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寝室までの距離
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しおりを挟む出かける準備をするため、寝室へと向かった。ドアを開けるとメーキングされたベッドが目に入る。沙耶がやってくれたのだろう。
昨夜は沙耶の肌に触れながら深い眠りに落ちた。あのぬくもりを今夜も感じることは出来ないのだろう。
寝室を別にしようと提案したのは俺だ。そうしないと、沙耶が一緒に暮らすことを承諾してくれないと思ったからだ。
しかし、そうしてしまったために、沙耶が自ら俺の寝室に来る日が遠のいてしまった気がする。今度彼女に触れることが出来る日はいつ来るのだろう。
すぐに着替えを済ませ、腕時計をしながら部屋を出ると、沙耶もまたリビングにやってきたところだった。
俺の希望を聞き入れてか、髪は結んだりしていない。小さなリボンのヘアピンをつけていて、可愛らしい装いをしている。
「あんまり服持ってきてなくて」
「明日、荷物が届くんだったな。気にいるのがあれば、今日買おうか」
「あ、催促したわけじゃなくて。仕事に行く時とかに着る服だから、あんまり可愛くないかなって思って」
沙耶はそう言って、ベージュのセーターを見下ろす。
「気にならないよ。君は趣味がいい。もちろん、自分に似合う服を知ってるという意味だよ」
「湊くんはいっつもカッコいいから悩んじゃうよ」
「俺の隣を歩くのにふさわしいのは君だけだよ。何も心配はいらないんだ」
「本当に優しいね……」
申し訳ないような、嬉しいような表情をする彼女に、力強く言う。
「本当のことを言ってるだけだよ。君の機嫌を取ろうとして言うことは何もないよ。さあ、行こうか。君はすぐに悩んでしまうから、気晴らしに外へ出た方がいい」
「うん。湊くんがいつもどんなお店に行ったりするのか知りたい」
「へえー、君も少しは俺に関心が出てきたんだね」
夫婦というには程遠いが、沙耶は確実に俺との関係に前向きになっている。焦ることはないのだ。
「デートって初めてだから、緊張する」
照れ笑いしながら、俺の言葉には返事をしない沙耶だが、彼女の笑顔を見ると安心する。この笑顔をずっと求めてきたんだと思う。
「出かける前に……」
「どうしたの?」
不思議そうに首を傾げる沙耶の体に腕を回して、耳元で囁く。
「抱きしめていいか?」
またしばらく沙耶に触れることが出来ないから、せめて抱きしめたいと思った時にぐらいは彼女に触れたくて。
「もう……、してるね」
ちょっと恥ずかしそうに笑う彼女をそっと抱きしめる。
「行こうか」
もう少し抱きしめていたいという気持ちに負けてしまいそうになるから、すぐに沙耶を離す。「うん」とうなずく彼女とともに玄関へ向かう。
「日本食のレストランにでも行こうか」
「よく行くの?」
「たまにだな」
たわいない会話をしながらエレベーターに乗り込み、手袋をしている彼女の手を握る。
ちょっと握り返してくれる控えめな沙耶は可愛らしい。好きだと言うのは簡単だが、好きだと言ってもらうのは難しい。彼女の態度はそんな悩みを抱える俺を、わずかには安心させてくれる。
「あ……」
マンションを出たところで、グリーンのモッズコートの青年が前を通りかかった。彼は俺を見るなり、気まずそうな声をあげた。
青年の目はすぐに俺の隣にいる沙耶に向けられた。彼女と目を合わせた途端、戸惑うように目は伏せられる。しかし、その視線の先で、俺たちのつながれた手を目にしてしまい、頬が強張ったのを見逃さなかった。
「知り合い?」
明らかに顔見知りの俺たちが挨拶も交わさないから、見かねた沙耶が俺に聞く。
「ああ、同僚だよ」
彼を沙耶に紹介してやる必要もない。同じ会社で働いているという事実以外、彼が俺の人生に関わる点は限りなく少ない。つまり、沙耶とは無縁だ。
「はじめまして、私……」
「沙耶、君は俺が挨拶するようにと言った者にだけ挨拶すればいいよ」
沙耶と彼の接点を少しでも増やしたくない俺は、ぴしゃりと彼女を咎めた。沙耶は理不尽な思いをしたのか、不満そうな顔を一瞬見せたが、すぐに口を閉ざした。
彼も同様だ。沙耶に挨拶すべきか悩んでいるが、俺の目を気にしてタイミングを失っている。
「さあ行こう。彼も休みの日にまで同僚と顔を合わせたくないだろう」
歩き出す俺たちに向かって、彼は「湊先輩、また……」と、頭を下げる。その様子を、沙耶はチラチラ見ている。
「気にするな。君は常に堂々としているんだよ」
「湊くん、挨拶をするしないの判断はどこでするの? 先輩はしても後輩ならしないの? 優劣つけるみたいで良くないよ」
「沙耶、人に優劣はつきものだよ。特に彼には挨拶する必要がないと、俺は判断しただけだ。後輩でも結城に関わりのある者なら挨拶するさ」
「関わりがないから挨拶しないの? 挨拶しなきゃ、関わりも出来ないよ」
「君は分からず屋だから、いちいち説明しなくちゃいけない。簡単に言うと、俺は彼が嫌いなんだ。沙耶を紹介したくない。それだけだよ」
はっきり言った声は彼に聞こえただろう。沙耶は申し訳なさそうに彼を振り返るが、彼は何も言わずに沙耶を見つめている。
まるで沙耶を咎めているようだ。そんな男と一緒にいていいのか、と責めているつもりか。
俺がまた歩き出すと、沙耶は戸惑いながらもついてくる。
これが現実だ。彼がいくら沙耶に恋慕しようが、もう彼女は俺の妻なのだ。
彼は沙耶をずっと見つめていたが、コートのポケットからスマホを取り出すと、電話をかける仕草をする。
沙耶も完全に挨拶するタイミングを失い、諦めたのか、彼に背を向けて俺の手を握り返してきた。
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