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約束の場所で待ってる

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 さざなみ公園に到着する頃には、日は傾き始めていた。周囲はじきに闇に閉ざされてしまうだろう。

 海沿いのフェンスに光る灯りしか頼りのない広い公園で、いるかどうかもわからない紀子を見つけられるだろうか。

 記憶を頼りに、よく紀子と並んで座ったベンチを探した。

「たしか、この辺りにベンチがあったはずなんだけど……」

 もう、10年も前のこと。公園の改修工事が行われたかもしれない。ところどころで、記憶にないオブジェが建っていて、切り取られた記憶に符合するベンチが見つからない。

「紀子さんって、髪の長い女性ですか?」

 蓮が紀子の特徴を聞いてくる。

「肩より少し長いと思う。いつもは後ろで結んでるけど、今日はどうかな……」
「赤が好きだったりする?」
「赤? そうだね。ピンクとかオレンジとか、暖色系が好きかも。でもなんで、そんなこと?」
「駐車場の端っこに停まってる赤い車の人、さっきからずっとハンドルに顔伏せてるから。変だよね」

 蓮の目くばせする方へ視線を移す。

「あっ、紀子っ!」

 顔を見なくても、すぐに彼女とわかる。

 ハンドルにもたれかかる疲れ切ったシルエットを見たら、一目散に駆け出していた。

 運転席の窓を叩く。
 顔をあげた紀子は、私と目を合わせると、びっくりした様子ですぐにドアを開けた。

「佳澄、どうしたの?」
「どうしたじゃないよ。おばさん心配してるよ。もうー、心配させないでよー」

 あんどで目が潤んでくる。

 そんな大げさにしなくていいのに、と紀子は小さく笑ったが、同時に、ありがとう、とつぶやいた。

 蓮の言う通り、助けを待ってた。見つけてほしかったんだと思う。

「駿くんはっ?」
「駿は後ろで寝てる」

 後部座席をのぞき込むと、幸せそうな寝顔の駿くんが、ブランケットに埋もれるようにして横になっていた。

「よかった……無事で」
「昨日はホテルに泊まったの。なんとなくドライブしてるうちに、ここを思い出して。高校のとき、よく来たよね。ここに来たら、嫌なこと全部忘れられると思ったの」

 駿くんが起きるといけないからと、運転席から降りてきた紀子は、「こんばんは」と、私の後ろに立つ蓮にそっと頭を下げた。

「彼は……ううん、なんでもない」

 蓮を紹介しようとしてやめると、紀子は察したのか、にこっと笑った。

「友人の前田まえだ紀子です。佳澄と一緒に探してくれたんですね。ごめんなさい」
「いえ」
「ちょっと、佳澄とふたりで話したいんですけど、いいですか?」
「どうぞ。彼、俺が見てますよ」

 車の中の駿くんを指し示す蓮に、私があやまる。

「蓮くん、ごめんね。ありがとう」
「起きたら、すぐ呼びに行きます」

 冗談っぽく笑う蓮に駿くんを任せて、私たちは車の前方にあるフェンスの前へと移動した。

「あの人って、佳澄の好きな人?」
「あ……、うん」
「カッコいい人だね。優しそう」

 話し声が聞こえない距離にいる蓮を振り返って、紀子はそう言う。

「優しいのかな。どうなんだろ。……って、私のことはいいの。紀子、どういうこと?」
「何が?」
「何がじゃないよ。前田って名乗ったでしょ?」

 紀子は結婚して、米原紀子になった。旧姓の前田をわざわざ名乗る必要なんてなかったはず。

「だって、前田になったんだもん。駿も前田にしたの。小学校入る前に決断できてよかったのかも」
「それって……」
「うん、離婚した」

 あっさりと彼女は認めた。

「いつ」
「先週。駿がインフルエンザになっちゃったから、優くんにみててもらおうと思ったの。電話したらね、移されたら困るって言われちゃって」

 紀子は悲しげに空笑いする。

「そんな……」
「結婚するときは同じ価値観でいたと思ってたのにね。変わっちゃうもんだよね。一つほころびができると、どんどん崩れていくの」
「何があったの?」
「……ほんとは結婚したくなかったとか、私と駿が出ていって、独身に戻ったみたいに楽だとか言われちゃった。駿に愛情がないなら、結婚してる意味ないよね」
「ひどいよ、それは」

 紀子は、うん、とうなずく。だから離婚したんだって。

「じゃあ、私にメールくれた時、決めてたの?」
「離婚して、実家に戻ってたの。佳澄に言おうと思ったんだけど、心配すると思って言えなかった。ごめんね」
「私こそ、気づけなくてごめんね」

 あやまらないでよ、と紀子は首を振る。

「優くん、私が出ていってからすぐに離婚を考え始めたみたい。私が離婚したいって言ったら、あっさりいいよって。そう言い出すの、待ってたみたいだった」

 だから、あっけないぐらい簡単に離婚できたのだと、紀子は言う。

「ねー、佳澄。私、何がいけなかったのかなぁ。甘えすぎてたのかな」
「いつ甘えたの」

 思わず、声に力が入った。

 いつ、紀子が甘えたっていうんだろう。ずっと我慢して、ずっと苦しんでたのに。

「一度だけ、お姑さんの悪口言っちゃったことあるんだ。抱え込んでた気持ち、全部吐き出したら、優くんが受け止めてくれるって期待しすぎちゃったのかな。重たかったよね、優くんは。私が負担に感じてたお姑さんは、優くんにとって大切な家族だもん」

 言ってはいけないことを言ったのだと、紀子は目を伏せた。

「紀子も大切な家族だよ。旦那さまが間違ってるよ」
「……ありがとう。でも、もう優くんとは元通りになれないし。駿も、私と一緒がいいって言ってくれたから」
「紀子……」

 紀子は泣き出しそうな顔で笑うと、フェンスにもたれて、海を眺めた。

「すぐに帰るつもりだったの。でも、佳澄に会いたくなって。ここに来たら、高校時代の佳澄に会えるような気がしたの。私をいつも励ましてくれた、佳澄に」
「いつでも呼んでよ」
「うん。やっぱり、佳澄は佳澄だね。なんにも変わってない。私の知ってる佳澄。探してくれてありがとう。彼も紹介してくれてよかったのに」

 紀子は遠目に見える蓮に視線を向けた。

「付き合ってるわけじゃないの」
「そうなの?」
「ふられちゃったって言うのかな。誰も好きにならないんだってわかっちゃって」
「誰にでも優しい人なんだ?」

 意外そうに、彼女は問う。

「……そうだね。きっとそう。そばにいてほしいって頼んだら、ずっとそばにいてくれる人だと思うけど、それ以上でもそれ以下でもないの」
「難しいね」
「うん、難しいね」

 恋は難しい。
 ほとんど思うようにならないことばかりなのに、それでも彼を求めてしまう。

「……帰ろっか、佳澄。何で来たの?」

 しばらくの沈黙のあと、紀子が促す。

「地下鉄」
「じゃあ、私が車で送ってくよ」
「え、いいよ。駿くん寝てるし、紀子も疲れてるでしょ?」
「大丈夫だよ。……あっ、駿、起きたかな」

 紀子の視線の先で、蓮が車の中を指差すジェスチャーをしてる。

 私たちが大急ぎで車に戻ると、後部座席に座る駿くんがぼんやりと蓮を見上げていた。

 寝ぼけてるのだろう。しばらく蓮を眺めていたが、紀子が顔を出すと、ぼーっとしたまま、ブランケットの中へもぐってしまった。

「また寝ちゃったね」
「ね、疲れちゃったかな。彼の家も佳澄と同じ方向?」

 そう尋ねて、紀子は私たちを送ってくれると言ったが、結局、蓮が車を運転してくれることになった。

 蓮は紀子を無事に家まで送り届けたかったんだと思う。彼の優しさは残酷なぐらい、私の心に刻まれていくのだ。
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