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寝室までの距離
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「湊くん、ごめんね」
沙耶は思ったより早く戻ってきた。先程より顔色も良い。
彼女は恥じるような笑みを浮かべて俺の隣に座り、目の前にある指輪に目を向けた。
「決まったの?」
「ああ。気分はいいのか?」
「うん。さっきね、そこで……」
沙耶の指差す店の外へ目を向けようとした時、店員が見積もりを持って現れた。沙耶もすぐにそれに気づいて話をやめた。
俺は外へ目を向けてから、店員の説明に耳を傾けた。
外はデパートの買い物袋を持ったカップルや家族連れで溢れている。沙耶はそこで何を見たのだろう。彼女が明るい笑顔で戻ってきた理由に皆目見当がつかない。
「湊くん、楽しみだね。本当にありがとう」
説明を聞きながらも、俺はなんとなく上の空だった。沙耶の嬉しそうな笑顔に見つめられて、彼女も満足する買い物が出来たことを知る。
「フルオーダーにするか悩んだが、早く欲しいだろうと思ってやめたんだ」
「二週間前で出来るんだね」
「ああ、君が気に入るといいな」
「うん、楽しみにしてるね」
店員が会計を済ませている間、俺はまた外へ目を向けた。
「さっきそこで、なんだって?」
「あ、さっきね、朔くんに会ったの。お話したら、とっても優しい人だったよ」
「朔?」
思いも寄らない名前を耳にして、眉をひそめた。
「うん、純ちゃんのお兄さんだよ。でも同い年なんだよね。なんだか変な感じ」
「へえー、朔は君になんて?」
頬杖をつく俺に、沙耶は笑顔で言う。
「挨拶しただけだよ。でもね、本当に優しくて。純ちゃんと仲良く出来るなら、朔くんとも仲良くなれるかな」
「仲良く? やつと?」
鼻で笑うと、沙耶の笑顔がスッと消える。
「男と仲良くするって、どういう意味かわかってるのか? 予想外に君は心移りしやすい女性なのかな」
「違う、違うよ。朔くんとそんなことないよ」
否定する沙耶の表情はまたたく間に曇っていく。朔が彼女の笑顔を取り戻したのだとしたら余計に腹立たしく。
「朔は君には合わないよ。もちろん、友人としてもね。たまたまうちの会社に合格しただけの凡人さ。そんなものは仕事の仕方を見てればわかる」
「朔くんのことはよくわからないけど、でも本当に」
「人が良いだけの男が君にどんな幸せをもたらす? どうせ大したことは出来ないんだ。せいぜい君の話を聞いて、同情するだけだろ」
「話を聞いてくれるだけでも十分だよ……。お友だちはそういうものだよ」
「朔とは友達にはなれないよ」
「なんで? なんでそんなこと言うの?」
「なんで君がわからないのか不思議だね」
朔は明らかに沙耶に好意を持っている。その気持ちがある以上、友情が育まれることはないのだ。
「湊くんは朔くんが嫌いだって言ったけど、湊くんが嫌いな人だからってことだけで、私は理由もなく嫌いにならないよ」
「勝手にすればいい。ただ君はもう朔に会うことはないよ」
「どうして?」
「沙耶に会うなと朔に言うからさ」
「そんな……」
「言っただろ? 彼は君の人生に関わる男じゃない。出会うだけ無駄だ」
吐き捨てるように言うと、沙耶は反抗的な目をした。しかし、反論も無駄だと思ったのか、口を閉ざした。
「俺は君のためを思って、朔には関わるなと言ってるんだ。それだけは覚えておけよ」
沙耶は何も言わないが、理解できないといった表情で俺から目をそらした。
沙耶はあまりにも無防備で純粋だ。彼女を利用しようと近づく者たちがいるなんて気づきもしないのだろう。
しかし、一番厄介なのは彼女に害をなす、そういった者たちではない。
純粋に沙耶を愛する男の好意を、彼女が友情として認識し、その好意を素直に受け入れることだ。
朔と純は沙耶に同じように好意的だが、二人は性別という点において決定的に違う。男にあって女にはない壁でも、男であれば簡単にその壁は乗り越えられる。
朔が沙耶を騙すなんてことはないだろう。しかし、だからこそ脅威だ。純粋な愛情は、時に朔に信じられない衝動を駆り立てるだろう。
いや、朔だけじゃない。彼女の周りにはそういった男たちが何人もいる。そんな男たちが現れるたびに、俺たちはこうやってもめなければならないのか。
沙耶を守りたい。
その一心は、彼女にとってただの嫌がらせでしかないのか。
「とにかく、朔とはあまり親しくするな」
「会えばお話ぐらいはするよ」
「好んで会うなと言ってる」
「湊くんがなんで朔くんを嫌うのかわからないけど、湊くんが言うならそうする」
「わかればいいんだ」
ホッと胸を撫で下ろす俺を見ないまま、沙耶はうつむいていた。
彼女の浮かない表情は、ただ拗ねているだけだと俺は思った。
マンションに戻ってからの沙耶は、まるで家政婦のように食事の支度や掃除は欠かさずしたが、口数は少なく、用事がなければ自分の寝室に閉じこもっていた。
何日かすれば、いつもの笑顔が可愛らしい沙耶に戻ると、案気にしていた。
仕事も始まり、俺も彼女も残業が増え、すれ違いの生活を送ることが多くなった。それでも忙しさにかまけて、沙耶の笑顔が減ったことに気づきもしなかった。
朔の話題が食卓にあがることはなくなり、平穏な日々に戻ったかに見えたある日、沙耶からメールが届いた。
今日は純ちゃんと夜ごはん食べてから帰るね。
今日は残業もなく、明日は休みということもあり、久しぶりに彼女とゆっくり話が出来ると思っていただけに、内心がっかりした。しかし、彼女に無理に帰ってくるようにとは言わなかった。
迎えが必要なら連絡するようにとメールはしたが、すぐに大丈夫だと返事があった。
彼女は俺を自分のために動かすことを嫌う。甘えてくれればいいのだと思うが、変なところで頑固な彼女の性格でもあるのだろう。そんな性格も俺は受け入れていかなければならない。
ただ不思議と、彼女の性格を面倒だとは思わなかった。沙耶の笑顔が見れれば、俺は一日の疲れを忘れられる。
話なら明日すればいい。明日という一日は、当たり前のように毎日続いていくのだと疑いもしていなかったのだから。
「湊くん、ごめんね」
沙耶は思ったより早く戻ってきた。先程より顔色も良い。
彼女は恥じるような笑みを浮かべて俺の隣に座り、目の前にある指輪に目を向けた。
「決まったの?」
「ああ。気分はいいのか?」
「うん。さっきね、そこで……」
沙耶の指差す店の外へ目を向けようとした時、店員が見積もりを持って現れた。沙耶もすぐにそれに気づいて話をやめた。
俺は外へ目を向けてから、店員の説明に耳を傾けた。
外はデパートの買い物袋を持ったカップルや家族連れで溢れている。沙耶はそこで何を見たのだろう。彼女が明るい笑顔で戻ってきた理由に皆目見当がつかない。
「湊くん、楽しみだね。本当にありがとう」
説明を聞きながらも、俺はなんとなく上の空だった。沙耶の嬉しそうな笑顔に見つめられて、彼女も満足する買い物が出来たことを知る。
「フルオーダーにするか悩んだが、早く欲しいだろうと思ってやめたんだ」
「二週間前で出来るんだね」
「ああ、君が気に入るといいな」
「うん、楽しみにしてるね」
店員が会計を済ませている間、俺はまた外へ目を向けた。
「さっきそこで、なんだって?」
「あ、さっきね、朔くんに会ったの。お話したら、とっても優しい人だったよ」
「朔?」
思いも寄らない名前を耳にして、眉をひそめた。
「うん、純ちゃんのお兄さんだよ。でも同い年なんだよね。なんだか変な感じ」
「へえー、朔は君になんて?」
頬杖をつく俺に、沙耶は笑顔で言う。
「挨拶しただけだよ。でもね、本当に優しくて。純ちゃんと仲良く出来るなら、朔くんとも仲良くなれるかな」
「仲良く? やつと?」
鼻で笑うと、沙耶の笑顔がスッと消える。
「男と仲良くするって、どういう意味かわかってるのか? 予想外に君は心移りしやすい女性なのかな」
「違う、違うよ。朔くんとそんなことないよ」
否定する沙耶の表情はまたたく間に曇っていく。朔が彼女の笑顔を取り戻したのだとしたら余計に腹立たしく。
「朔は君には合わないよ。もちろん、友人としてもね。たまたまうちの会社に合格しただけの凡人さ。そんなものは仕事の仕方を見てればわかる」
「朔くんのことはよくわからないけど、でも本当に」
「人が良いだけの男が君にどんな幸せをもたらす? どうせ大したことは出来ないんだ。せいぜい君の話を聞いて、同情するだけだろ」
「話を聞いてくれるだけでも十分だよ……。お友だちはそういうものだよ」
「朔とは友達にはなれないよ」
「なんで? なんでそんなこと言うの?」
「なんで君がわからないのか不思議だね」
朔は明らかに沙耶に好意を持っている。その気持ちがある以上、友情が育まれることはないのだ。
「湊くんは朔くんが嫌いだって言ったけど、湊くんが嫌いな人だからってことだけで、私は理由もなく嫌いにならないよ」
「勝手にすればいい。ただ君はもう朔に会うことはないよ」
「どうして?」
「沙耶に会うなと朔に言うからさ」
「そんな……」
「言っただろ? 彼は君の人生に関わる男じゃない。出会うだけ無駄だ」
吐き捨てるように言うと、沙耶は反抗的な目をした。しかし、反論も無駄だと思ったのか、口を閉ざした。
「俺は君のためを思って、朔には関わるなと言ってるんだ。それだけは覚えておけよ」
沙耶は何も言わないが、理解できないといった表情で俺から目をそらした。
沙耶はあまりにも無防備で純粋だ。彼女を利用しようと近づく者たちがいるなんて気づきもしないのだろう。
しかし、一番厄介なのは彼女に害をなす、そういった者たちではない。
純粋に沙耶を愛する男の好意を、彼女が友情として認識し、その好意を素直に受け入れることだ。
朔と純は沙耶に同じように好意的だが、二人は性別という点において決定的に違う。男にあって女にはない壁でも、男であれば簡単にその壁は乗り越えられる。
朔が沙耶を騙すなんてことはないだろう。しかし、だからこそ脅威だ。純粋な愛情は、時に朔に信じられない衝動を駆り立てるだろう。
いや、朔だけじゃない。彼女の周りにはそういった男たちが何人もいる。そんな男たちが現れるたびに、俺たちはこうやってもめなければならないのか。
沙耶を守りたい。
その一心は、彼女にとってただの嫌がらせでしかないのか。
「とにかく、朔とはあまり親しくするな」
「会えばお話ぐらいはするよ」
「好んで会うなと言ってる」
「湊くんがなんで朔くんを嫌うのかわからないけど、湊くんが言うならそうする」
「わかればいいんだ」
ホッと胸を撫で下ろす俺を見ないまま、沙耶はうつむいていた。
彼女の浮かない表情は、ただ拗ねているだけだと俺は思った。
マンションに戻ってからの沙耶は、まるで家政婦のように食事の支度や掃除は欠かさずしたが、口数は少なく、用事がなければ自分の寝室に閉じこもっていた。
何日かすれば、いつもの笑顔が可愛らしい沙耶に戻ると、案気にしていた。
仕事も始まり、俺も彼女も残業が増え、すれ違いの生活を送ることが多くなった。それでも忙しさにかまけて、沙耶の笑顔が減ったことに気づきもしなかった。
朔の話題が食卓にあがることはなくなり、平穏な日々に戻ったかに見えたある日、沙耶からメールが届いた。
今日は純ちゃんと夜ごはん食べてから帰るね。
今日は残業もなく、明日は休みということもあり、久しぶりに彼女とゆっくり話が出来ると思っていただけに、内心がっかりした。しかし、彼女に無理に帰ってくるようにとは言わなかった。
迎えが必要なら連絡するようにとメールはしたが、すぐに大丈夫だと返事があった。
彼女は俺を自分のために動かすことを嫌う。甘えてくれればいいのだと思うが、変なところで頑固な彼女の性格でもあるのだろう。そんな性格も俺は受け入れていかなければならない。
ただ不思議と、彼女の性格を面倒だとは思わなかった。沙耶の笑顔が見れれば、俺は一日の疲れを忘れられる。
話なら明日すればいい。明日という一日は、当たり前のように毎日続いていくのだと疑いもしていなかったのだから。
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