せめて契約に愛を

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寝室までの距離

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「明日は湊くんのおうちに行くの? ちょっと緊張しちゃうね」

 会社が正月休みに入った翌日、実家から荷物が送られてきた。その片付けに追われるあまり、湊くんとのんびり過ごす時間もないまま大みそかを迎えていた。

 キッチンもリビングも、湊くんが一人で暮らしていた時よりも生活感が出てきて、結婚したんだなって少しだけ実感することがある。

「普通にしてたらいいよ。本当に緊張してるのは秀人の婚約者だろ」

 湊くんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、ソファーに身を寄せ合って座るのは毎日のこと。居心地の良い場所になってきている。

「そうだね。長男のお嫁さんだから、きっと私なんかより大変だよね。どんな人だか楽しみ」
「秀人の婚約パーティーで話はしなかったのか?」

 コーヒーを飲み終えた湊くんの腕が、私の肩に回される。さりげない仕草に私が戸惑うことは、もうない。
 こんな風に過ごす湊くんとの生活が、私にとっては全てで、彼にとってもそうであることが私の喜びでもあった。

「挨拶程度はしたよ。でも、円華と一緒だったから、私はあんまり」

 それに誰かと話す時はメガネ禁止と円華に言われていたから、遠目に秀人さんの婚約者は見ただけだった。

「俺も大して会ったことないけどさ。秀人もどっちかっていうと、おとなしい女が好きだからな。円華みたいな女じゃないことは確かだろ」
「円華と結婚したかったのに?」
「あれは意地。ベッドの中では従順な女がいいのさ、俺たちはね」
「俺たちって……」

 従順な意味もまだわからないけど、困惑ぎみにうつむくと、湊くんは耳に唇を寄せてくる。

「今日こそは、どう?」
「え……、どうって……」
「引越しの片付けが忙しいってはぐらかされてきたからさ。今はどうかなって思ってね」
「そんな風に聞かれたら……、うん、なんて言えないよ」
「そうやって今日もはぐらかすのか。まあいいさ。気長に待つと決めたんだ。キスだけで今日も我慢しよう」

 湊くんの柔らかい髪が頬に触れて、唇の端に軽いキスが落ちてくる。その後はいつもキスが深くなるから、恥ずかしさからサッと立ち上がると、彼は不満げに私を見上げた。

「お、お風呂入ってくるね」
「風呂? まだ8時だよ」
「だって、明日は早起きしなきゃ」
「別に早起きなんて必要ないだろう。こんな時間から寝る気か? 君はどこまで子供なんだ」
「ほら、緊張して寝れないといけないし」
「だったら一緒に寝てやるよ」

 にやりと笑う湊くんは、いつも私をからかって楽しんでいる。

「とにかく、お風呂入ってくるね。明日の準備もしなきゃ」
「明日の準備か。そうだな」

 妙に納得した湊くんも、私から関心がなくなった様子で立ち上がる。そのまま何も言わずに寝室へと入っていった。

 湊くんはいつもそうだ。他ごとを考えている時は私のことを忘れているみたい。
 男の人はみんなそんなものなのだろうかと思ったりする。純ちゃんや円華には、相談するほどのことでもない気がして言い出せない。

 空虚な気持ちになりながらも、バスルームへ向かった。お風呂に入って、余計なことは忘れてしまおうと思う。

 広いバスルームは落ち着かないぐらいだけど、テレビもついてて、くつろぎの空間だ。だからって、テレビは見たりしない。乳白色に染まる湯船で目を閉じていると、心地よさに眠くなってしまう時がある。

 前に一度、長風呂してしまった時がある。湊くんがひどく心配した。それからは何かあってはいけないからと、脱衣所に鍵をかけるなと言われている。

 今日は心配かけてはいけないなと思って、早めに湯船から出てバスルームのドアを開けた。その時、脱衣所のドアが動く音を耳にした。

「沙耶っ、明日の服装だけど……」

 脱衣所に足を踏み込み、お風呂に入っている私に聞こえるようにと、いつもより大きな声をあげた湊くんは言葉を飲んだ。

「……み、湊くんっ」
「あ、悪い」
「タ、タオル……っ」

 脱衣所のカゴに入れたバスタオルに手を伸ばすけど、視界がかすんでいて遠近感がうまく取れない。
 すぐにはバスタオルが見つからなくて、ぼんやりと浮かぶ白い塊がそれだろうと一歩近づいた時、横から伸びてきた手に腕をつかまれた。

「湊くん……っ」
「君が悪いんだよ。今日に限って、こんなに早く出てくるから」
「だって……」

 すぐにすっぽりと湊くんの腕に包まれてしまう。何も着てない身体を見られる心配はないなんて安堵できない。

「は、離して……」
「君は俺をそんなに苦しめたいのか」
「そんなこと……っ」
「こんな状況を作っておいて、これ以上触れちゃいけないなんて、そうとしか考えられない」
「湊くんが勝手に入ってくるから……」

 湊くんはますます強く私を抱きしめる。

「君の肌は指が吸いつくみたいに滑らかだよ。シャンプーの香りも好きだ。いつになったら俺を受け入れてくれるんだ?」
「湊くんっ、明日の服装って……、何?」
「……君は俺を意地悪だと言うが、まあいい」

 不意に湊くんは私を開放すると、バスタオルを差し出してきた。慌ててそれを受け取る。身体を覆ううちにメガネはかけられた。

「湊くん、ありがとう……」
「お礼より欲しいものがあるが?」
「……あの、で、服装って?」

 濡れた前髪の奥に、シャツを濡らした湊くんが立っている。あきれた表情をしているが、怒ってはいないみたいだ。

「秀人に聞いたらさ、婚約者は明日、ピンクのワンピースを着てくるってさ。確か沙耶がこの間買った服も同じような服だったと思ってね。他にないなら今からでも買いに行かないとと思って声をかけに来たんだよ」
「あ、わざわざ聞いてくれたの? だったら違う服着てくから大丈夫だよ。教えてくれてありがとうね」
「あちらに恥をかかせるわけにもいかないからね。そうとわかったら出かける必要もないな。君の身体もそろそろ冷えてきただろうし、俺もご覧のありざまだ。もう一度俺と一緒に……」

 おもむろに濡れたシャツを脱ごうとする彼の胸を押す。

「湊くん、着替えたいからちょっと出て行ってくれる?」
「君は俺に風邪を引かせるつもりか」

 湊くんは不機嫌そうにしながらも、脱衣所のドアに手をかける。
 そのまま振り返ることなく脱衣所を出ていく背中に駆け寄って、ドアの隙間から彼を見上げる。

「湊くん、本当にありがとう。私、湊くんと結婚できて良かったって思うよ」
「沙耶……」
「明日は失礼のないように頑張るね」
「ああ、そうだな。別に粗相してもかまわないよ。最初から完璧では息がつまるだけだ」
「うん……」

 と、うなずいた瞬間にくしゃみが出て、湊くんの眉が片方あがる。

「お風呂、入り直してくるっ」

 そう言って、脱衣所のドアを閉めようとする私の前には、やけに優しい笑顔をする湊くんがいて。

「俺も風邪を引きそうだが……」

 と、ドアを小突く彼の声を聞きながら、鍵をかちゃりとかけた。

「君の方が意地悪だ」

 そう言って、苦笑いする彼の声と共に、足音は次第に遠ざかっていった。
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