せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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寝室までの距離

19

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***


___湊さんはいつかあなたを捨てる……


 手袋を通して伝わる暖かさは、そっと手を握り返してくれる彼の優しさ。このぬくもりを失わないなんて、絶対だと思っていたわけではないけれど、いざ失うかもしれないという現実を言葉で伝えられたら不安になる。

 同時に私は、そんな風に不安になるほど彼を好きになっているのだと気付かされた。

 他に好きな女性が出来たと彼に告白されたら、結婚した時と同様、それを受け入れることが出来るだろうか。

「……沙耶、沙耶はどれがいい?」
「え? あ、うん」

 ハッと気づくと、いくつかの指輪が目の前に用意されていた。

 今日は一人で部屋にいたい気分だった。だけど、湊くんが指輪を買ってくれるというから、断ることも出来ずに出かけてきたのだった。

 一通りの説明は聞いていた気がするが、考え事をしていて上の空だった。

 湊くんにもそれは伝わっていたのだろう。彼は不機嫌そうに眉をあげた。

「全然見てないだろ。よっぽど欲しくないんだな。悪かったよ、欲しくないものを買ってやるなんて言って」
「あ、違うよ。湊くんの気持ちはすごく嬉しいよ。ちょっと疲れてるかな……、私」

 湊くんはすぐに表情を和らげて、疲れを隠せていない私の顔を覗き込む。

「まあ、あの家にいると憂鬱になる気持ちはわかるよ。しばらく父さんに会うことはないだろうし、無理に気に入られたいなんて思う必要はないよ」
「湊くんのご両親はなんのメリットもない私と湊くんの結婚を許してくれたんだから、そういうわけじゃないよ」
「許すっていうより、結城が望んだことだろ。父さんだって無愛想にしてるけど、沙耶のことは気に入ってるよ」

 安心させようとしてくれる湊くんの言葉は、すんなりと胸に落ちてこない。

「そうかな。そうだといいけど……。それに、もし気に入られてなかったとしても、認めてもらえるように努力するね」
「へえー、君が努力なんて言葉を口にするとは思わなかったよ。それに俺のためだというなら、こんなに嬉しいことはないね」

 湊くんは上機嫌になって、目の前に陳列する指輪の中からハートの形にカットされたブルーダイヤの指輪を手に取った。

「普段から使うなら、このぐらいがいいかな」

 湊くんは私の人差し指にそっと指輪をはめてくれる。小さなダイヤだけど、華美すぎずとても可愛らしい印象だ。

「気に入った?」
「うん、でも……」

 本当にいいの?と聞こうとする私に、湊くんは「いいんだ」とうなずく。そして、店員に「もう少し見せてもらうよ」と言う。

 店員はまたショーケースからいくつか指輪を選び始める。ペアリングを購入する予定だから、もう少し時間はかかりそうだ。

「沙耶、君はカフェにいるといいよ。だいたいの好みがわかれば、後は俺に任せてればいい」
「いいの?」
「気分が優れないのに連れ出したりして悪かったよ」
「本当に……、ごめんね」

 ちょっと一人になりたくて、目を伏せて立ち上がる。こんなデート最悪だろう。なのに、湊くんはすごく優しい。彼の優しさが今の私にはこたえる。優しくされるのが当たり前だと、やっぱり甘えているのだろう。

「落ち着いたら戻ってくるね」
「ああ。気をつけて行けよ」
「うん」

 と笑顔を見せると、無理に作った笑顔になったのか、湊くんは眉根を寄せる。これ以上心配かけたくなくて、まるで彼から逃げ出すように、私は宝石店を後にした。

 宝石店の向かい側にあるおしゃれな喫茶店へ行こうと、青信号に変わった横断歩道を足早に歩き出す。その時、見知った顔に気づいて足を止めた。

 流れる人波の中、立ち止まった私は目立ったのだろう。向かい側から歩いてくる青年も、周囲の人々と同様に、私に視線を向けた。
 しかし青年は私と目が合った途端に、くるりと背を向けて来た道を戻り始めた。

 私はようやくそのとき彼が誰であるかを思い出し、走って彼を追いかけていた。

「あのっ!」

 彼は振り返らずに横断歩道を渡りきると、困ったように左右へ足を迷わせた。

「すみませんっ」

 地下鉄のある右手へ行こうとした彼の前へ飛び出して、切れた息を整える。

「あの、あなた……、湊くんと同じ会社で働いてる方ですよね」
「いや……、俺は」

 青年は困ったように視線を泳がせる。

「前にマンションの前でお会いしましたよね? 湊くんがとても失礼なこと……。あの、そうじゃなくて……」

 俺は彼が嫌いなんだ。

 そう湊くんが言ったことを思い出させるような発言をしたのは、余計に失礼なことだと気付いた。口をつぐんだ私に青年はちょっと笑う。
 柔らかな笑顔をする、とても人の良さそうな青年だ。

「湊先輩はいつもそうだから。気にしてないですよ」
「湊くんは良くも悪くもはっきり言うから。あ、私よりきっとあなたの方がよく知ってますよね」

 会社の後輩だというなら、私より湊くんとの付き合いは長いはずだ。

「今日は一人でお出かけですか?」

 青年は辺りを見回す。湊くんがいないか探しているのだろう。

「今は一人なの」
「今は……。そうですか。じゃあ、俺はもう行きますから」
「あ、ごめんなさい。急に声をかけたりして。湊くんが言ったこと、少し気になってて……」
「少し……」

 彼がそうつぶやくから、ハッとする。

「違うんですっ。少しじゃなくて、すごく気になってて。湊くんはあんな風に言ったけど、その……」
「湊先輩の代わりにあなたが謝ることはないでしょう? そんなこと気にしてたら、あなたの身がもたないですよ」
「湊くんは誰にでもあんな風に言うの? 私……、考えてみたら、湊くんがどんな仕事をして、どんな方たちと仕事してるかも知らない……」

 私たちにはたくさん話す機会があったのに、大事なことを話せてないんじゃないかって気づく。

「湊先輩は秘密主義なんですね」
「秘密っていうのか……。あ、そうだわ。名刺、名刺くださらない?」
「名刺?」
「湊くんのことだから、仕事のこと聞いても、知らなくてもいいって、教えてくれないかもしれないんだもの」
「湊先輩ならあり得そうですね。でも、俺以外の社員にそんな話を軽率にしたらダメですよ。湊先輩はプライベートを全然しゃべらない人だから」
「そうなの?」

 少し意外で、きょとんとしてしまう。

「心を許した人にはそうでもないかもしれないけど。でも、会社では湊先輩は結婚してないことになってるし、やっぱりあなたの存在はあまり噂されたくないと思ってるかもしれない」
「そうなんですね。それなのに、あなたは結婚してるって思ってるの?」
「結婚してるって聞きましたから」
「湊くんがそう言ったの? だったら仲がいいのね」

 青年はちょっと皮肉げに笑って首を振る。

「俺は湊先輩から聞いたりしてないですよ」
「じゃあ、誰から?」
「妹です」
「妹さん?」

 妹さんが湊くんとどういうつながりがあるのだろうと不思議に思って首を傾げると、青年は鞄を探って名刺入れを取り出した。

「良かった。名刺を持ち歩いてて」
「あ、今日はお休みですよね。私も考えなしに名刺が欲しいだなんて言ってごめんなさい」
「いや、名刺は俺が嘘を言ってない証拠になるかなと思っただけで。俺、山口朔って言います」

 そう言って、青年は名刺を差し出す。

「山口……、朔さん?」

 名刺を受け取りながら、青年を見上げる。

「あ、純ちゃんの……」
「妹がお世話になってます。上條沙耶さんのことはよく伺っています」
「純ちゃんの双子のお兄さん……っ」
「ええ、そうです」
「本当に? 全然似てないですね。でも本当に……?お会いできて光栄だわ」

 両手を合わせて身体を弾ませた私を見て、朔くんはおかしそうに、そして優しく微笑んだ。
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