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好きじゃなきゃしない

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 倉庫からヨガマットを運んできて、スタジオの中央に川の字に並べた。

 私はピンク、御園さんは紫、菜乃花ちゃんは黄色。蓮は青で、私たちの前に横向きに敷く。それだけで一気に、真っ白でシンプルなスタジオが華やかになる。

 ヨガマットの上に座ると、蓮が私たちをゆっくりと見回す。

 仕事中の彼は、あいかわらず凛々しい。ふたりきりになると、美人だ、きれいだと散々甘やかしてくれる彼は鳴りをひそめている。

 また、ふたりきりで会ったら、私だけを見つめて抱きしめて、甘いキスをしてくれるのかな。

 ……って、なに考えてるの。

 まるで、蓮と触れ合いたいみたい。

「まずは準備体操兼ねて、簡単なストレッチからやりましょうか。では、仰向けで横になって、両手を上に伸ばしましょう」

 彼の声にハッとする。慣れた様子で、スムーズにレッスンが始まる。

 良からぬ思いにふけっていた私を猛省しつつ、あわてて仰向けになる。

 蓮の動きを確認しながら、両手を伸ばす。かかとを押し出して上下に体を伸ばしていく。座り仕事ばかりだから、これだけでも気持ちがいい。

「次は足首を回していきまーす」

 反時計回りに足首をクルクル回し、時計回りにも回していく。

 それから、両ひざを合わせて左右に倒したり、足を横に倒して背骨をひねる動きをする。

 骨盤や股関節まわり、腹斜筋などのお腹まわりの筋肉を動かしているのだ。体が整っていくみたいに伸びていく。

 お腹を触ると、思ったよりお肉がつかめる。友人とのディナーやランチが続いてたから、ちょっと太ったのかもしれない。

 身を引き締めなきゃと決意を新たに、蓮のかけ声に合わせて体を動かしていく。

 ガラス張りのスタジオに差し込む午後の光を浴びながらのレッスンは、本当のレッスンよりもなごやかだった。

 最近はセルフケアばかりで、ジムもたまにしか行かない。サク美の全社員は、サク美ジムの会員になっているから、ショッピングに行くような感覚で気まぐれに利用してるだけ。

 目標の体型にするまでは、ダイエット中心ともいえる生活をしていて、その頃を思うと、最近はずいぶんたるんだ生活をしてるだろう。

 ダイエットを始めたきっかけは、なんだっただろう。天井を見上げながら思い浮かぶのは、やっぱり環さんだった。

 男性社員の多い開発部の中で、彼女は一際ひときわカッコよくて、キラキラしていた。自分に自信のある人って、こんな風に輝けるんだと感動した。

 しばらくして、環さんには結婚願望がないのだとうわさで知り、彼氏と無縁だった私には、より一層、仕事一筋に立派に生きていける女性としてのお手本になった。

 私も環さんみたいになりたい。

 すぐに、彼女は私の目標になった。

 私はひとりっ子で、両親は共働きだったから、小さな頃から家の手伝いをよくしていた。料理は好きだったし、高校生になってからはお菓子づくりばかりしていた。

 食べてくれる兄弟がいないから、ついつい、おやつを食べすぎちゃって、やせてるクラスメイトの子よりぽっちゃりしてる自分が恥ずかしかった。

 紀子は、太ってないよ、みんながやせすぎてるだけ、そのぐらいがかわいいよ、って言ってくれたけど、そういう彼女もやせていたし、やっぱり周りに何を言われても自信がなかった。

 だから環さんが、ダイエット始めたって聞いたよ、花村は磨けばもっときれいになれる、って声をかけてくれた時はびっくりした。

 私みたいな地味な新入社員を気にかけてくれるなんて思ってもなかったのだ。

 それから、環さんのアドバイスとジム通いで、1ヶ月に1キロ減を目標に、7キロやせた。料理好きがこうじて、ダイエットメニューを作るのも楽しかったから続いたのだと思う。

 やせたことによる変化といえば、消極的だった男性との会話が増えたこと。でも、恋に発展する人はいなかった。恋と体型はあんまり関係ないんだな、なんて思ったりしたものだった。

 それから数年、恋はあきらめて、環さんについて仕事をがんばってきた。

 第三企画に異動になってから、ますます仕事が忙しくなった。こうして、トレーナーの指導でストレッチするのは久しぶりで、新鮮な気分だった。

「次は体を起こしてよつんばいになります。ヨガのポーズをします。はい、背中を丸めてー」

 よつんばいになり、背中を丸めてキャットのポーズ。そのままそらして、ドッグのポーズ。姿勢改善のために、私も毎日やってるポーズだけど、午前中はずっとパソコンに向かっていたからか、背中がずいぶん固まってるみたい。

 しっかり伸ばした後は、両手を床につけたまま後ろへ腰を下げ、背骨と首の後ろを伸ばして、チャイルドポーズでリラックス。

 このまま眠っちゃいたいぐらい気持ちがいい。

「あともう少し、がんばりましょう。体を起こして、足を伸ばしていきます」

 かかとを床につけて、ふくらはぎを伸ばした後は、お尻の横を伸ばす。そして、開脚ストレッチに移り、最後は軽く肩回しをする。

 一通り終えると、全身を動かしていた。程よい疲れが気持ちいい。

 どれも難しくないし、つらくもない。普段は好きなストレッチばかりやってるから、あまり動かしてなかったところも伸ばせた気がする。

「おつかれさまでした。だいたい、これで7分程度のストレッチになります。かたい場所は少し長めに伸ばしてもらったり、無理せずゆっくりめにやってもらってかまいませんが、きつくなかったですか?」

 蓮が尋ねると、御園さんが穏やかな笑顔で答える。

「朝のストレッチにいい感じね。全身が動きやすくなった気がするわ」

 彼女の言うように、体がすっきりしてる。いつも無表情の彼女だけど、優しい表情になるのは当然と思うぐらい、ストレッチの効果を実感してる。

「菜乃花ちゃんはどう……って、菜乃花ちゃん、柔らかいっ」

 菜乃花ちゃんにも感想を、と思って話をふろうとしたら、彼女は長座のまま前屈していた。きれいにぺたんと折れ曲がる姿勢に驚いてしまう。

「ほんと。高木さん、柔らかいのね」

 感心するように御園さんが言うと、菜乃花ちゃんはちょっと肩をすくめる。

「昔から柔らかいんです。そう言うと、よく羨ましがられたりするんですけど、小さい頃から普通にできるので、できるのが当たり前っていうか」
「特別なことに感じてないのね。それって、才能よ」

 私なんかはすごく羨ましく感じてしまう。ストレッチを毎日するようになって、もう5年近くになるけど、開脚もそれほどできないし、私はもともと体がかたいんだってあきらめている。

「才能なんでしょうか。体操教室でも、体育の授業でも褒められることが多かったので、私はみんなと違うのかなって思ってました」
「そうよ、才能だと思う。だから、この仕事を選んだの?」

 体のトータルプロデュースができる大企業であるサク美には、どちらかというと、体に自信のある社員が多い。

 一見、おとなしそうに見える菜乃花ちゃんもまた、私が憧れる人たちの一人だったみたい。

「最初は、人体に興味を持ったんです」
「からだのしくみを知ろうとしたの?」
「はい。それで、理学療法士の仕事を知って、なりたかったんですけど……うまくいかなくて」

 ちょっと恥ずかしそうに彼女は笑った。

「理学療法士になりたかったんだ?」

 初耳だわ、と驚いて問う。

 はい、とうなずいて、菜乃花ちゃんは蓮に目を移す。

「自宅から通える国立大学に進学しなさいって親に言われたんです。近くで理学療法士になれる学部のある大学は、東崎大学しかなかったんです。結局、東崎大学はあきらめて、教師になろうと思って教育学部に進みました」
「そうだったの」
「だから、黒瀬さんはすごいなって思って。東崎大学を卒業されてるんですよね? 本当に尊敬します」

 小さく首を横に振ったように見えた蓮だったが、何も言わなかった。

 東崎大学を卒業してる自分を謙遜するのは、合格しなかったという菜乃花ちゃんを傷つけると思ったのだろうか。

 彼も努力しただろうけど、それは菜乃花ちゃんも同じだっただろう。私にだって、東崎大学は夢のまた夢だった。

 努力したって叶わないことはある。それでも、私はサク美に入社して、それなりに充実した毎日を送っている。

 菜乃花ちゃんが恥じる必要も、蓮が謙遜する必要もないのにと思う。でもそれは、私の価値観で、彼らの幸福度がどうかなんてわからないのだとも思う。

「御園さん、御園さんは毎日ストレッチしてますか?」

 蓮は話題を変えて、御園さんにそう尋ねた。出身大学の話なんて、大した興味がないのだろう。

 菜乃花ちゃんも、話しすぎたと思ったのか、気恥ずかしそうに口をつぐんだ。

「朝と夜のストレッチは欠かさないようにしてるわ。でもダメね。これ以上はやせないわ」
「やせたいんですか?」
「体重を減らしたい気はないわね。この体重が一番、体が楽なの。欲をいえば、ふくらはぎかしら。よくむくんで、細くならないわね」

 御園さんはいまいましそうに、ふくらはぎをむぎゅっとつかむ。

「そうですか。足首がかたそうな感じがするので、チェックしてから、ふくらはぎのマッサージをしましょうか」
「教えてくれるの?」
「もちろんです。続けてもらえれば、きっとすっきりしていきますよ」

 蓮は御園さんを立ち上がらせて、ふくらはぎのチェックをしていく。

 その間、私はノートを開いて、蓮の考えたストレッチの流れを記録していった。

 御園さんの言う通り、これは朝のストレッチにいいだろう。菜乃花ちゃんに意見を求め、話し合いを進める。

「忙しい朝にはちょうどいい長さですよね。起きてすぐ、お布団の中でもやれると思います」
「そうね。これなら、普段運動しない方でも続けられそうよね」
「難しい動作はないので、はい、いいと思います」
「あとはちょっとした運動と、夜のストレッチを考えたらいいかしら」

 蓮に目を移す。彼は御園さんのふくらはぎに手を当てて、マッサージのやり方を指導している。

 御園さんはがんばりすぎかもしれませんね、と彼が言うと、彼女は奇妙な表情をする。苦い記憶が思い出されたのかもしれない。

「気持ちよくやってください。やりたくない時はちょっとさぼってもいいです。御園さんの体を労われるのは、御園さんだけなんですから」
「昔も、そう言ってくれた人がいたわ……」
「そうですか」
「黒瀬さんは体を治せても、心は治せないわよね」
「なんですか、それ」

 蓮はおかしそうに笑う。

 御園さんにも、気を許したように笑うのだ。ちょっと胸がちくりとする。

「失礼な言い方しちゃったわね。黒瀬さんはたくさんの方の笑顔を取り戻すお仕事されてるのに」
「いえ。御園さんの心がもし壊れてるなら、治してくれる人は俺以外にいると思いますよ」
「いるといいわね」
「そうですね」

 蓮は御園さんの別れた彼を知らないだろうけど、さっしてそう言ったのだろう。

 彼は思うより繊細で、体だけじゃなく、心も癒してくれる人。

 でも、私は蓮の心に触れることができない。抱けるなら誰でもいいと言った彼が証拠じゃないかと思う。

 私じゃなくても、抱いた。
 彼はそう告白したのだ。

 どんなに近づきたくなっても、近寄らせてくれない。そういうのを、無縁って言うのだと思う。

「それじゃあ、このマッサージを1分から2分ぐらいやって見てください」

 御園さんにそう声をかけた蓮は、そのまま私へと目を向けた。

「次は花村さんですね」
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