太陽と傀儡のマドンナ

水城ひさぎ

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彼女は氷のように冷たい

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 人生は、いつ何が起きるかわからない。
 未来を変える出来事も、人生で一度しか起きないとは限らない。

 私の身に起きたことは、誰にも理解されないだろう。だから、ひっそりと生きてきたのに、それさえも許されず、私は孤独になった。

 その日は何の変哲もない一日のはずだった。

 バケモノッ!
 バケモノーッ!

 彼女がそう叫ばなければ、私の未来は変わっていただろう。

 いや、変わらないだろうか。
 あの日、私の未来は、すでにあの子とともに狂ってしまっていたのだから___



***


 下駄箱の壁に取り付けられた掲示板を飾る掲示物の一つに、素っ気ないほど簡素な文字が並ぶコピー用紙がある。

 心理学研究部 部員募集

 貼り紙にそう書かれた文字は、パソコン作業によって印刷された事務的で無機質なもの。
 二週間後に行なわれる文化祭を知らせる賑やかなポスターの横に貼られているためか、余計に異質さを感じる。

 いつも見ている貼り紙なのに、俺は何とはなしに足を止めてその文字を眺めた。
 まるで部員の募集は形だけだと言わないばかりの体に、不可思議さも感じる。

 この貼り紙が貼り出されたのは、いつのことだろう。四月の始業式になかったことは確かだと覚えている。では、ゴールデンウィーク明けだろうか。

 その頃、俺は新学期の教室に馴染むのに人知れず必死で……、いや、今だってそれほど馴染んでいるわけではないが、周囲の様子を落ち着いて観察できる余裕はなかった。

 この高校に心理学研究部という部があると知ったのは、この貼り紙に気づいてからだ。誰も見向きもしない貼り紙だからこそ、俺の目にとまった。

 何もかもが新しい環境の中に、不意に現れた妙に異質な存在を、俺はどうしても無視できなかったのかもしれない。

 しばらく掲示物を眺めていたが、背後から聞こえてきた足音に気づき、その場を離れようとした。この場に留まる理由はなく、その足音は立ち去るきっかけでしかなかった。
 しかし、まるでそそくさと逃げ出そうとしたように見えたのだろうか、力強い体育会系のハツラツとした声が俺を呼び止めた。

「お、木梨きなし! 興味あるのか? 心理学研究部」

 声をかけてきたのは、体育の教師で心理学研究部顧問の安藤先生だ。
 噂で聞いたに過ぎないが、水泳部の顧問を兼任していて、心理学研究部に彼が顔を出すことはないという。兼任とは言うが、心理学研究部にとっては名ばかりの顧問だ。

「さっき貼り紙見てただろ」

 貫禄のある肩幅に、逆三角の上半身にぴっちりと張り付くシャツと、短パン姿の先生は、威風堂々とした態度で腰に手を当てる。

「え……別に」

 戸惑いながら視線をさまよわせる。
 まずいかもしれない。
 面倒見がいい安藤先生に、「まだ部活決まらないのか?」と気遣われたのは、つい三日前のことだ。

 もう二年生だし、来年の今頃には部活も引退だ。得意にしているスポーツも特にはないし、正直このまま部活には入部しなくてもいいと考えていた。

「部活ぐらいなんか入っとけ。心理学研究部はいいぞ。木梨みたいな周りの空気が読める男には向いてる」
「空気なんて読めないですよ」
「そんなことはないぞ。部長の飛流那波ひりゅうなみに比べたら、ずいぶんと周りが見えてる」
「部長のことは知りませんけど……」

 もちろんこの私立英美学園しりつえいみがくえんで、学園一と言っていいぐらいの名物である飛流姉妹のことは知っている。

 知らないと言ったのは、興味がないということを暗に伝えたつもりだった。
 何より早く帰りたい。この会話を早々に終わらせたくてそう言ったのに、安藤先生に俺の思いは伝わらなかったようだ。

「知らない? 2-Aの飛流だぞ。黒髪の方だ。まあ、双子とはいえ、飛流芽依めいとは似ても似つかん顔してるから、間違えることはないだろうが」

 確かに、間違うことはないだろう。
 飛流姉妹とは何度か廊下ですれ違ったことがある。彼女たちは、双子とは思えないほど、その容姿も雰囲気も全く異なっている。
 唯一共通点があるとすれば、二人とも破格の美貌の持ち主だということだ。

 誰かが二人のことを、富豪が作らせたお人形さんみたいに綺麗と言っていた。
 その実、飛流芽依はほどよく焼けた白い肌が健康的で、いつも笑顔を振りまいて周囲を明るくする魅力に溢れた可愛らしい女性。
 飛流那波に至っては、まさしく寸分のズレもない左右対称の顔立ちが彫刻のように美しく、細くて白い手足は精巧に作られた陶器のように滑らか。この世のものとは思えない美しさを掌握する彼女はいつも無表情で、近寄りがたい雰囲気を持つ。

「噂をすれば、だ」

 安藤先生がニヤリとする。なんだろうと不思議に思っていると、いきなり先生が下駄箱の方へ向かって大声をあげた。

「おーい、飛流那波ー! ちょっといいかぁ?」

 下駄箱で上靴に履き替えたばかりの飛流那波が、首だけをひねらせてこちらを見る。
 一瞬目が合ったが、すぐさま安藤先生に視線を移した彼女は、ゆっくり丁寧にお辞儀をした。

 彼女の周囲を取り巻く空気はある種異様だ。
 拒絶している。
 なぜかそんな風に思う。
 彼女が大気を拒絶しているのか、はたまた大気が彼女の存在を拒絶しているのか。

 彼女が歩くと空気が逃げる。だから静寂だ。彼女はいつも無の世界にいるように感じる。

 笑うのだろうか。
 ふと、無表情の彼女を見ていたらそんな思いがわき上がった。しかし、学園の生徒とは一線を画す彼女と関わることは、この瞬間以外後にも先にもないのだと気づき、その興味もすぐに萎えた。

「安藤先生、何か?」

 飛流那波の声を、初めて聞いた。
 思いの外、柔らかな声だ。勝手にクールなイメージを持っていて、先入観を裏切られたからといって驚くなんて無責任だが、やはり意外な気がした。

 もしかしたら彼女は案外優しいのかもしれない。声だけで判断するなんてそれこそ無責任だが、そんな印象をわずかに抱いた。

「今日研究部は休みか?」

 安藤先生が問う。
 先生の視線は彼女が胸に抱く手のひらサイズの缶に向けられる。
 ヨーロッパを思わせる庭園で、貴婦人がお茶会を開く様子を描いた絵が印刷された缶だ。

「いえ、忘れものを取りに帰っていただけです。部活を無断で休むことはありません」

 他に何も持っていないから、忘れものというのはきっとその缶だろう。

「別に怒ってるわけじゃないさ。彼が入部希望のようだから、休みじゃないなら見学させてやって欲しいんだ」
「えっ!」

 思わず声を上げた。
 話の流れで入部を勧められるだろうと多少覚悟していたが、いきなりまるで俺が進んで入りたがっているように言われるとは思っていなかったのだ。

「そんな風には見えませんが?」

 那波は冷静だ。俺をちらりと見て、眉を少しばかり上げる。

 ずっと無表情でいるわけではないのだ。なんて、俺はまた驚く。
 彼女も生きた人間なのだから、ころころとよく変わらないまでも、感情を表に出すことはあるだろう。

 俺は彼女のことを表情を変えない人形のように思っていただろうか。自分でも気づかないうちにいくつかの先入観を抱いていたのだろう。
 もし入部して彼女と接する機会が増えたら、その誤解かもわからない先入観はどんどん崩れるだろうか。
 だからって、心理学研究部に入部したいなんて気持ちは湧かないが。

「彼はシャイなんだよ。ちょっと感情表現が苦手なだけだ。那波と一緒だな」

 先生は勝手なことを言うとにやにやしたが、「まあ、それは冗談で」と俺の肩に手を置き、続けた。

「木梨は今年の4月に転校してきたんだけどな、今までやってた部活がうちの学校になくて、なかなか入りたい部活がないらしい」
「部活は強制ではないはずですが?」
「まあそうだけどな。先生の立場の俺としては、誰ともつるまずに毎日決まった時間に帰宅する優等生でいるのもどうかと思うんだ」
「先生の立場の方がおっしゃることとは思えませんね」

 那波は淡々と答える。

「心配してるって話だ。今までやってたスポーツならまだしも、未経験の運動部に途中入部も負担が大きいだろうとは思う。この通り、木梨は控えめだしな」
「この通りと言われましても、見た目から彼についてわかることは何もありません」
「そうかぁ? 最近賑わってるそうじゃないか、研究部」

 安藤先生は話をそらす。しかし、那波は眉ひとつ動かさずに先生の言葉の意図を汲み取る。

「たまに部室を訪れる生徒がいるという話でしたら、賑わうとは違います」
「だが、悩み相談してるんだろう? 人間は嘘をつく生き物だからな、見た目から感じるものも大事だろう」
「確かに、彼の容姿から誠実さは伺えますね。だからと言って、誠実であるということの証明にはなりません」
「ほらほら、わかってるじゃないか。何もわからないなんて言って、那波は意地悪だな。部活も盛んになれば部員は増えた方がいいだろうし、木梨なら害にはならんだろう」

 胸を張る先生に対し、那波は「ふぅ」と息を吐く。

「安藤先生、私は確かに心理学研究部を存続させるために部員募集をお願いしましたが、本人の意思を無視したやり方で入部希望を募るのは納得できるものではありません」

 心理学研究部を存続させる?
 廃部の危機を迎えているわけか、と俺は思う。

「那波には必要な部だろう、と俺は思うわけだ」
「つまり、先生の立場である安藤先生には、毎日決まった時間に帰宅する優等生をこれ以上増やしたくないと」
「そういうことだ。わかってくれたなら、木梨を部室まで案内してやってくれ」

 これ以上のやりとりは無駄だと感じたのか、那波は納得していない様子ながらも、「わかりました」と頭を下げた。

「じゃあ、そういうことだ」

 先生にポンッと背中を叩かれて押し出された俺に、那波は背を向けて歩き出しながら言う。

「行きましょう、木梨くん。入部するかどうかは、見学してから決めたらいいわ」
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