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ろまん亭の人々
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ろまん亭の入り口に戻りながら、彼は尋ねてきた。中へ入れてくれるみたい。
「この張り紙、滝沢さんが書いたの?」
「そうです」
ドアを開けてくれる彼に尋ねると、短い返事が返ってきた。
物腰は柔らかいし、とっつきにくい雰囲気はまったくない人だけど、実は多くを語らないそっけない人なんだろうか。
へたな文字でしょう? とか、店を任されて大変です、なんて返事に困る返しが来ても戸惑ってしまうけど。
いつまで休業するのかすらわからない案内書きでは、不便もあるんじゃないだろうか。そう尋ねようかとも思ったけど、考えてみれば、私には関係のない喫茶店だし、心を配る必要もない気がして、そのまま黙って彼について店内へ進んだ。
店内は思いのほか、明るかった。いつでも営業再開できそうなほど、きれいに整えられている。主人を失った店とは思えない。
来年には売却するかもしれない。それを言い出せる雰囲気はなくて、いつでもお客様を迎え入れる準備をしてくれている彼にかける言葉も見つからない。
私は、ろまん亭について何も知らない。彼に助言できることなんて一つもない。父が死に、書類上、私が譲り受けたこの店は何一つ私のものじゃない。
「コーヒーでいい?」
「淹れてくれるの?」
「コーヒー淹れるの、俺よりうまいんじゃないかって永朔さんに言われてたぐらいには上手に淹れられるから」
「そうなんですね。楽しみ」
キッチンに立つ陽仁さんと向かい合わせになるようにカウンターにつく。
丁寧に折りたたまれていた焦茶色のエプロンをつけた彼は、すっかりカフェ店員に早変わりしていた。制服を身につけると、どこかキリッとしているように見えるからふしぎだ。
「ろまん亭、再開できるようになったら、また手伝いに来るから」
コーヒーを上手に淹れられる自信はあると、彼は言ったのだろう。
今日私が来たのは、再開に向けての下調べだと思ったのだろう。ますます、売却するつもりだなんて言えなくなる。
「喫茶店経営するの、大変ですよね」
「白石さんは仕事、何してるの?」
「私は事務。毎日パソコンとにらめっこ。お休みの日はお菓子作りもするけど、趣味程度だし」
まるで、私が喫茶店の経営に前向きになってるみたいな返事をしてるって気づいて、微妙な表情を浮かべると、彼はますます誤解したみたいだった。
「大丈夫ですよ。永朔さんはメニューのレシピ、事細かく全部残してくれてて、練習すればなんとかなります」
「そんなレシピがあるの? ごめんなさい。私、何にも知らないの」
「秘伝のレシピだから、陽三さんに渡そうと思ったんだけど、ここに置いてほしいって言われて……」
そう言いながら、彼は食器棚の引き出しを開き、古びたノートを何冊か取り出す。秘伝のレシピっていいながら、案外雑に管理してるみたい。
「人気メニューと、常連さんが喜んでくれてる裏メニューにはふせんが貼ってあります。あと、通常メニューはこっち」
古びたノートと、カウンターの上に置かれたメニュー表を重ねて、彼は私に差し出した。
メニュー表を開く。よくある喫茶店のメニューが写真付きでずらりと並んでいる。変わり種メニューがあるようには感じられない。
それから、レシピノートを開いた。
「全部、父が考えたの?」
材料、調理工程、手書きのイラスト……コンセプトに至るまで、詳細に書き込まれている。
私は父がどんな人かまったく知らない。ノートを見る限り、まじめで几帳面で、職人気質の人だったのかもしれないとは思う。
そういう人だから、私を引き取って育てることはできなかったのかもしれない。そう思ったら、妙にふに落ちることもあった。
「新メニューは常に考えてるみたいだったな。探究心がすごいっていうか。その通りに作れば、きっと同じ味が作れるよ。別に同じじゃなくてもいいのかもしれないけど」
「父はろまん亭をどうしたいって思ってたか、知ってる?」
「さあ。そういう話は聞いたことないから。お客さんは再開してくれたらうれしいって言ってるけど」
「繁盛してたんだね」
「もともとたきざわ夕市美術館の中にあった喫茶店だから、地元の人も観光客も寄ってくれるしね」
「美術館の中に?」
彼は肯定するように、そっとうなずく。
そうなんだ。本当に私は何にも知らない。
もっと聞きたい。そういう衝動が私の中に生まれた。父を知りたいなんて思わなかったけど、なぜか今は、知りたいって気持ちが湧いてくる。
父は、喫茶店を経営したいという夢を叶えたんだろうか。
夢を叶えられる人なんて、実際は一握りだろう。人はみんな、何かをあきらめながら生きている。私はそうだった。だから、そう思って生きてる。
でも、父は違ったんだろうか。家族を失っても、夢は手にした。家族を失うことが夢を叶えた代償だとしたら、それはとても大きい代償だったのだろうか。父は私や母をどう思っていたんだろう。
私が元彼とこじれてしまったように、父と母はいつからすれ違ってしまったんだろう。その理由がろまん亭なら、私はやっぱり、この店を好きになれない気がした。
「あれ? 3つ?」
カウンターの上に、彼が有名ブランドのコーヒーカップを二つ置く。一つは彼のだろうと思ったのに、彼は愛用のマグカップだろうか、手びねりで作られたとわかるしゃれたマグカップに砂糖を入れてスプーンでかき混ぜていた。
「もうすぐ来るだろうから」
壁にかけられた時計に視線を向けて、彼は言う。
その時計は、オーソドックスなデザインの鳩時計だった。30分後には、12時を知らせる優しい笛の音を聞かせてくれるのだろう。
「誰が来るの?」
「息子さんっていうのかな。毎日この時間にお昼ごはん食べに来るんだよ」
「えっ? 息子? 息子って、父の?」
目を見開いて驚くと、彼はくすくす笑った。
何がおかしいんだろう。全然笑いごとじゃない。父に子どもがいるなんて聞いてない。再婚した話すら聞いたことないのに。
いきなり、血のつながった兄弟に会うはめになるとは思わなくて、胸がばくばく音を立てる。
「名前は? 何歳ぐらいの人?」
矢継ぎ早に尋ねると、彼は首をかしげた。
「ゲンさんは……えぇっと、何才だったかな」
ゲンっていう名前らしい。漢字にすると、一文字だろう。望という名前も、父がつけてくれたと祖母から聞いた。一文字の名前が、父は好きだったらしい。
「ゲンって、どうやって書くの?」
「ゲンは弦だよ。弓へんの、つる」
後ろから、別の声が聞こえてきた。振り返った私は、ヒュッと息を飲んでいた。
入り口に、背の高い男の人が立っていた。背中まで伸びた黒髪を一本に束ねた、サラリーマンらしからぬ青年で、無精ひげもはやしている。寝起きみたいにだらしのないトレーナー姿で、10月だというのにサンダルを履いている。
「あ、あ、あなたが弦さんっ?」
声がうわずってしまった。
どう見たって、私より年上の男の人だから。まさか、父に隠し子がいたなんて。
「何言ってんだ。ゲンはこっち」
あきれた様子で、長髪の彼は手首に巻いていたひもを引く。
私の目は見開いたまま、ひもの先をたどっていった。そうして、ドアのかげから現れた薄茶色の毛の彼を見て、声をあげた。
「犬っ!」
薄茶色の毛の彼は、人懐こいのか、私を見るなり後ろ足立ちして、真っ白なお腹を見せ、しっぽを振った。
「ゲンさんって、柴犬のこと?」
「柴犬のさんぽは毎日かかせないからな。今は俺が面倒見てる。あ、俺の名前はつづみだから」
返事にならない返事をして、つづみと名乗った青年は、しゃがみ込んで、腰にぶら下げていたタオルで弦さんの足をふき始めた。
「つづみさんって、太鼓のつづみ?」
彼の名前が漢字一文字かどうか確かめたくて尋ねていた。もしかしたら、父には隠し子がいて……なんて妄想から抜け出せてない私を、つづみさんはめんどくさそうに見上げてくる。
「本名はひらがな。仕事んときは鼓だな。竹村鼓。なんかちょっとカッコいいだろ」
「はあ」
「はあって、失礼な女だな。で、あんた誰? 陽仁の新しい彼女?」
首輪からリードをはずすと、弦さんはキッチンの出入り口に移動して、行儀よく座った。毎日こうやって、陽仁さんからごはんをもらってるんだろう。
「かっ、か、彼女じゃありませんっ」
「全否定。いいの? 陽仁」
クッと笑ったつづみさんは、私の隣へ腰かけると、コーヒーカップを手もとに寄せた。
「彼女は白石望さん」
弦さんにドッグフードを準備して、陽仁さんがそう言う。
「望?」
「永朔さんの娘さんだよ。今日は……なんで来たんだっけ?」
そういえば、まだ聞いてなかったと、彼が私を見ると、つづみさんも一緒になってまじまじと見つめてくる。
「なんでって……、ちょっと見てみたかったの。父がどういうところで仕事してたのか」
口から出まかせを言ったけど、あたりさわりのない答えに、ふたりは納得したみたいだった。
「それなら陽仁が詳しいな」
「永朔さんの家のことならつづみさんが詳しいよ」
「押し付けるなよ。俺は好きで弦さんの面倒見てるだけだ」
「弦さんはほんとにつづみさんになついてるよね」
「毎日さんぽに連れてってるからな」
まんざらでもなさそうに得意げに笑うと、つづみさんはコーヒーを飲み始めた。砂糖もミルクもいらない人みたい。
陽仁さんも、コーヒーをひと口飲む。彼は砂糖だけ入れるタイプなのだろう。私は砂糖もミルクも入れて飲む。きっと、どんな飲み方をしても、このコーヒーはおいしい。さっきから、芳ばしい香りが店内を充満してる。
「あー、おいしい。滝沢さんの淹れたコーヒー、評判いいのわかります」
これが、父の認めた味なんだって、感動を伝えたら、陽仁さんは「ありがとう」と、照れくさそうに目を細めた。
「滝沢さんなんて堅苦しいから、陽仁でいいよ。望ちゃんでいいよね?」
そう勝手に言うのは、つづみさんだった。
「まだ知り合ったばっかりなのに失礼だよ」
「あ……、別にかまいません。おふたりとは長い付き合いになるかもしれないし」
弦さんは父の飼っていた犬だろう。さらっと聞き流してたけど、だから、つづみさんは今は俺が弦さんの面倒見てると言ったんだろうし、陽仁さんは弦さんは父の息子だと言ったのだ。
「だってさ」
つづみさんが得意げな表情をすると、陽仁さんは申し訳なさそうにするが、私は首をふる。
「この店も家も、弦さんだって全部お任せしちゃってて、ほんとにごめんなさい。すぐには何も決められないので」
「まだ亡くなって半年だからな、仕方ないさ。弦さんの心配はするな。俺が面倒見る」
「助かります。うちに連れて帰ってもいいけど、うちは祖父母しかいないし……」
毎日のさんぽは大変だろう。弦さんだって、いきなり環境が変わったら戸惑うだろうし。
思い悩みながら顔を上げると、陽仁さんがじっと私を見ていて、なんだか落ち着かない。変なこと、言っただろうか。
「望ちゃん、お母さんいないんだ?」
陽仁さんは微妙に眉をひそめた。彼が気になっても言えないことを、あっさり口に出すつづみさんを非難してるみたい。
「ずいぶん前に病気で。仕事ばっかりの人だったから、それでかな。あっ……気にしないでください。別に両親がいないからって、さみしいわけじゃないし、かわいそうでもないし」
幼少の頃、仕事の忙しかった母にかまってもらえない私だったけど、祖父母と一緒に出かけるのは好きだったし、楽しかった。
それなのに、お母さんがいなくてさみしいよね、お父さんもいないなんてかわいそう、って周囲の大人たちは無責任に言った。
だからつい、いまだに防衛本能が働いちゃうのだろう。言われる前に、私はかわいそうな子なんかじゃないってアピールするくせがついてしまってるみたい。
「あ、滝沢さんって苗字、この辺りに多いの?」
話を変えると、陽仁さんはちょっと驚いたみたいにまばたきをした。
「ほら、あの有名な画家のたきざわ夕市の出身地って、ここなんでしょ? だから、美術館もここに建てたんですよね?」
「滝沢って、この辺りじゃ、あんまり聞かない苗字だよ。陽仁はたきざわ夕市の息子だからさ」
あいかわらず、答えるのはつづみさんだ。
「えっ、そうなのっ?」
驚きつつも、点と点が線でつながるみたいに納得していた。
29歳にもなってアルバイト暮らししてる陽仁さんは、有名画家の御子息で、自営業者みたいなものなんだろう。
「美術館で働いてるの?」
「事務を任されてるよ。仕事なら、ここにいてもできるしね、アルバイトの方がメインかも」
彼の視線が食器棚の横へ移る。今まで気づかなかったけど、小さなテーブルの上にノートパソコンが乗っている。そこで、彼は仕事をしてるんだろう。
「忙しいのに、店の管理までお願いして、ごめんなさい」
知らなかったとは言え、彼らの好意にずいぶん私たち家族は甘えてたみたい。祖父もそれ気にして、売却を考え始めたのだろう。
「いいよ、好きでやってることだから」
「道楽だな、俺たちの」
つづみさんは快活に笑う。ずいぶんと生活に余裕のあるふたりみたい。羨ましい。
「つづみさんのお仕事ってなんですか?」
「見に来る?」
「えっ? 見に?」
「俺んち、隣だから」
「つづみさんも自営業ですか?」
まあ、サラリーマンではないだろうと第一印象で感じてはいたけれど。
「フリーランスってやつだ」
「カッコいいですね」
「だろ?」
つづみさんはうれしそうににやりとする。結構、単純みたい。
「じゃあ、弦さんも食べ終わったみたいだし、俺んち行くか。陽仁は?」
「今からオムライス作るよ」
「いつも悪いなぁ。じゃあ、望ちゃん、借りて行くよ」
「借りるって、俺のじゃないよ」
陽仁さんはくすくす笑って、弦さんを連れてろまん亭を出ていくつづみさんと私に手を振った。
「この張り紙、滝沢さんが書いたの?」
「そうです」
ドアを開けてくれる彼に尋ねると、短い返事が返ってきた。
物腰は柔らかいし、とっつきにくい雰囲気はまったくない人だけど、実は多くを語らないそっけない人なんだろうか。
へたな文字でしょう? とか、店を任されて大変です、なんて返事に困る返しが来ても戸惑ってしまうけど。
いつまで休業するのかすらわからない案内書きでは、不便もあるんじゃないだろうか。そう尋ねようかとも思ったけど、考えてみれば、私には関係のない喫茶店だし、心を配る必要もない気がして、そのまま黙って彼について店内へ進んだ。
店内は思いのほか、明るかった。いつでも営業再開できそうなほど、きれいに整えられている。主人を失った店とは思えない。
来年には売却するかもしれない。それを言い出せる雰囲気はなくて、いつでもお客様を迎え入れる準備をしてくれている彼にかける言葉も見つからない。
私は、ろまん亭について何も知らない。彼に助言できることなんて一つもない。父が死に、書類上、私が譲り受けたこの店は何一つ私のものじゃない。
「コーヒーでいい?」
「淹れてくれるの?」
「コーヒー淹れるの、俺よりうまいんじゃないかって永朔さんに言われてたぐらいには上手に淹れられるから」
「そうなんですね。楽しみ」
キッチンに立つ陽仁さんと向かい合わせになるようにカウンターにつく。
丁寧に折りたたまれていた焦茶色のエプロンをつけた彼は、すっかりカフェ店員に早変わりしていた。制服を身につけると、どこかキリッとしているように見えるからふしぎだ。
「ろまん亭、再開できるようになったら、また手伝いに来るから」
コーヒーを上手に淹れられる自信はあると、彼は言ったのだろう。
今日私が来たのは、再開に向けての下調べだと思ったのだろう。ますます、売却するつもりだなんて言えなくなる。
「喫茶店経営するの、大変ですよね」
「白石さんは仕事、何してるの?」
「私は事務。毎日パソコンとにらめっこ。お休みの日はお菓子作りもするけど、趣味程度だし」
まるで、私が喫茶店の経営に前向きになってるみたいな返事をしてるって気づいて、微妙な表情を浮かべると、彼はますます誤解したみたいだった。
「大丈夫ですよ。永朔さんはメニューのレシピ、事細かく全部残してくれてて、練習すればなんとかなります」
「そんなレシピがあるの? ごめんなさい。私、何にも知らないの」
「秘伝のレシピだから、陽三さんに渡そうと思ったんだけど、ここに置いてほしいって言われて……」
そう言いながら、彼は食器棚の引き出しを開き、古びたノートを何冊か取り出す。秘伝のレシピっていいながら、案外雑に管理してるみたい。
「人気メニューと、常連さんが喜んでくれてる裏メニューにはふせんが貼ってあります。あと、通常メニューはこっち」
古びたノートと、カウンターの上に置かれたメニュー表を重ねて、彼は私に差し出した。
メニュー表を開く。よくある喫茶店のメニューが写真付きでずらりと並んでいる。変わり種メニューがあるようには感じられない。
それから、レシピノートを開いた。
「全部、父が考えたの?」
材料、調理工程、手書きのイラスト……コンセプトに至るまで、詳細に書き込まれている。
私は父がどんな人かまったく知らない。ノートを見る限り、まじめで几帳面で、職人気質の人だったのかもしれないとは思う。
そういう人だから、私を引き取って育てることはできなかったのかもしれない。そう思ったら、妙にふに落ちることもあった。
「新メニューは常に考えてるみたいだったな。探究心がすごいっていうか。その通りに作れば、きっと同じ味が作れるよ。別に同じじゃなくてもいいのかもしれないけど」
「父はろまん亭をどうしたいって思ってたか、知ってる?」
「さあ。そういう話は聞いたことないから。お客さんは再開してくれたらうれしいって言ってるけど」
「繁盛してたんだね」
「もともとたきざわ夕市美術館の中にあった喫茶店だから、地元の人も観光客も寄ってくれるしね」
「美術館の中に?」
彼は肯定するように、そっとうなずく。
そうなんだ。本当に私は何にも知らない。
もっと聞きたい。そういう衝動が私の中に生まれた。父を知りたいなんて思わなかったけど、なぜか今は、知りたいって気持ちが湧いてくる。
父は、喫茶店を経営したいという夢を叶えたんだろうか。
夢を叶えられる人なんて、実際は一握りだろう。人はみんな、何かをあきらめながら生きている。私はそうだった。だから、そう思って生きてる。
でも、父は違ったんだろうか。家族を失っても、夢は手にした。家族を失うことが夢を叶えた代償だとしたら、それはとても大きい代償だったのだろうか。父は私や母をどう思っていたんだろう。
私が元彼とこじれてしまったように、父と母はいつからすれ違ってしまったんだろう。その理由がろまん亭なら、私はやっぱり、この店を好きになれない気がした。
「あれ? 3つ?」
カウンターの上に、彼が有名ブランドのコーヒーカップを二つ置く。一つは彼のだろうと思ったのに、彼は愛用のマグカップだろうか、手びねりで作られたとわかるしゃれたマグカップに砂糖を入れてスプーンでかき混ぜていた。
「もうすぐ来るだろうから」
壁にかけられた時計に視線を向けて、彼は言う。
その時計は、オーソドックスなデザインの鳩時計だった。30分後には、12時を知らせる優しい笛の音を聞かせてくれるのだろう。
「誰が来るの?」
「息子さんっていうのかな。毎日この時間にお昼ごはん食べに来るんだよ」
「えっ? 息子? 息子って、父の?」
目を見開いて驚くと、彼はくすくす笑った。
何がおかしいんだろう。全然笑いごとじゃない。父に子どもがいるなんて聞いてない。再婚した話すら聞いたことないのに。
いきなり、血のつながった兄弟に会うはめになるとは思わなくて、胸がばくばく音を立てる。
「名前は? 何歳ぐらいの人?」
矢継ぎ早に尋ねると、彼は首をかしげた。
「ゲンさんは……えぇっと、何才だったかな」
ゲンっていう名前らしい。漢字にすると、一文字だろう。望という名前も、父がつけてくれたと祖母から聞いた。一文字の名前が、父は好きだったらしい。
「ゲンって、どうやって書くの?」
「ゲンは弦だよ。弓へんの、つる」
後ろから、別の声が聞こえてきた。振り返った私は、ヒュッと息を飲んでいた。
入り口に、背の高い男の人が立っていた。背中まで伸びた黒髪を一本に束ねた、サラリーマンらしからぬ青年で、無精ひげもはやしている。寝起きみたいにだらしのないトレーナー姿で、10月だというのにサンダルを履いている。
「あ、あ、あなたが弦さんっ?」
声がうわずってしまった。
どう見たって、私より年上の男の人だから。まさか、父に隠し子がいたなんて。
「何言ってんだ。ゲンはこっち」
あきれた様子で、長髪の彼は手首に巻いていたひもを引く。
私の目は見開いたまま、ひもの先をたどっていった。そうして、ドアのかげから現れた薄茶色の毛の彼を見て、声をあげた。
「犬っ!」
薄茶色の毛の彼は、人懐こいのか、私を見るなり後ろ足立ちして、真っ白なお腹を見せ、しっぽを振った。
「ゲンさんって、柴犬のこと?」
「柴犬のさんぽは毎日かかせないからな。今は俺が面倒見てる。あ、俺の名前はつづみだから」
返事にならない返事をして、つづみと名乗った青年は、しゃがみ込んで、腰にぶら下げていたタオルで弦さんの足をふき始めた。
「つづみさんって、太鼓のつづみ?」
彼の名前が漢字一文字かどうか確かめたくて尋ねていた。もしかしたら、父には隠し子がいて……なんて妄想から抜け出せてない私を、つづみさんはめんどくさそうに見上げてくる。
「本名はひらがな。仕事んときは鼓だな。竹村鼓。なんかちょっとカッコいいだろ」
「はあ」
「はあって、失礼な女だな。で、あんた誰? 陽仁の新しい彼女?」
首輪からリードをはずすと、弦さんはキッチンの出入り口に移動して、行儀よく座った。毎日こうやって、陽仁さんからごはんをもらってるんだろう。
「かっ、か、彼女じゃありませんっ」
「全否定。いいの? 陽仁」
クッと笑ったつづみさんは、私の隣へ腰かけると、コーヒーカップを手もとに寄せた。
「彼女は白石望さん」
弦さんにドッグフードを準備して、陽仁さんがそう言う。
「望?」
「永朔さんの娘さんだよ。今日は……なんで来たんだっけ?」
そういえば、まだ聞いてなかったと、彼が私を見ると、つづみさんも一緒になってまじまじと見つめてくる。
「なんでって……、ちょっと見てみたかったの。父がどういうところで仕事してたのか」
口から出まかせを言ったけど、あたりさわりのない答えに、ふたりは納得したみたいだった。
「それなら陽仁が詳しいな」
「永朔さんの家のことならつづみさんが詳しいよ」
「押し付けるなよ。俺は好きで弦さんの面倒見てるだけだ」
「弦さんはほんとにつづみさんになついてるよね」
「毎日さんぽに連れてってるからな」
まんざらでもなさそうに得意げに笑うと、つづみさんはコーヒーを飲み始めた。砂糖もミルクもいらない人みたい。
陽仁さんも、コーヒーをひと口飲む。彼は砂糖だけ入れるタイプなのだろう。私は砂糖もミルクも入れて飲む。きっと、どんな飲み方をしても、このコーヒーはおいしい。さっきから、芳ばしい香りが店内を充満してる。
「あー、おいしい。滝沢さんの淹れたコーヒー、評判いいのわかります」
これが、父の認めた味なんだって、感動を伝えたら、陽仁さんは「ありがとう」と、照れくさそうに目を細めた。
「滝沢さんなんて堅苦しいから、陽仁でいいよ。望ちゃんでいいよね?」
そう勝手に言うのは、つづみさんだった。
「まだ知り合ったばっかりなのに失礼だよ」
「あ……、別にかまいません。おふたりとは長い付き合いになるかもしれないし」
弦さんは父の飼っていた犬だろう。さらっと聞き流してたけど、だから、つづみさんは今は俺が弦さんの面倒見てると言ったんだろうし、陽仁さんは弦さんは父の息子だと言ったのだ。
「だってさ」
つづみさんが得意げな表情をすると、陽仁さんは申し訳なさそうにするが、私は首をふる。
「この店も家も、弦さんだって全部お任せしちゃってて、ほんとにごめんなさい。すぐには何も決められないので」
「まだ亡くなって半年だからな、仕方ないさ。弦さんの心配はするな。俺が面倒見る」
「助かります。うちに連れて帰ってもいいけど、うちは祖父母しかいないし……」
毎日のさんぽは大変だろう。弦さんだって、いきなり環境が変わったら戸惑うだろうし。
思い悩みながら顔を上げると、陽仁さんがじっと私を見ていて、なんだか落ち着かない。変なこと、言っただろうか。
「望ちゃん、お母さんいないんだ?」
陽仁さんは微妙に眉をひそめた。彼が気になっても言えないことを、あっさり口に出すつづみさんを非難してるみたい。
「ずいぶん前に病気で。仕事ばっかりの人だったから、それでかな。あっ……気にしないでください。別に両親がいないからって、さみしいわけじゃないし、かわいそうでもないし」
幼少の頃、仕事の忙しかった母にかまってもらえない私だったけど、祖父母と一緒に出かけるのは好きだったし、楽しかった。
それなのに、お母さんがいなくてさみしいよね、お父さんもいないなんてかわいそう、って周囲の大人たちは無責任に言った。
だからつい、いまだに防衛本能が働いちゃうのだろう。言われる前に、私はかわいそうな子なんかじゃないってアピールするくせがついてしまってるみたい。
「あ、滝沢さんって苗字、この辺りに多いの?」
話を変えると、陽仁さんはちょっと驚いたみたいにまばたきをした。
「ほら、あの有名な画家のたきざわ夕市の出身地って、ここなんでしょ? だから、美術館もここに建てたんですよね?」
「滝沢って、この辺りじゃ、あんまり聞かない苗字だよ。陽仁はたきざわ夕市の息子だからさ」
あいかわらず、答えるのはつづみさんだ。
「えっ、そうなのっ?」
驚きつつも、点と点が線でつながるみたいに納得していた。
29歳にもなってアルバイト暮らししてる陽仁さんは、有名画家の御子息で、自営業者みたいなものなんだろう。
「美術館で働いてるの?」
「事務を任されてるよ。仕事なら、ここにいてもできるしね、アルバイトの方がメインかも」
彼の視線が食器棚の横へ移る。今まで気づかなかったけど、小さなテーブルの上にノートパソコンが乗っている。そこで、彼は仕事をしてるんだろう。
「忙しいのに、店の管理までお願いして、ごめんなさい」
知らなかったとは言え、彼らの好意にずいぶん私たち家族は甘えてたみたい。祖父もそれ気にして、売却を考え始めたのだろう。
「いいよ、好きでやってることだから」
「道楽だな、俺たちの」
つづみさんは快活に笑う。ずいぶんと生活に余裕のあるふたりみたい。羨ましい。
「つづみさんのお仕事ってなんですか?」
「見に来る?」
「えっ? 見に?」
「俺んち、隣だから」
「つづみさんも自営業ですか?」
まあ、サラリーマンではないだろうと第一印象で感じてはいたけれど。
「フリーランスってやつだ」
「カッコいいですね」
「だろ?」
つづみさんはうれしそうににやりとする。結構、単純みたい。
「じゃあ、弦さんも食べ終わったみたいだし、俺んち行くか。陽仁は?」
「今からオムライス作るよ」
「いつも悪いなぁ。じゃあ、望ちゃん、借りて行くよ」
「借りるって、俺のじゃないよ」
陽仁さんはくすくす笑って、弦さんを連れてろまん亭を出ていくつづみさんと私に手を振った。
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