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接近
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タクシーで帰宅する誠也さんとコモンの前で別れると、歩いてマンションへと向かう。
雪でも降ってきそうな冷たい空気に身をかがめ、肩から滑り落ちるマフラーをはね上げて、ポケットに手を突っ込む。
祥子と暮らし始めてから、午前様の帰宅は初めてだ。彼女は明日仕事だし、もう眠ってしまっているだろう。
祥子はどちらかというと、感情をむき出しにしない恋愛をするように感じている。束縛がきつくない彼女との生活なら、いくらでも浮気ができると思う。たとえ、位置情報を把握されていたって、その気になれば車の中でだってできるし、ホテルに行かなきゃわからない。そうやって、前の男は彼女を裏切った。
傷ついた彼女が、俺の腕に抱かれる日はいつ来るのだろう。ああ、はやく抱きたい。眠る彼女の隣で、ただじっとその日が来るのを待つ俺は、意外と健気じゃないだろうか。褒めてやりたいぐらいだ。
小さく笑うと、漏れた息が白い煙となって流れていく。あとを追うように目線をあげると、マンションはもう目の前だ。
ちょっと駆け足になってエントランスへ飛び込もうとしたとき、突然視界に入った影に驚いて身を引いた。しかし、遅かったみたいだ。きゃあ、っという悲鳴と同時に、ポタポタと足もとに液体が流れてくる。
「ごめんなさいっ。熱かったですよね?」
お気に入りのコートから、コーヒーの匂いが漂ってくる。白いマフラーを巻いた女性の手には、ほとんど空になった紙コップが握られている。
「いや、大丈夫ですよ。そっちこそ大丈夫ですか?」
マジか。と思いつつも、笑顔でそう答える。
「ちゃんと蓋してなくて、ほんとにごめんなさいっ」
彼女はバッグからサッとハンカチを取り出すと、濡れた俺のコートをぬぐう。
甘い香りがするのは、彼女の香水のせいだろう。上目遣いでこちらを見る彼女の瞳と同じような甘ったるい匂い。ミニのスカートからのぞく細い足にはロングブーツ。モコモコとしたコートを羽織っているわりには胸もとがあいていて、かがむと胸のふくらみが見えそうだ。
なんだか、誘われてるみたいだな。夜の街が似合う女なんだろう。ハンカチを汚れさせてしまったが、洗って返す、と言い出さなくてもいいだろうか。そもそも、そっちがぶつかってきたのだし。
「じゃあ、俺はこれで」
「待ってくださいっ」
行こうとすると、袖をつかまれた。
「なに?」
「あっ、なんでもないですっ。カッコいい人だなって思っちゃって」
ほんのりほおを染めた彼女が、恥ずかしそうに目をそらす。
誘われたら乗ってしまう男もいるだろう。そう思うぐらいにはかわいいが、祥子とは比べものにならない。どうして、祥子を裏切れるだろう。逆に、別れた夫はよくも裏切れたものだ。バカなことをしたと、今は少しぐらい反省してるんだろうか。
「よく言われるんですよ。じゃあ」
わざとらしく皮肉げに笑む。このぐらいがちょうどいい。甘い顔を見せるのは、祥子にだけでいい。
まだ帰りそうにもない彼女に背を向けて、エレベーターに乗り込む。
祥子が起きて待っていてくれたらいいのに。そう思うが、玄関に入ると、その期待はあっけなく裏切られる。
真っ暗なリビングへ続く廊下を眺めたあと、バスルームへ入る。コーヒーのシミができたコートを洗濯機の上へ投げ出し、シャワーを浴びると、暗がりを歩きながら寝室へ向かう。
そっと静かに扉を開く。手前のベッドに小さなふくらみがある。祥子は眠っているようだ。足音を立てないように奥のベッドに乗り、彼女の顔をのぞき込む。
人形のように整った綺麗な顔をしている。化粧をしていない顔を見られるのは恥ずかしいと彼女は言ったが、高校時代のすっぴんを知っている俺からしたら、全然変わっていないし、むしろ、綺麗になった。何時間でも見つめていられるだろうその寝顔を見ながら横になる。
変な気を起こさないようにと、いつもは壁に向かって眠るが、たまにはいいだろう。シングルベッドのつなぎ目は、まるで境界線のようだ。越えないように、理性を保ちながら、まぶたを落とす。
静かな夜の中に聞こえる彼女の寝息が、ここちよいそよ風のように、俺をすぐさま眠りの世界へといざなっていった。
タクシーで帰宅する誠也さんとコモンの前で別れると、歩いてマンションへと向かう。
雪でも降ってきそうな冷たい空気に身をかがめ、肩から滑り落ちるマフラーをはね上げて、ポケットに手を突っ込む。
祥子と暮らし始めてから、午前様の帰宅は初めてだ。彼女は明日仕事だし、もう眠ってしまっているだろう。
祥子はどちらかというと、感情をむき出しにしない恋愛をするように感じている。束縛がきつくない彼女との生活なら、いくらでも浮気ができると思う。たとえ、位置情報を把握されていたって、その気になれば車の中でだってできるし、ホテルに行かなきゃわからない。そうやって、前の男は彼女を裏切った。
傷ついた彼女が、俺の腕に抱かれる日はいつ来るのだろう。ああ、はやく抱きたい。眠る彼女の隣で、ただじっとその日が来るのを待つ俺は、意外と健気じゃないだろうか。褒めてやりたいぐらいだ。
小さく笑うと、漏れた息が白い煙となって流れていく。あとを追うように目線をあげると、マンションはもう目の前だ。
ちょっと駆け足になってエントランスへ飛び込もうとしたとき、突然視界に入った影に驚いて身を引いた。しかし、遅かったみたいだ。きゃあ、っという悲鳴と同時に、ポタポタと足もとに液体が流れてくる。
「ごめんなさいっ。熱かったですよね?」
お気に入りのコートから、コーヒーの匂いが漂ってくる。白いマフラーを巻いた女性の手には、ほとんど空になった紙コップが握られている。
「いや、大丈夫ですよ。そっちこそ大丈夫ですか?」
マジか。と思いつつも、笑顔でそう答える。
「ちゃんと蓋してなくて、ほんとにごめんなさいっ」
彼女はバッグからサッとハンカチを取り出すと、濡れた俺のコートをぬぐう。
甘い香りがするのは、彼女の香水のせいだろう。上目遣いでこちらを見る彼女の瞳と同じような甘ったるい匂い。ミニのスカートからのぞく細い足にはロングブーツ。モコモコとしたコートを羽織っているわりには胸もとがあいていて、かがむと胸のふくらみが見えそうだ。
なんだか、誘われてるみたいだな。夜の街が似合う女なんだろう。ハンカチを汚れさせてしまったが、洗って返す、と言い出さなくてもいいだろうか。そもそも、そっちがぶつかってきたのだし。
「じゃあ、俺はこれで」
「待ってくださいっ」
行こうとすると、袖をつかまれた。
「なに?」
「あっ、なんでもないですっ。カッコいい人だなって思っちゃって」
ほんのりほおを染めた彼女が、恥ずかしそうに目をそらす。
誘われたら乗ってしまう男もいるだろう。そう思うぐらいにはかわいいが、祥子とは比べものにならない。どうして、祥子を裏切れるだろう。逆に、別れた夫はよくも裏切れたものだ。バカなことをしたと、今は少しぐらい反省してるんだろうか。
「よく言われるんですよ。じゃあ」
わざとらしく皮肉げに笑む。このぐらいがちょうどいい。甘い顔を見せるのは、祥子にだけでいい。
まだ帰りそうにもない彼女に背を向けて、エレベーターに乗り込む。
祥子が起きて待っていてくれたらいいのに。そう思うが、玄関に入ると、その期待はあっけなく裏切られる。
真っ暗なリビングへ続く廊下を眺めたあと、バスルームへ入る。コーヒーのシミができたコートを洗濯機の上へ投げ出し、シャワーを浴びると、暗がりを歩きながら寝室へ向かう。
そっと静かに扉を開く。手前のベッドに小さなふくらみがある。祥子は眠っているようだ。足音を立てないように奥のベッドに乗り、彼女の顔をのぞき込む。
人形のように整った綺麗な顔をしている。化粧をしていない顔を見られるのは恥ずかしいと彼女は言ったが、高校時代のすっぴんを知っている俺からしたら、全然変わっていないし、むしろ、綺麗になった。何時間でも見つめていられるだろうその寝顔を見ながら横になる。
変な気を起こさないようにと、いつもは壁に向かって眠るが、たまにはいいだろう。シングルベッドのつなぎ目は、まるで境界線のようだ。越えないように、理性を保ちながら、まぶたを落とす。
静かな夜の中に聞こえる彼女の寝息が、ここちよいそよ風のように、俺をすぐさま眠りの世界へといざなっていった。
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