せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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寝室までの距離

16

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***


 都会の真ん中にあるとは思えないほど、おしゃれで落ち着きのある洋館に足を踏み込む。その美しさに驚嘆のため息を吐き出す。

 洋風に整えられた庭園も、細部にまでこだわった内装も全て、湊くんのお父さんがお母さんのために趣味に合わせて用意したものだという。

「湊くんのお父さんとお母さんは恋愛結婚だったんだね」
「そうらしいな。あんまり興味ないけどね」
「こういうのっていいね。愛情の証みたい」
「家が欲しいのか?」

 湊くんは意外そうに眉をあげる。

「そうじゃないよ。湊くんのお父さんがお母さんのこと、どれだけ好きだったかわかるねって言ったの」
「君は形にこだわるタイプなのか? まあ、結婚したのに制約があって指輪も買ってやれてないからな。ペアリングぐらい作ろうか」
「そういうことじゃないけど……」

 伝えたいことが伝わらないもどかしさは、湊くんと一緒にいる中で何度も経験した。それでも彼なりの優しさを感じるから、むげに出来ない。

「明日にでも買いに行こう。それで君が喜ぶなら」
「いいの?」
「君は何も欲しがらないから、案外難しいね。素直に受け取ってもらえたら俺も嬉しいよ」

 そう言った後、長い廊下を並んで歩いていた湊くんは、不意に足を止めた。

「さあ、ここが客間だよ。まあ君はいつも通りでいたらいい」

 ちょっと緊張する私の肩に手を置いた湊くんは、客間の扉を押し開く。

 賑やかな笑い声が一瞬消えて、扉の方に視線が集中したことに気づいた時には、和服姿の女性が速やかに出迎えに現れていた。

「湊さん、待ってたわ。寒かったでしょう?」
「大丈夫だよ。母さん、知ってるだろうけど沙耶だよ」

 湊くんが私を紹介してくれると、彼のお母さんは満面の笑みで私を見つめた。

「ええ、ええ。沙耶さん、お久しぶりね。あいかわらず可愛らしいお嬢さん。さあ、座って。今ね、真由香まゆかさんが持ってきてくださった和菓子を頂こうとしていたところなの」

 真由香さんというのは、秀人さんの婚約者だ。どうやらみんなそろっているよう。

 促されて辺りを見回せば、テーブルを囲むように座る、湊くんのお父さん、秀人さん、真由香さんと目が合う。

 真由香さんは私に優しい笑顔を向けて頭を下げる。気取ったところのない、清楚で可憐な人。そんな印象を受ける細身の女性だ。

 お正月らしく、おせちの置かれたテーブルに、真由香さんの持ってきた和菓子が並ぶ。おせちはお母さんの手作りらしい。今日は家族だけの集まりで、親戚は呼んでいないという。想像以上にアットホームな家庭なのかもしれないとも思う。

 湊くんと私が挨拶を済ませて席についた時、お母さんがそっと手を合わせて、「そうだわ」と声をあげた。

「沙耶さんに着物を用意しているの。せっかくだから着てみない? 私が若い時に着ていたものなのだけど」

 どう返事をしたら良いものかと困惑しながら湊くんを見上げた。真由香さんにも用意してあるのだろうか。私だけなのだとしたら、真由香さんはどう思うだろう。

「母さん、今度じゃダメなのか?」
「今がいいわ。ね、沙耶さん、いらして」

 湊くんの制止も聞かずに、お母さんは私の手に手を重ねる。

「湊くん……、いいのかな」

 無言でいるお父さんも気になるし、楽しそうに見ている秀人さんの横で、感情を殺したような笑みを浮かべる真由香さんの様子も気になる。

「母さんの好きなようにしてやってくれ」

 突き放した湊くんの言葉に嬉々としたお母さんは、「少し沙耶さんを借りるわね」と私の手を引いた。

 湊くんのお母さんは、まるで可憐な少女のように軽やかに廊下を進む。パーティーなどで拝見した時はもっと厳格な女性だと思っていたけれど、普段はずいぶんと物腰柔らかな女性のようだ。

「沙耶さんはよく着物をお召しになる?」

 洋館の一室だと忘れてしまうような和室に案内された私は、衣紋掛けにかけられた着物を見上げた。

 桜色の生地に牡丹の花が描かれた着物。若い女性に似合いそうなデザイン。湊くんのお母さんが今の私より若い頃に着ていたものだと言う。

「ほとんど着たことないです。足袋ぐらいは履けますけど……」
「まあ。最近の子は足袋も履けないのよ。十分だわ。着付けは私がやってあげるから心配しないで」
「本当に私に?」
「他に誰が着るの?」

 当然のように言うのだから、なかなか聞けない。その気持ちを汲んで、お母さんは微笑む。

「この着物は特別だから沙耶さんに、と決めていたの。真由香さんには別の着物を贈るわ。だから気にしないでいいのよ」
「特別?」
「そうよ、特別」

 言われるがまま和室の中央に立つと、お母さんは着付けをしてくれる。

「真由香さんには長男のお嫁さんにふさわしい着物を作らせているの。沙耶さんには古いものだけど……、とても大切な思い出のある着物だから」
「どんな思い出ですか? あ、聞いても?」
「ええ」

 と、お母さんは微笑んで、私の髪にそっと触れる。その眼差しは、どこか遠くを見つめるよう。

「髪も結ってあげるわね。あの日の私と同じように……」
「あの日?」
「この着物はプレゼントして頂いたものなの。贈ってくださった方は、私に言ってくれたわ。この着物を着て、両親に会ってくれないかって……」
「それって……」
「そうね、プロポーズだったわ。とても嬉しくて、大切な思い出。湊さんが沙耶さんと結婚したいと決めた時から、この着物を沙耶さんにと思っていたの。あなたなら、私の思い出を大切にしてくれると思ったから」

 真由香さんではダメなのですか?と思ったけれど、幸せそうに微笑むお母さんを見ていたら何も言えなくなる。
 でも、湊くんのお父さんがお母さんにプレゼントしたものなら、やはり長男のお嫁さんである真由香さんの方が袖を通すにふさわしい気がして。

「どんなことがあっても、湊さんから離れないでいてね。離れてしまったら後悔してしまうから」
「私、本当はまだ、湊くんとの結婚を実感できてなくて」
「まあ、素直なお嬢さん。でもね、私もそうだったから大丈夫よ。お父さんの気持ちを重荷に感じてしまう時もあったけれど、今はとても幸せよ。さあ、出来た。髪を結ったら戻りましょう」
「……はい」

 お母さんは私の両手をそっと握り、うなずく私を祈りを込めた眼差しで見つめた。

「沙耶さん、湊さんとの結婚を受け入れてくださってありがとう。結城の者はわがままな人が多いけれど、沙耶さんのような寛容さがあれば、きっと幸せになれるから」

 私もそうだったのだから、と湊くんのお母さんは、そっと囁いた。
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