せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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寝室までの距離

18

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 隠れる場所もなくて、辺りを見回しているうちに、階段から一人の女性が廊下に姿を見せた。

 和菓子とお茶の乗ったお盆を持った女性は、鏡の前の私と目が合うと、ちょっと驚いたように目を見開いた。そして、「沙耶さん、こちらへどうぞ」と微笑む。

「真由香さん、あの……」
「秀人さんの言う通り」
「え……?」
「いらして」

 真由香さんは湊くんの部屋とは違う方へと歩き出す。彼女の静かに歩く姿は優雅で、私はパタパタと後ろを追いかける。

 真由香さんと私とでは、全然違う。お父さんに気に入られないのは、所作一つからとってもわかるように、仕方ないのだと思えてくる。

 突き当たりの部屋の前まで来ると、真由香さんは振り返った。

「ここは私の部屋になる予定なの。自由に使っていいと言われていますから、どうぞ」
「真由香さんのお部屋?」
「まだ何もないのですけど。着物ぐらいは直して差し上げられます」
「あ……」

 恥ずかしさで赤くなる私を見て、真由香さんは楽しそうに微笑んだ。

「本当に可愛らしい方。秀人さんは結城には向かない性格だとおっしゃったけれど、きっと私よりタフな方ね、沙耶さんって」
「……はぁ」
「褒めているのよ。それに羨ましくもあるの。さあ、どうぞ。私の妹になるんですもの。仲良くしましょう?」
「妹……。そ、そうですね。私、一人っ子だからお姉さんとかいなくて。真由香さんみたいな素敵な方がお姉さんになってくださるなら嬉しい」

 真由香さんの開けてくれるドアの中へ入って笑顔になる私を、彼女は不思議そうに見つめて、やはりそっと微笑む。

「あなたってきっと、皮肉もわからない方ね。あ、皮肉は言ってないわよ。ただふとそう思ったの」
「褒め言葉ですか?」
「そうね。全体的に、沙耶さんって可愛らしい方」

 全体的に……?

 ざっくりとした感想を言われたけれど、真由香さんの優しげな笑顔に見つめられると、素直に褒められたのだと思えてくる。
 それを単純だと言いたいのだろうけど、皮肉を言い返す技量もない。

 早速真由香さんは乱れた着物と髪を整えてくれた。そして、私と湊くんのために和菓子を持ってきたのだけど、少し話をしましょうと言う。

「部屋で湊くんが待って……」
「秀人さんが言っていたわ。湊さんは細かいことにこだわらない方だって。あなたが喧嘩して家出をしたとしても、追いかけないような方。ですから沙耶さんが戻らなくても、ご自分で客間へ行かれるわ」
「……そんな気がします」
「でも不思議。それを聞いてもあなたは怒りもしない。当たり前のことのように受け入れるのね。湊さんを信じているからか、それとも……、ただ興味がないのか」
「信じていないかと言われると違うと思うし、力むほどには信じてはいないと思います。でも興味がないことはなくて……」
「なんだか羨ましい」

 真由香さんは窓辺へ移動すると、外を眺めた。その背中は凛としているのに、頼りなげ。強さと弱さが共存した、きっと強い方だと思わせる。

「その程度の気持ちでも、あなたは湊さんをつなぎとめておけるんですもの。私は必死よ。悲しいぐらい必死」
「秀人さんのこと、よく知らなくて」
「秀人さんは沙耶さんをよくご存知よ。泣き虫沙耶ちゃんって、楽しそうに私に話をしてくださるの。それも羨ましいことよ」
「泣き虫……」

 幼少期の私は泣いてばかりだったのだろう。今もあの頃とそんなに変わってないかもしれないけれど。

「幼稚園の頃からのお知り合いなのでしょう? 泣いてばかりいたあなたのことはよく覚えているんですって。そういう意味ではあなたは特別だそうよ」
「特別?」
「存在感がないのに、存在を忘れない方。上條家の人は結城家にとってみんなそうだと。円華さんは華やかな方だから、ある意味特別ね、あの方も」
「真由香さんもとてもお綺麗です」

 真由香さんは振り返り、ちょっと妖艶に笑う。

「ありがとう。でも綺麗なだけではダメ。秀人さんの目はいつも私以外の女性に向けられてるみたい」
「結婚相手に選んだのだからそんなこと……」

 真由香さんはゆるりと首を横に振る。

「あなたって純粋」
「真由香さん……」
「沙耶さんは出会ったばかりの私のために、そんな風に心を痛めた顔をする方なのね。仲良くできたら、本当に素敵」
「私も仲良くしてくださるなら、本当に嬉しいです」
「秀人さんがね、言うの」

 真由香さんは痛々しげに私を見つめて、不意に視線をそらす。

「秀人さんはいつか、湊さんがあなたを捨てると言うの」
「……え」
「弟の心は手に取るようにわかるんですって。秀人さんは賢くて、先見の明がおありになるわ。だからあながち、笑って済ませれる話ではないとも思うの」
「私はどう答えたらいいのか……」

 そうとも違うとも言えない。私には確信がない。

「沙耶さんはその覚悟もおありなのかしら? それともそんなこと考えもしないぐらい純粋? これは皮肉かもしれないわ。幸せが当たり前すぎて、ご自身がどれほど幸せか気づきもしない」
「そんな風に見えますか?」
「違う?」

 すぐに否定は出来ない。湊くんとの結婚が急に決まって、考える余裕さえなかった。けれど、振り返れば、湊くんの優しさにいつだって甘えていたかもしれない。

「その幸せは、あなたに湊さんの興味の目が向いているから存在しているものよね?」
「そう、かもしれません」
「不安?」
「……あ」
「不安よね。急に不安になってきた? 私はいつもそんな不安の中にいるの。秀人さんの心が一生私に向いたままだなんて、私はうぬぼれたりしないわ」

 私だってうぬぼれているつもりはないけれど……。

「意地悪なこと言うと思う? でもこれが現実よ。私が言いたいのはね、お互いに努力しましょうということ。たとえばあなたが、着物の着付けをご自身で出来るようになりたいと望むなら、私が教えて差し上げるわ。料理だってなんだって。幸せは努力で勝ち取るもの。愛されるための努力を惜しんではいけないわ。愛されるのが当たり前だとも、うぬぼれたらいけない」
「真由香さんは強い方です」
「あなたも強くなりなさい。秀人さんと話していると、いつもそう思うの。沙耶さんとは親しく話したことはないのに、哀れに思えて。そして不思議。哀れなままのあなたに救いの手を述べたくなるの。沙耶さんにはそんな不思議な雰囲気があるから、きっと湊さんに愛されているのね」

 嫌味か皮肉か、なんなのかわからない。その言葉に返す、気の利いた言葉も思い浮かばない。

「よくわからないけれど……、お礼を」
「そうね。ありがとう。でもちょっと安心したの」
「安心?」
「沙耶さんは異常なぐらいお母様に大切にされてる。あなたは私と決定的に違うものがあるんだってわかって。でもちょっと羨ましかった。私がその着物を頂きたかったわ」

 羨ましそうに、真由香さんは私を眺める。

「私も、この着物は真由香さんにふさわしいと思って……」
「それは嫌味。あなたによくお似合いよ。変な気を遣ったりしないで。私、これでも本音と建前の違いはよくわかるつもり」
「気を遣ってるつもりはなくて」
「ふふふ。沙耶さんって本当に可愛らしい。あなたが末長く私の義妹でいてくれたら、少しは楽しい思いが出来そうよ」

 真由香さんは声を漏らして笑う。その笑顔が本来の彼女の笑顔な気がして、思わず見惚れてしまう。

「お茶が冷めてしまったから、戻りましょう。秀人さんの予想が正しければ、客間に湊さんも戻っているでしょうから」

 部屋を出た私は、「あら」とつぶやく真由香さんの背中の奥に湊くんの姿を認めた。

「予想外かしら?」

 真由香さんが首を傾げた時、湊くんが言う。

「客間に戻ったら、二人を探して来いって秀人に言われてさ」

 不服そうな湊くんは「さあ戻るぞ」と続けて、階段を降りていく。

「私が一勝ね」

 真由香さんは振り返り、なんだか楽しそうに笑った。
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