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寝室までの距離
14
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***
「純? なに?」
「不機嫌そうだねー、お兄ちゃん。今どこ?」
耳に当てたスマホに集中しながらも、俺の視線は白いコートの小さな背中に向けられていた。
白いコートの女性は、隣を歩く背の高い青年を笑顔で見上げている。彼に軽くあしらわれた俺のことなど、すっかり忘れてしまったような笑顔だ。所詮生きる世界が違うのだと思って来たが、彼女の背中を追い続けてしまうのはなぜだろう。
「どこって……」
目の前の高層マンションを見上げる。俺には一生無縁なマンションだ。
「アパートの近くだよ」
「まだ? 今日帰ってくるっていうからお昼ごはん用意してるのに」
「ちょっと寝坊してさ」
「飲みすぎたの?」
「まあ。純も忘年会だったんだよな。ちゃんと帰れたのか?」
昨夜は悪酔したかもしれない。純を気遣いながらも、大丈夫じゃなかったのは俺の方。
「私はそんなに飲まないもん。それより友だちが結構飲んじゃって。さっきメールしたんだけど、返事ないし。きっと忙しいから返事するひまもないのかな」
「友だちって、上條沙耶さん?」
「名前覚えてたんだ、お兄ちゃん。そうそう、沙耶だよ。飲むと大変なんだから、あの子」
「沙耶さんなら大丈夫だよ。さっき、彼氏と出かけていくとこ見たから」
白いコートの背中はもう見えなくなっている。
「ほんと?」
「湊先輩のマンションの前にいるから今。本当だよ」
「ミナト……? ミナトって言った?」
「ああ。沙耶さんの彼氏って、結城湊だろ?」
「そうだよー。なんで? なんでお兄ちゃんがミナトくんのこと知ってるの?」
電話で話しているのに、純は身を乗り出す勢いで尋ねてくる。
「同僚だからだよ」
「えっー? ミナトくんと一緒に働いてるの? お兄ちゃん。うわぁ、きっと苦労してるよねー。ねー、はやく帰ってきてよー。ミナトくんの話聞きたいー」
「純は噂話が好きだな」
「沙耶のことが心配なだけだって。じゃあ、はやく帰ってきてねー。お昼ごはんは出来てるから」
電話してる時間があるなら、一本でもはやい電車に乗って帰ってこいと言わんばかりに、一方的に電話は切れた。
電車とバスを乗り継いで、一時間ほどで自宅に到着した。久しぶりの俺の帰宅に喜んでいるわけではないだろう純の出迎えを受けた。
「お兄ちゃん、おかえりー。しばらく泊まっていくの?」
「ああ、正月までいるよ」
純は双子の妹だが、昔から俺を「お兄ちゃん」と呼ぶ。だから、近所でも俺たちが双子だと知らない人もいる。純もわざわざ、友人に双子の兄がいると話したりもしないようだ。
「正月っ? ひまなの? 彼女いないの?」
「人のこと言えるのかよ」
玄関をあがり、リビングへ行く俺の後を純はついてくる。
リビングテーブルには昼食が用意されていた。早速空腹を満たそうとする俺の前に、純は妙な笑顔で座る。
「お兄ちゃんはミナトくんと仲いいの?」
「そんなこと聞いてどうするんだよ」
「沙耶がね、ちょっと不安そうだったりする時あるから。ミナトくんって沙耶のことどう思ってるのかなってね。まあ、そんなこと言っても仕方ないんだけど」
「不安そう?」
ここへ来る時に出会った沙耶さんは、湊先輩に好んで寄り添っているように見えた。もちろん、湊先輩の発言には困惑しているように見えたが。
「ほら、言っても政略結婚でしょ」
「沙耶さんは上條病院の娘だっけ? 湊先輩も結婚相手は正統派を選ぶんだとちょっと驚いたけど」
「違う違うー」
「違う?」
「沙耶が正統派ってのは違わないけど、上條病院のお嬢様じゃないよ。そのお嬢様のいとこだよ」
「いとこ? そうだったんだ……」
俺はわずかに安堵した自分に気づく。別に上條病院の娘でなくても、沙耶さんが手の届かない人であることに変わりはないのに。
「お兄ちゃん、私の話いつもいい加減に聞いてるでしょー」
「でも、湊先輩と結婚するんだから、それなりの家柄なんだろ?」
「沙耶のお父さんは社長らしいけど、小さい会社の社長だって言ってたよ。結城の結婚相手としては不釣り合いな感じだよ。だから、沙耶も不安なんじゃないかな?」
想像とはちょっと違っていた話で、俺は神妙にうなずく。
「へえ……。でもさ、逆にメリットの少ない女性との結婚を選んだんだから、政略結婚ってわけでもなさそうだよな」
「まあ、ミナトくんはお母さんのために沙耶と結婚するって決めたらしいけどね。私の中でミナトくんは怖いマザコン男だよ」
目尻を人差し指で持ち上げ、目を釣り上げた純は、湊先輩の真似でもしてるのだろうか。
「湊先輩はそんな顔しないよ」
「うそー。すっごい目で私を睨むんだからー」
「睨む? なんか気にさわることしたんだろ。そうか……、だから山口は嫌いだなんて言ったんだな。純のせいか……」
ふむ、とうなずく俺を見て、勝手に納得しないでよと純は怒る。俺は苦笑いするしかない。
「うちの会社は結城の傘下だからさ、湊先輩に逆らったら会社にはいられなくなるんだよ。あんまり湊先輩には近づくなよ」
「そんなこと言っても、沙耶の旦那様だし……」
「まだ結婚してないだろ? もしかしたらってこともあるだろ」
もしかしたらなんてことあるわけはないのに、何を期待しているのだろう。結城が上條を選んだなら、湊先輩や沙耶さんの意思とは関係なく結婚は決まり、それは継続されるのだ。
「ないよ、そんなこと」
「まあな。湊先輩の心変わりがあったとしても、破談にはならないんだろうな」
「違うって。お兄ちゃん知らないの? 沙耶はもうミナトくんと結婚してるんだよ」
「……え」
そろそろ昼ごはんを食べさせてくれよと、持ち上げた箸を取り落としそうになる。
「結婚した?」
声はかすれていたが、純は大して俺の驚きに疑問は持たなかった。
「そうだよ。私もびっくり。いきなり婚姻届を出したって連絡あって、それから一緒に暮らしてるの。沙耶はそれでもいいって感じだったけど、やっぱりなんかかわいそうかなーって思ったりもするよ」
「かわいそう?」
「だって沙耶、恋愛経験全然ないから。もっといろんな経験してから結婚相手を選んだ方が良かったんじゃないかなって思って」
純は遠い目をして、ほおづえをつく。
「そうか。沙耶さんにとっては、湊先輩じゃなくても良かった結婚だったかもしれないのか」
「そう、それっ。沙耶はそれに気づいてないんだよ。本当に好きになった人と結婚して欲しかったなーって思う、友だちとしては」
「多少身分違いでも、やっぱり政略結婚か……」
「そう。それにミナトくんって浮気したりしない人かな? 見た目はいかにもって感じだけど」
言いにくいことを純はさらりと言うものだ。
「さあ、それは知らないよ」
「会社ではどうなの? ミナトくん」
「社内恋愛なんてしなくても、引く手あまただろ」
「そっか。浮気するならそんな手近なとこでしたりしないよね」
妙に純は納得する。
「純が心配しても仕方ないだろ、そればっかりは。沙耶さんなら、なんでも許しそうだけどな」
「だよねー。もしミナトくんが浮気してたら教えてね。沙耶に報告するからっ」
「まあ、ないだろうけどな」
湊先輩がすぐバレるような浮気をするわけがない。沙耶さんも気づいても黙認する女性だろう。
もし俺だったら浮気なんてしないし、沙耶さんを悲しませるようなことはしないと思うけれど。
俺はそっと息を吐き出して、ようやく箸を口に運んだ。
俺と沙耶さんは知り合うことも許されなかったのだ。そんなことを考えても仕方ない。
「幸せな結婚生活が送れたらいいな……」
俺はそのぐらいしか言ってやれない。沙耶さんの笑顔を見れば、湊先輩と過ごすことが幸せなんだろうと気づいていたというのに。
「純? なに?」
「不機嫌そうだねー、お兄ちゃん。今どこ?」
耳に当てたスマホに集中しながらも、俺の視線は白いコートの小さな背中に向けられていた。
白いコートの女性は、隣を歩く背の高い青年を笑顔で見上げている。彼に軽くあしらわれた俺のことなど、すっかり忘れてしまったような笑顔だ。所詮生きる世界が違うのだと思って来たが、彼女の背中を追い続けてしまうのはなぜだろう。
「どこって……」
目の前の高層マンションを見上げる。俺には一生無縁なマンションだ。
「アパートの近くだよ」
「まだ? 今日帰ってくるっていうからお昼ごはん用意してるのに」
「ちょっと寝坊してさ」
「飲みすぎたの?」
「まあ。純も忘年会だったんだよな。ちゃんと帰れたのか?」
昨夜は悪酔したかもしれない。純を気遣いながらも、大丈夫じゃなかったのは俺の方。
「私はそんなに飲まないもん。それより友だちが結構飲んじゃって。さっきメールしたんだけど、返事ないし。きっと忙しいから返事するひまもないのかな」
「友だちって、上條沙耶さん?」
「名前覚えてたんだ、お兄ちゃん。そうそう、沙耶だよ。飲むと大変なんだから、あの子」
「沙耶さんなら大丈夫だよ。さっき、彼氏と出かけていくとこ見たから」
白いコートの背中はもう見えなくなっている。
「ほんと?」
「湊先輩のマンションの前にいるから今。本当だよ」
「ミナト……? ミナトって言った?」
「ああ。沙耶さんの彼氏って、結城湊だろ?」
「そうだよー。なんで? なんでお兄ちゃんがミナトくんのこと知ってるの?」
電話で話しているのに、純は身を乗り出す勢いで尋ねてくる。
「同僚だからだよ」
「えっー? ミナトくんと一緒に働いてるの? お兄ちゃん。うわぁ、きっと苦労してるよねー。ねー、はやく帰ってきてよー。ミナトくんの話聞きたいー」
「純は噂話が好きだな」
「沙耶のことが心配なだけだって。じゃあ、はやく帰ってきてねー。お昼ごはんは出来てるから」
電話してる時間があるなら、一本でもはやい電車に乗って帰ってこいと言わんばかりに、一方的に電話は切れた。
電車とバスを乗り継いで、一時間ほどで自宅に到着した。久しぶりの俺の帰宅に喜んでいるわけではないだろう純の出迎えを受けた。
「お兄ちゃん、おかえりー。しばらく泊まっていくの?」
「ああ、正月までいるよ」
純は双子の妹だが、昔から俺を「お兄ちゃん」と呼ぶ。だから、近所でも俺たちが双子だと知らない人もいる。純もわざわざ、友人に双子の兄がいると話したりもしないようだ。
「正月っ? ひまなの? 彼女いないの?」
「人のこと言えるのかよ」
玄関をあがり、リビングへ行く俺の後を純はついてくる。
リビングテーブルには昼食が用意されていた。早速空腹を満たそうとする俺の前に、純は妙な笑顔で座る。
「お兄ちゃんはミナトくんと仲いいの?」
「そんなこと聞いてどうするんだよ」
「沙耶がね、ちょっと不安そうだったりする時あるから。ミナトくんって沙耶のことどう思ってるのかなってね。まあ、そんなこと言っても仕方ないんだけど」
「不安そう?」
ここへ来る時に出会った沙耶さんは、湊先輩に好んで寄り添っているように見えた。もちろん、湊先輩の発言には困惑しているように見えたが。
「ほら、言っても政略結婚でしょ」
「沙耶さんは上條病院の娘だっけ? 湊先輩も結婚相手は正統派を選ぶんだとちょっと驚いたけど」
「違う違うー」
「違う?」
「沙耶が正統派ってのは違わないけど、上條病院のお嬢様じゃないよ。そのお嬢様のいとこだよ」
「いとこ? そうだったんだ……」
俺はわずかに安堵した自分に気づく。別に上條病院の娘でなくても、沙耶さんが手の届かない人であることに変わりはないのに。
「お兄ちゃん、私の話いつもいい加減に聞いてるでしょー」
「でも、湊先輩と結婚するんだから、それなりの家柄なんだろ?」
「沙耶のお父さんは社長らしいけど、小さい会社の社長だって言ってたよ。結城の結婚相手としては不釣り合いな感じだよ。だから、沙耶も不安なんじゃないかな?」
想像とはちょっと違っていた話で、俺は神妙にうなずく。
「へえ……。でもさ、逆にメリットの少ない女性との結婚を選んだんだから、政略結婚ってわけでもなさそうだよな」
「まあ、ミナトくんはお母さんのために沙耶と結婚するって決めたらしいけどね。私の中でミナトくんは怖いマザコン男だよ」
目尻を人差し指で持ち上げ、目を釣り上げた純は、湊先輩の真似でもしてるのだろうか。
「湊先輩はそんな顔しないよ」
「うそー。すっごい目で私を睨むんだからー」
「睨む? なんか気にさわることしたんだろ。そうか……、だから山口は嫌いだなんて言ったんだな。純のせいか……」
ふむ、とうなずく俺を見て、勝手に納得しないでよと純は怒る。俺は苦笑いするしかない。
「うちの会社は結城の傘下だからさ、湊先輩に逆らったら会社にはいられなくなるんだよ。あんまり湊先輩には近づくなよ」
「そんなこと言っても、沙耶の旦那様だし……」
「まだ結婚してないだろ? もしかしたらってこともあるだろ」
もしかしたらなんてことあるわけはないのに、何を期待しているのだろう。結城が上條を選んだなら、湊先輩や沙耶さんの意思とは関係なく結婚は決まり、それは継続されるのだ。
「ないよ、そんなこと」
「まあな。湊先輩の心変わりがあったとしても、破談にはならないんだろうな」
「違うって。お兄ちゃん知らないの? 沙耶はもうミナトくんと結婚してるんだよ」
「……え」
そろそろ昼ごはんを食べさせてくれよと、持ち上げた箸を取り落としそうになる。
「結婚した?」
声はかすれていたが、純は大して俺の驚きに疑問は持たなかった。
「そうだよ。私もびっくり。いきなり婚姻届を出したって連絡あって、それから一緒に暮らしてるの。沙耶はそれでもいいって感じだったけど、やっぱりなんかかわいそうかなーって思ったりもするよ」
「かわいそう?」
「だって沙耶、恋愛経験全然ないから。もっといろんな経験してから結婚相手を選んだ方が良かったんじゃないかなって思って」
純は遠い目をして、ほおづえをつく。
「そうか。沙耶さんにとっては、湊先輩じゃなくても良かった結婚だったかもしれないのか」
「そう、それっ。沙耶はそれに気づいてないんだよ。本当に好きになった人と結婚して欲しかったなーって思う、友だちとしては」
「多少身分違いでも、やっぱり政略結婚か……」
「そう。それにミナトくんって浮気したりしない人かな? 見た目はいかにもって感じだけど」
言いにくいことを純はさらりと言うものだ。
「さあ、それは知らないよ」
「会社ではどうなの? ミナトくん」
「社内恋愛なんてしなくても、引く手あまただろ」
「そっか。浮気するならそんな手近なとこでしたりしないよね」
妙に純は納得する。
「純が心配しても仕方ないだろ、そればっかりは。沙耶さんなら、なんでも許しそうだけどな」
「だよねー。もしミナトくんが浮気してたら教えてね。沙耶に報告するからっ」
「まあ、ないだろうけどな」
湊先輩がすぐバレるような浮気をするわけがない。沙耶さんも気づいても黙認する女性だろう。
もし俺だったら浮気なんてしないし、沙耶さんを悲しませるようなことはしないと思うけれど。
俺はそっと息を吐き出して、ようやく箸を口に運んだ。
俺と沙耶さんは知り合うことも許されなかったのだ。そんなことを考えても仕方ない。
「幸せな結婚生活が送れたらいいな……」
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