうなずくと、ホワイトボードにtofitと書いた。

「アンケート調査が先月行われたの。アプリ自体は優秀なんだけど、機能が多すぎるとか、もっと女性の気持ちに寄り添ったものがほしいとか、ダイエット初心者には入力の手間ばかりが目立って気軽に使えないなど、さまざまなご意見をいただいたの」
「全年齢対象にしたから、もっとコアな部分をフォローしてほしいって意見が多く出たんですね」

 アンケート結果には、私もうなる。まさしく同じことを考えていたからだ。

 機能が増えれば増えるほどアプリを開くのに時間がかかる。忙しい朝にあれやこれやと入力するひまなんてない。体重ですら、毎日の入力が億劫になることもざらにある。

「そこでよ、私たち第三企画が、ある層に向けたアプリの企画を考案することになりました」
「古賀係長ー、質問でーす! ある層ってどの層ですかー?」

 後方から、高いトーンの声が飛んでくる。手を挙げているのは、入社3年目の三島みしまあかりちゃんだ。第三企画一明るい女の子。

「層は二つあるの」

 いま説明するところ、と環さんは、tofitと書かれた文字から、右と左、それぞれ斜め下に向けて、2本の矢印を引く。

「一つは、10代から20代前半の運動が苦手な女性。もう一つは、ダイエットしたい40代以降の主婦よ」

 右斜め下に向かう矢印の下に10代~、反対側には40代~と書かれた。

「運動は苦手だけど、わりと自分時間のある女性向けってところですねー」

 そう答えたのは、あかりちゃんの隣の席の江上えがみ莉子りこちゃんだ。彼女もあかりちゃんと同じ、入社3年目。ふたりは休日も一緒に過ごすぐらい仲がいい。

「加えて言うと、ダイエットにおこづかいを使う優先順位が低い女性。ジムに行く余裕はないから、できれば自宅で運動したいっていう女性たちね」
「アプリは無料ですかー?」

 あかりちゃんが聞く。

 全年齢対象アプリは、月額料金を支払わないとほとんど使えないアプリだと、彼女も知ってるのだろう。

「そう、基本無料。課金して、いろいろオプションがつけられるようにしたいとは思ってるわ」
「それなら安心して使えますねー」
「最初の敷居は低ければ低いほどいいわ。アプリを利用して、運動習慣がついた女性はステップアップを求めるものでしょ? ゆくゆくはサク美の運営するトレーニングジムの会員になってもらって、フルサポートできるようにしたいと思ってる」
「おおー、そういうことか」

 あかりちゃんと顔を合わせ、莉子ちゃんもうなずく。だんだんとコンセプトがわかってきて、姿勢が前のめりになっている。

「対象の層が二つあるんでしたら、まずは別々に企画していく感じになりますか?」

 いくつかメモを取りながら、道筋を尋ねると、環さんは腰に手を当てて大きくうなずいた。

 言いたいことを言ってくれた、と彼女が満足するときにするポーズだ。

「10代からのグループをA、40代からのグループをBとするわね」
「リーダーはもちろん、花村さんですよね? もう一つはー……」

 ホワイトボードにA、Bと書く環さんに向かって言いつつ、あかりちゃんの目は、私の斜め後ろに座る、御園みその真由まゆさんに注がれている。

 御園さんは私の一つ年下だけど、いつも冷静沈着で、彼女の分析力には私も一目置いている。

 ちょっとクセの強い彼女は、どちらかというと一匹狼タイプだが、リーダーに適任だと思う。

「そうね。リーダーは花村さんと御園さんにお願いします。どっちのグループにするかはみんなで相談して決めてください」

 御園さんは無言で私に目を向ける。

 何を考えているのかわかりにくい無口な彼女だが、一年先輩の私を立てて、いつも主導権をゆだねてくれる。

 あかりちゃんや莉子ちゃんがひそひそとひたいを突き合わせて話しているところを見ると、やはり、とっつきにくい御園さんと彼女たちは馬が合わないだろうと思う。

 しかし、隅っこの席で肩身が狭そうにしている新入社員の高木たかぎ菜乃花なのかちゃんの面倒を見るのは、私の方がいいだろうか。

「じゃあ、私は打ち合わせがあるから、席をはずすわね。グループ分けが決まったら、花村さん、ホワイトボードに書いておいて。リーダーのふたりは来週の月曜から取り組めるように打ち合わせをお願いします」

 デスクの上にあるぶ厚いファイルを抱えて、環さんは颯爽とした足取りで企画室を出ていった。

 どこか張り詰めていた緊張の糸が切れたみたいに、周囲がざわつく。

 早速、あかりちゃんが莉子ちゃんを連れて私のデスクへとやってくる。

「花村さん、どうしますー?」
「ちょっと思ったのは、新入社員の菜乃花ちゃんは、グループAがやりやすいんじゃないかと思うの。OJT担当の私が、Aグループのリーダーになろうかしら。あかりちゃんたちはどう?」
「私たちはどっちのグループでもいいですよ。っていうかー、花村さんと一緒がいいかなー……なんてっ」

 あっ、言っちゃった! って、わざとらしく口に手を当てるあかりちゃんは予想通り。御園さんが苦手なのだろう。私だって、得意ではない方だ。

「菜乃花ちゃんはどっちのグループがいいとかある?」

 声をかけると、菜乃花ちゃんはちょっと気まずそうに手をあげる。

「40代の主婦って、母ぐらいの年代なので、無理ではないですけど、どちらかというと、花村さんのご指摘通り、Aグループがいいです」

 ひかえめだけど、しっかりと意見を言える菜乃花ちゃんは、どうやらAグループがいいみたい。

「どうしようかしら。私は菜乃花ちゃんの指導に回った方がいいのよね……」

 そうなると、御園さんのグループに、あかりちゃんと莉子ちゃんが入ることになる。

 悩むように腕を組む横で、あかりちゃんが首を横に振りながら、莉子ちゃんの脇をつついている。すると、莉子ちゃんが口を開く。

「私、Aグループは若い子の気持ちがわかる人がいいと思うんですよね。だから、菜乃花ちゃんはいいと思うんですけど、花村さんは大人な女性だからBグループがいいと思うんです」
「みんな大人でしょー」

 苦笑してしまう。

「でも、ほら、花村さんより、男性経験のない女の子の悩みがわかる適任者っていると思います」
「えぇ……」

 遠慮がちな小声だったものの、莉子ちゃんも大胆なことを言うものだ。

 しかし、男性経験がないというなら、この中で一番の適任は私じゃないか。

「そうですよー。処女に主婦の気持ちはわかりませんってー」

 あかりちゃんは同調する。

 この際、御園さんと同じグループにならないためにはなんでも言うスタンスを貫くつもりらしい。

 と思いつつ、御園さんへ視線を移す。

 御園さんが処女だなんて決まってない。だけど、失礼ながら、彼女の容姿をまじまじと見たら、あかりちゃんたちがそう示唆するのはわからないでもない。

 いやいや、そんな失礼なことは思ってない。

 御園さんはちょっとふっくらしてて、お菊人形のような髪型をしているけれど、彼女の個性を際立たせて似合っている。

 薄化粧でそばかすも隠せてなくて、あまり愛想良く笑わないけれど、実はユーモアのあるお茶目な女性だと知っている。

 ただちょっと、彼女の良さが周囲に伝わりにくいだけの人なのだ。

 それに比べ私は、入社時からスタイルアップ、メイクやファッションに至るまで環さんに最上のものを叩き込まれているから、彼氏がいないなんて思われてないんだろう。

 もし、処女だって知られたら、先輩としての威厳を失ってしまいそうだ。

 これはまずい。

 あかりちゃんも莉子ちゃんも自信家だし、恋バナは大好きだし、同じグループになったら墓穴を掘りかねない。

「私、やっぱり菜乃花ちゃんが心配だからAグルー……」
「私がAグループのリーダーやるわ」

 私がおずおずと言うのを遮るように、御園さんがきっぱりとそう言う。

「え……」
「私は処女じゃないけど、通ってきた道はわかるから。花村さんは三島さんと江上さんの三人で、Bグループをやるといいわ」
「えーっ、御園さんって彼氏いたんですかー?」

 あかりちゃんが私の気持ちを代弁するかのように叫ぶ。

「悪い?」

 仏頂面というより、無表情で御園さんが答えると、「わっ、悪くはないですっ」と恐れおののいて、あかりちゃんたちは席へと戻っていった。

「じゃあ、そういうことだから、高木さん、よろしく」

 さっぱりとしたあいさつをされた菜乃花ちゃんは、戸惑いながらも、ぺこりと頭をさげた。あかりちゃんたちほど、御園さんに対して苦手意識はないみたい。

 それなら大丈夫だろうと、私はホワイトボードの前に移動すると、名前を書き込んだ。

 Aグループ 御園、高木
 Bグループ 花村、三島、江上

 決まってみれば、しっくりくる。

 御園さんは私たちの相性まで熟知してくれてるのだろう。

「それじゃあ、御園さん、打ち合わせしましょうか」
「個室に行きましょう」

 打てば響く御園さんと仕事するのは居心地がいい。

 環さんから渡された企画書を手に取ると、私たちは早速、個室へと向かった。
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