せめて契約に愛を

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キスまでの距離

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「私の名前……」

 なぜ、彼は私の名前を知っているのだろう。しかも、円華といつも一緒にいたことも。金魚のふんとは、またひどい言い方だけれど。

 唖然とする私に、彼はとうとうと語った。

「上條沙耶、25歳。A型。私立大宮しりつおおみや幼稚園卒業後、桐葉きりは女子大学付属小学校に入学。中学、高校と、大学に至るまで、男っ気のない桐葉ひとすじ。大学卒業後は山西商事やまにししょうじに入社。はじめて男のいる世界に入ったものの、入社3年目にしても男の影はない。そして、11月25日生まれ。誕生日も男と過ごす予定のない、うぶでシャイな女……あってる?」

 青年は屈託なく笑う。

「余計なお世話を除いては、あってます。私のこと調べたの?」
「そう、調べたというより、知っていたと言った方がいいかもしれない。どうして知ってるのかって怪訝な顔してるけど、俺にしてみたら、どうして君が俺を知らないのか不思議だよ。幼稚園の頃はよくいじめたじゃないか。いじめられたことは忘れないと思ってたけどね」
「いじめた……?」
「そう。好きな子の気を引きたくて、いじめる。典型的な手段で子供らしい発想さ。俺もうぶな時代があったという話だよ」

 懐かしむように話すが、ろくでもない青年だと思う。

「幼稚園が一緒で、よく遊んでたっていう男の子はそんなにいなくて」
「もちろんそうさ。君や円華の周りに集まる輩は全員、俺と秀人の二人でとっちめてやってたからな」
「秀人さんも?」
「秀人は昔から大人気ないやつだよ。幼稚園児が小学生に勝てるわけもないのに容赦ないからな」

 彼はあきれたように言うが、どこか誇らしげでもある。

「……私、本当に男の子の友だちなんていなくて。いたとしたら……」
「思い出した?」
「友だちだなんて一度も思ったことはない、意地悪な湊くん」
「覚えててくれて光栄だよ」
「本当に? 本当にあなた、結城みなとくん?」

 私は思わず身を引いていた。肩から離れた彼の手が、「まいったな」と髪をかきあげる。
 苦笑いでもしているのだろうが、やはり顔立ちも表情もよくわからない。

 メガネがないのがもどかしい。結城湊くんのことは、秀人さんの存在よりは覚えている。

 湊くんは秀人さんの弟で、円華とは同い年。秀人さんは年が離れていたからほとんど会うことはなかったけれど、湊くんには幼稚園に入園してからの2年間、よくいじめられたものだ。

 プレゼントだと渡された箱の中にトカゲが入っていたりだとか、目が合えばあっかんべーをされたりだとか。いま思えば子供によくあるからかいだったけれど、引っ込み思案の当時の私は、円華に守ってもらわなくては到底楽しく幼稚園生活を送れなかったのだ。

「俺の顔、覚えてなかった?」
「顔はあんまり……。こう言ったらなんだけど、怖い子だって記憶だけ」
「そんな風に言われるとショックだね。あれは俺なりの愛情表現だったんだけどな」
「だとしたら、屈折してる」
「あー、それはしてると思うよ。育った環境のせいさ」

 彼はちょっとだけ肩をすくめる。

「それは言い訳だと思うけど」
「そうかな。秀人が計算高くて薄情なのは、やっぱり結城家に育ったからだと思うよ。円華のことだってそうさ。秀人は円華と……っていうより、上條病院とつながりのある人物と結婚するように言われて育ってきたからね。いつしか義務を愛情だと勘違いするようになったのさ」
「円華も秀人さんと政略結婚する予定だったの?」
「まあね。結城家が思うより、円華は跳ねっ返りのじゃじゃ馬だったのが、秀人にとっても誤算だったんだろうな」
「なんだかさみしい」

 結婚に憧れがあるわけじゃないけど、決められた結婚はやっぱり違和感がある。

「仕方ない。それが結城家に生まれた秀人の運命だよ」
「じゃあ、湊くんもいつか政略結婚?」
「俺は違うよ。今日はそれを確かめるためにも来たんだ」
「確かめるって?」
「わからない?」
「全然」

 もったいぶった言い方は、どちらかというと苦手だ。

「君はあきれるぐらい、毒のない生活をしてきたんだね。純粋に育つわけだ」
「またバカにして……」
「いや、そのぐらいの方が、結城家で生きていけるかもしれない。いじめられても我慢したりしないで、周りに泣きつくぐらいの女の方が、母は可愛いと思うかもしれない」
「バカとハサミは使いよう?」
「そこまでは言ってないよ。想像より君はキュートで、意外にグラマーで、そのわりにけがれを知らなくて……」
「ちょっと待って」

 また何を言い出すのかと驚く。

「なに?」
「さらっと聞き流してたけど、結城家で生きていけるって、私が? なんでそんな話になるの?」
「今、さんざん説明してきたじゃないか」

 湊くんは大げさなため息をつく。まるで私が分からず屋みたいだ。しかし、かみ砕いて話してくれる優しさは、持ち合わせているらしい。

「ちょっと考えればわかることさ。秀人は円華との結婚を成立させることが出来なかったんだ。だけど、母親は蛇のように執念深いからね。なんとしてでも上條病院とゆかりのある人物と関係を持っていたい」
「じゃあ、湊くんが円華と?」
「言っただろ。秀人でも無理だったんだ。あの円華が俺と結婚するなんて頷くわけがない」
「だから意味が……」

 結局何が言いたいのかわからなくて、頭が混乱する。

「まあ聞けよ。上條病院の院長には二人の子供がいる。君も知っての通り、円華とその兄貴だ。残念ながら、円華には妹がいない。円華と結婚できないとなった今、上條ゆかりの人物で、若くて未来ある娘は、円華のいとこである上條沙耶、君しかいないんだ」
「つまり……」
「そう。秀人の結婚が決まった今、結城家は結城湊と上條沙耶の結婚を望んでいる」
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