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好きじゃなきゃしない

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 大通りに停められた車に乗り込むと、髪や肩をぬらした伊達さんが、「使って」と、運転席からタオルを差し出してくれた。

 遠慮しようとしたけど、彼がもう一枚タオルを持っていたから、お礼を言って受け取った。

「朝まで降るって言ってたから、帰りは家まで送るよ。実家って、大学の近くだっけ?」

 ジャケットをぬぐっていると、彼がそう申し出てくれる。

「あ、今は一人暮らししてるんです。地下鉄で帰れるから、すみませんが、どこかの駅まで送ってください」
「そうなんだ。大丈夫、送るよ。とりあえず、レストランに行こうか」

 送るのなんて大したことないっていうように言って、彼は車を発進させた。

 ひどい降りだ。ガラス窓に打ち付ける雨を眺めていると、彼が口を開く。

「さっきの人、知り合い?」
「え?」

 何気なく、さらりと尋ねてくるから、とっさに何を言われてるのかわからなくて、きょとんとする。

「佳澄ちゃんを見てた彼」

 あっ、と声をあげそうになって、飲み込む。

 伊達さんも蓮に気づいてたみたい。

 あんな一瞬だったのに、よく見てる。気配り目配りできる人だからこそだろう。

「同僚なんです。いま、一緒のチームで仕事をしてて」
「声をかけてくるわけでもないのに、ずっと見てたから、大丈夫かなって気になってさ。ごめん。変なこと聞いて」

 大丈夫かなって、変に言い寄られたりしてないかって心配したんだろうか。

 どちらかというと、私が言い寄って、無理難題をお願いした関係で、いま思えば、蓮は気の毒な青年でしかないのだけど。

「最近、入ってきた人だから、声かけにくかったのかも」
「中途採用?」
「すごく優秀で、引き抜かれた感じみたいです。あんまりよく知らないんですけど」
「よく知らないんだ?」

 小さく息を漏らして笑う彼は、そうなんだ、と納得するようにつぶやき、続けて言う。

「佳澄ちゃん、旅行はよく行く?」

 話題を変えた。蓮のことはもう気がかりじゃなくなったみたい。

「旅行は去年行ったきりかな。加奈江が結婚する前に」

 毎年必ず、加奈江と旅行に行ってたけど、結婚してからは遠慮して、旅行に行きたいね、って話題も出さないようにしていた。

 紀子も無理だし、ほかに旅行に出かけるような友人もいない。

 最近は、文字通り、仕事一筋の毎日。振り返ってみると、充実してるようで充実してない日々だったんじゃないかと思う。

 29歳になる日も遠くはない。貴重な20代の過ごし方がこれでよかったのかと、今更ながらに考えてしまう。

 憧れの環さんだって、結婚願望がないだけで、恋愛はたくさんしてきたかもしれない。

 もしかしたら、恋愛経験が豊富だからこそ、加奈江みたいに仕事中心の人生にしていこうと決めたのかもしれない。

 私はただ、何も経験しないまま、歳を重ねてきただけのような気がする。

 今からでも遅くないだろうか。

 たくさんは無理でも、本当に好きな人と大恋愛したい。相手も望んでくれるなら結婚したい。そういう人生、送れるだろうか。

「ふしぎだよね」

 有名ホテルの地下駐車場に車を停めると、伊達さんはシートベルトを外しながら、そう言った。

「ふしぎって?」
「さっきの、結婚したらなかなか旅行に行けないって話。俺もそうだよ。周りはみんな結婚したし、何するにもひとり。何年かして、おんなじ境遇の佳澄ちゃんと再会してさ、人生ってふしぎなもんだなって」

 しみじみと語って運転席を降りた彼は、私が降りやすいように助手席のドアを大きく開けてくれる。

「伊達さんはその気になれば、すぐに結婚できそうです」

 彼だって、たくさん恋愛してきたのだから、私と全然同じじゃない。

「佳澄ちゃんは、結婚したいって思ったことないの?」
「……はい」

 というか、その前に、彼氏がいない。

「モテそうなのにね」
「それが全然なんです。仕事が充実してるので、気にもしてなかったんですけど」
「あー、わかるよ。俺も仕事と趣味で毎日忙しいし、やりたいことたくさんあって、気づいたら、ってやつ」

 彼は何か勘違いしてるみたい。

 生活が充実してて彼女のいない伊達さんと、モテなくて彼氏のいない私とでは、同じいないでも雲泥の差だ。

「伊達さんは、私と話してて、楽しいですか?」

 勇気を出して尋ねてみた。

 私はどんな女性に見えるのだろう。興味があった。

「もちろん。佳澄ちゃんこそ、俺といて楽しい?」

 即答だから、ちょっと驚いた。

「あ、はい。いろんなことご存知だから、新しい発見もあって楽しいです」
「うれしいな。それなら、また誘っていい?」
「え……、あ、はい。たぶん……」

 なんだろう。ずいぶんと積極的に感じる。

「やっぱり、たぶん、なんだ?」

 彼は苦笑して、困ったように眉を下げる。

「すみません」
「いや、いいよ。俺、そういう気のない態度に遠慮しないし。慎重な子なんだろうなって、むしろ好感だから」
「……えっと」

 口説かれてるんだろうか……。
 それとも、考えすぎ?

 好意があると思っての、リップサービスかもしれないけれど、あまりに言われなれてない言葉たちにただただ戸惑う。

「今日は最上階のレストラン予約したから。あいにくの雨だけど、料理はうまいからさ、満足できると思うよ」

 そう言って、食事をする前から満足そうに笑んだ彼は、私の腰に手を回し、エレベーターの方へエスコートしてくれたのだった。




 ワイパーがせわしなく動いている。

 少しは雨足も弱まったんじゃないかと期待してレストランを出てきたのに、さらに降りは激しくなっていた。

「もう少ししたら、弱まるかなぁ。あと30分だけでもレストランでゆっくりしてたらよかったね」

 信号待ちで、伊達さんはハンドルに腕を乗せ、フロントガラス越しに見えない空をのぞき込んでいる。

「はやくやむといいですね。明日はせっかくの休みなのに」
「佳澄ちゃん、明日は出かける用事あるの?」
「明日は何もないかな。……ほとんどいつも空いてるんですけど。会うって言ったら、加奈江とばっかりで」
「じゃあ、明日っていうのは急すぎるから、来週、ドライブに出かける?」
「えっ、ドライブですか?」

 というか、また誘ってくれるのだ。

 今日も、楽しかったのだろうか。
 大学時代の懐かしいエピソードをあたりさわりなく話してただけなのに。

「ドライブは嫌? だったら、ショッピングにも付き合うし、行きたいところあればどこでも」
「また誘ってもらえるなんて思ってなくて、頭が真っ白で」
「じゃあ、行き先は来週までに考えよう。土曜日は大丈夫?」

 バッグからスケジュール帳を取り出して、念のため、予定がないか確認する。

 空欄ばかりの週末を見れば、しばらく何も予定がないのは一目瞭然だった。

「はい、大丈夫です」

 確信を持って答えたからか、伊達さんはうれしそうにほころんで、前方に視線を移す。

「よかった。……次の信号、右に曲ったところだよね?」
「はい、曲がってすぐにあるアパートです。駐車場がないので……」
「駐車場ないんだ。じゃあ、前に停めるよ。雨、大丈夫かな。濡れちゃわない?」
「送ってもらえるだけでもう、本当に助かりましたから」
「降りたら、すぐに中に入ってよ。佳澄ちゃん、律儀だから俺が帰るまで見送りしてくれそうだし」

 そう言って、彼はやんわりと苦笑する。

 久しぶりに会う彼の言動に驚いてるばかりの私と違って、私の性格をよく見抜いてるみたい。

 きっと、私が思ってるより、彼は私を理解してる。

 私は伊達さんの雰囲気が好きだっただけで、強引なところのある彼の内面まで理解できていなかったのだと思う。

「ここかな。このアパート?」

 三階建ての白いアパートを指差して、伊達さんが言う。

 唯一、電気がついていない二階の角部屋が、私の部屋だった。

「はい、ここです。ありがとうございます」

 部屋の場所までは伝えず、頭を下げてシートベルトをはずす。シートの横に借りたタオルがあるのに気づき、手に取る。

「あ、急にやんできたね」

 彼の言う通り、さっきまでの降りが嘘のように小雨になっていく。今ならそれほど濡れずに部屋へ行けるだろう。

「タオル、洗ってお返ししますね」

 そう言って、ドアを開けようとした時だった。

「佳澄ちゃん」

 伊達さんの手が、腕を優しくつかんでくる。

「え……」

 彼の方へ視線を移そうとした瞬間、目の前を覆うように現れた顔が近づいて、唇が重なった。

 驚いて、まばたきを繰り返す数秒間、重なるだけのキスが続いた。

 抵抗を忘れた私を誤解したのか、さらに深く重なってこようとするから、ハッとして身をよじる。すると、彼は照れくさそうに離れていった。

「驚かせて、ごめん。佳澄ちゃんがあんまりかわいいから、待てなくて」

 待てなくて……?

「来週も楽しみにしてるよ」

 どういうこと?

 続きは、来週って言ったの?
 だから、土曜日に約束したの?
 泊まることも考えて?

 たくさんの疑問が一気に吹き出してきて、顔が真っ赤になるのがわかる。

 なんて、自意識過剰なんだろう。伊達さんはそんなこと、ひとことも言ってないのに。

「部屋まで送らなくていい?」

 そう言われて、我にかえる。

 部屋にあがりたいって言われたりしたら……。

「大丈夫です。じゃあ、私、行きます」
「うん、また。来週、必ず」
「……あ」

 必ずって、言葉が強かった。

 どうしよう。
 そういうことなんだろうか。
 拒んだらいけないよって?

 恋愛経験がないって、こういうときに困るのだ。彼の意図がまったく読めない。

 あいまいにうなずいて、車を飛び出した。

 そのままエントランスに飛び込み、階段を駆け上がる。二階の通路から下を見下ろすと、傘をさした彼が車の横に立ち、こちらを見上げていた。

 私が部屋に入るまで待っててくれてるのだろう。部屋の場所を知られていいのか、判断がつかないまま、角部屋に飛び込んだ。

 玄関ドアにもたれて、胸もとをつかむ。すごくドキドキしていた。

 この胸の高鳴りの正体がなんなのか、よくわからない。そのぐらい、動揺してる。

 玄関をあがろうとして、ポーチにある傘立てを見下ろした。

 傘……。

「蓮くん……」

 会社を出るとき、私を見ていた蓮の手に傘はなかった。

 彼も、私と同じように傘を忘れて出かけたのだろうか。

 もしかしたら、まだ雨宿りしてるかもしれない。彼はいつもカフェラルゴで夕食を摂ると言ってたから。

 なぜ、とっさにそれを思い出したのかわからない。私は長傘をつかむと、ふたたび外に飛び出していた。
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