せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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キスまでの距離

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「具合が悪いわけじゃないんです。ロビーでパーティー終わるの待とうかと思ってて」

 私がそう言うと、顔立ちや表情はわからないが、明らかに男性である、しかも若い青年は、少し話をしないかと椅子に座った。

「パーティーは、退屈?」

 仕方なく彼の隣に座り、会場の中央へと目を向けた。ぼんやりしていて何も見えないが、司会者のアナウンスによると、ざわめく会場の前方に今日の主役が登場したようだった。

「退屈というより、こういう雰囲気に馴染めなくて」
「なるほど。俺と同じだ」
「あなたも?」

 思わず彼を見上げると、ゆっくりうなずくのが見えた。身なりもよく見えないけれど、私と同じで、結城家とは縁のない、そこそこの良家のお坊ちゃまかもしれないと思う。

「ああ、俺も帰ろうかと思ってた。上場企業の御曹司だかなんだか知らないが、婚約したぐらいでパーティーなんてする必要もないだろう。相手は資産家のご令嬢らしいが、政略結婚とも知らずにあの笑顔さ。心から祝う気にもなれないね」

 あの笑顔さ、と言われても何も見えない。だけど、結婚するのだから、きっとこれ以上ない幸せな笑顔をしているのだろうと思う。

「政略結婚なんて、今時あるんですね」
「まあ、あのご令嬢が結城秀人に一目惚れしたらしいけどね。秀人の方に気持ちがあるのかはわからないさ」
「どうして?」
「知らないのか?」
「なにも」

 というか、知るわけもない。
 結城秀人さんは私の五つ年上で、幼稚園時代、遊んでもらったことがあるらしいが、その記憶もあるようなないような感じなのだ。

「秀人は上條円華にご執心だったんだよ。君がさっき話してた彼女。まあ、彼女のこと知らないわけがないだろうから、てっきり知ってるかと思ったんだけどね」
「え、円華? それ、本当ですか?」
「本当だよ。秀人が言ってたんだ。いくらくどいても落ちないから面白い。いつか陥落させてやるってね」

 想像もつかない話で、あっけにとられてしまう。

「面白いって……、ゲームみたい。それで円華は?」
「結果がこのパーティーだろ。見事に秀人は円華にふられて、降って湧いた見合い話に乗っかったのさ。プライドが傷つけられたのも許せなかったのかもな。だから、上條病院よりも資産のあるご令嬢を選んだのさ」
「秀人さんってそういうタイプなんですね」
「男は見た目で判断したらいけないって話さ。上條円華は秀人の本質をよく見抜いた賢い女だよ」
「見た目……、ですか」

 正直、結城家の誰ひとりも、顔をよく知る人はいない。

「そう。円華の男はどう見ても平凡な顔立ちだが、敏腕弁護士らしいからな。彼女にとってはいい選択だろう」
「えっ、円華って彼氏がいるんですか?」

 彼はあきれたのだろうか。笑い声をもらす。

「君って、なんにも知らないんだね。まあ、そんなとこも君の魅力なんだろうけどね」
「……それって、バカにしてます?」
「まあしてる」
「ひどい……」

 ふくれ面をすると、ますます彼は笑った。

「違うよ。全然スレてないんだなって感心してるのさ」
「やっぱりバカにしてる」
「そう機嫌を悪くしないで。かみ砕いて言えば、もっと君を知りたいなって話」

 さらりと言った彼の言葉は、あまりに何気なくて、聞き流してしまいそうだった。だけど、彼はそうさせまいと、不意に私の肩に手を乗せた。

「君って、彼氏はいないの?」
「か、彼氏、ですか。彼氏なんて、彼氏なんていないですっ」

 今日のために母親が用意したドレスは、肩出しドレスだった。ショールで肩は隠していた。だけど、身を守るには薄っぺらい布越しに触れてきた男性の大きな手のひらに、テンパった声をあげてしまった。

 彼はちょっと驚いたように手を離した。しかしすぐに、うつむく私を覗き込みながら、反応を楽しむようにまた肩に触れた。

「彼氏いたことないの?」
「い、いないです。いないです。生まれてこのかた、いたことなんてないですっ。だ、だから……」
「だから?」
「だから手を離してくださいっ」

 ぎゅっとドレスをつかんで、目を閉じる私を哀れに思ったのか、彼はあっけなく手を離した。

「彼氏いない歴25年?」
「も、もうすぐ26年です……」
「誕生日いつだっけ?」
「来週の金曜日です……って、そんなことあなたに教える義理はないです」

 からかわれたことは、いくら愚鈍な私でもわかる。突っぱねてみたが、目の前の男はそんなことはまったく意に介さないタイプのようだった。

「悪いが俺は耳も記憶力もいい。誕生日に会いに行くよ。君の人生で最も記念すべき1日になるかもしれないね」
「会いに来るって……、私の名前も何も知らないのに」
「君、本当に面白いね」
「存分に笑ってください。もう何も教えませんから」

 つんっとそっぽを向くと、ますます彼は笑う。

「怒らせても何もしゃべりません」
「怒らせてるつもりはないよ。まだ気づかないの?」
「気づかないって?」

 その手には乗らないと思いながらも、ついつい彼を見上げて、会話に乗ってしまう。

「俺はもう君の年齢を言い当てただろう?」

 確かに……、と私は沈黙する。来週の金曜日、私は26歳になる。

「俺は君に会った時、すぐに気づいたけどな。いつも金魚のふんみたいに円華の後ろについて回る、泣き虫の上條沙耶だってね」
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