せめて契約に愛を

つづき綴

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キスまでの距離

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 パーティー会場である都内のホテルの一室は、格式高いフォーマルウェアに袖を通した紳士や、エレガントなパーティードレスを身にまとう淑女で、思いの外、にぎわっていた。

 会場の中央では、和服姿の年配女性が丁寧に頭を下げて、招待客に挨拶して回っている。今日の主役である結城秀人ゆうきひでとさんの母親だろう。

 結城家の家族と接点を持っていたのは幼稚園の頃の話で、秀人さんの母親の顔もよく知らない。親同士の関係はいまだに続いているのだろうが、個人的には面識がないに等しい関係なのだ。

 私の父親は社長だけれど、大手の医療機器メーカーの社長である結城氏からしたら、歯牙にもかけない小さな会社のだし、父もまた、結城氏とそれほど親密な関係ではないだろう。

 だから、私が今日ここにいるのは場違いな気がしている。招待された両親に付き合わされて来たものの、その両親はすでにパーティーを楽しんでいる。娘の私はほったらかしだ。

 こんなことなら来なければ良かったとは思う。けれど、この会場にいるはずの、唯一私の知人と言える人物が、絶対来るのよ、とメールして来たのだから、帰るわけにもいかない。

「円華……、どこかなー」

 いとこである上條円華かみじょうまどかに最後に会ったのは、一ヶ月ぐらい前のこと。
 姉妹のように育ったわけではないけど、一歳年上の円華は一人っ子の私の面倒をよく見てくれるお姉さんのような存在だ。

「あ、いたー。もう、どこにいたのよ。やっと見つけたわよ、沙耶さや

 真っ赤なドレスに身を包んだ円華は、突然私の視界に飛び込んできた。そして、私の顔を見るなり、ただでさえ大きな瞳を見開いた。

 私の顔に何かついているのかと心配する必要はない。彼女が驚いた理由は自分でもわかっている。両親も大反対したのだからわかっている。だけど、不便だから仕方ないのだ。

「なによ、そのメガネー!」

 ずりさがるメガネを持ち上げると同時に、円華は悲鳴にも似た叫びをあげた。

「なにって……」
「言い訳は無用よ。今すぐそのダサいメガネを外しなさい。よく叔母さまが許したものだわ。せっかくのドレスもヘアーも台無しよ」
「お母さんは反対したんだけど、ここに来るまでずっと何も見えなくて困ったの。今日の主役でもないし、メガネでもかまわないかなーと思って」

 両親とは受付を済ませた後に別れ、ついさっき、化粧室でメガネをかけて戻ってきたところなのだ。

「なにがかまわないかなーと思って、よ。コンタクトはどうしたのよ」
「それが、昨日無くしちゃって」
「なくした? なんでそれを早く言わないのよ。うちの病院に来たら、すぐに用意してあげたのに」
「コンタクトぐらいで迷惑はかけれないよー」

 円華の父親は病院長だ。この辺りではかなり大きな個人経営の総合病院で、コンタクトレンズの処方をもらうだけに行くような眼科ではない。

「そのメガネ姿は、十分私に迷惑かけてるわよ。自慢のいとこがダサいなんて噂になったら私の恥よ」
「そこまで言わなくても……」
「いいから外しなさい」

 円華の長くて白い指が、苦笑いする私からひょいっとメガネを取り上げた。

「あっ、円華……っ」
「ほら、メガネない方が可愛いじゃない。メガネするにも、せめてドレスに合うものにしなさいよね」

 ブラウンのセルフレームをひらひらと振る円華の姿は、ぼんやりしていて見えない。だけど、満足げな笑みを浮かべている様子は想像できた。

「でも、円華……、ほんとに見えないからっ」

 メガネにすがりつこうとする私を軽々とよけた円華は、私の腕を引いて歩き出す。

「見えなくたって話は出来るからいいの」
「だからって……」
「あ、ちょっと待ってて。すぐ戻るから」

 円華が足を止め、私の手を離すから慌てる。会場のど真ん中で、何も見えない状態で放置されたら大変だ。

「円華……っ」
「ほんとに見えないの? 少しも?」
「少しも」
「そうねー……」

 少し考え込む円華。もしかしたらメガネを返してくれるかもしれない。
 淡い期待を抱く私に彼女は言う。

「料理を持ってすぐに戻るから、椅子に座って待ってて」
「椅子?」

 今日は立食パーティーだ。具合が悪いわけでもないのに気が引ける。

「大丈夫よ。ちょっとの間だけ」

 私の表情がかんばしくないからか、円華はそう言って私の手を引く。仕方なく、されるがままについていき、勧められた椅子に座る。

 「すぐ戻るから」と言った円華は、大勢の人々のいる方へと歩いていく。その背中も、真っ赤なドレスだからわかる程度で、すぐに彼女を見失ってしまう。

 壁伝いに歩いていけば、出口にはたどり着けるだろう。外の空気でも吸っていた方がマシかもしれない。何度考えても、大企業の御曹司の婚約パーティーに出席しているのは場違いだ。

 円華にはスマホへ連絡を入れておけばいい。そう考えて立ち上がろうとした時だ。目の前に突如黒い影が現れた。

 人だ。いくら見えなくてもそれはわかる。

 目の前に立ち塞がっているから、ぺこりと頭をさげて立ち去ろうとしたが、人影は微動だにしない。

「あの……」

 と、言いかける私の言葉を遮るように、人影は声を発した。

「具合が悪いなら、まだ座っていた方がいい。年寄り連中は結城氏に取り入ろうと必死だから、まだまだくたばりはしないさ。遠慮することはないよ」

 ふてぶてしく人影は言うと、にやりと笑った……ような気がした。
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