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別離までの距離
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膝の上に置かれた風呂敷がずっしりと重く感じるのは、私の中にある抵抗感から来るものだろうか。
中には、着物が入っている。湊くんのお母さんが大切なものだと言って私にくださったもの。それを秀人さんは処分するという。
私は風呂敷に両手を添えて、ソファーに座っていた。ここは秀人さんが私室のように使っているホテルの一室。秀人さんは先ほどから電話をしていて、私は聞き耳を立てることもなく佇んでいた。
「沙耶ちゃんは物分かりがいい」
いつの間にか電話は終わっていたようだ。不意に伸びてきた腕が風呂敷を取り上げる。
「あ……っ」
驚いて手を伸ばしてしまう私が未練たらしく見えたのか、秀人さんはうっとうしそうに眉をしかめた。しかし、風呂敷の中身を確認すると、すぐに満足そうにうなずいた。
「もともと沙耶ちゃんがもらう筋合いなどないものだよ。これが処分されたからといって君が心を傷めることはないんだから、そんな悲しい顔をすることはない」
「でも、お母さんはとても大切なものだからと」
「それは知ってる。だから処分するんだよ。このことは父さんと山口朔しか知らないことだ。沙耶ちゃんももう忘れたらいい」
「このことを知ったら、お母さんは悲しみます……」
「きっと理解するさ。沙耶ちゃんに託そうと思った時点で、この着物がどうなろうと、母さんは覚悟しているだろう」
畳紙に包まれた着物にスッと指を走らせた秀人さんは、「こんなもの……」と、小さくつぶやく。
私には理解できないような感情を背負った着物なのだろうか。それを私に託そうとしたお母さんの気持ちを思うと胸は塞ぐが、私にはどうしようもないこと。諦めるしかないのだ。
お母さんにいくら恨まれても、それを受け止める覚悟をしなければならないのだろう。
しかし、それほどの思いがある着物を処分するという事実を知った彼のことが気になる。
「……朔くんも、大丈夫でしょうか」
私はおそるおそる尋ねた。
「沙耶ちゃんは優しいね。湊が嫉妬するよ」
秀人さんは愉快げに肩を揺らし、ごまかす。
「だって、本当に朔くんはただのお友達だから、迷惑かけられないんです」
「わかってるよ。彼のことは調査済みさ。一般的な家庭に育ったようだが、沙耶ちゃんが付き合うには問題のない青年のようだ。大事にするといい。いつか沙耶ちゃんの支えになる」
「朔くんとはお友達です、ずっと」
「そこまで介入しないさ。ただ沙耶ちゃんが湊以外に気を許す青年なんて、これから先もずっと彼以外に現れないんじゃないのかな。将来を考えたら、山口朔は君にとって大切な存在になると俺は思うよ」
「……私は、湊くんの側にいたいです」
秀人さんの声は穏やかだけれど、私と湊くんの未来はないのだと言われているみたいで悲しくなる。
結婚していなかった事実はショックだった。私が湊くんの側にいられるのは、結婚している事実があったからだ。
湊くんが私に愛想を尽かすことがあるなら、私たちの関係はすぐに終わらせることができる。それはきっと離婚するよりも、簡単なことだろう。
「前は湊を好きじゃなかっただろう? 今ならまだ引き返せるんじゃないか?」
「もう引き返せません。だから私……、覚悟を決めたんです」
「覚悟? 沙耶ちゃんは大げさに考えすぎてるよ。湊も遊びなんだから、沙耶ちゃんも気楽に付き合えばいい」
「遊び……?」
顔を上げた私の表情はみじめなものだろう。湊くんの気持ちを見失いそうだ。
一緒に暮らす前、不本意な結婚だと湊くんは言った。それは結婚するつもりなどなかったからだろうか。でも、今は違うはずだ。私と結婚できて幸せだと言ってくれた。
「湊が沙耶ちゃんに固執してる理由、わかるかい?」
「それは……」
わからない。素直に思う。湊くんには私じゃなくて、もっと素敵な女性が似合うと思うから。
秀人さんは私の向かい側に腰を下ろすと、長い足を組み、ソファーの背に横柄にもたれた。
「沙耶ちゃんは湊をふっただろう? だからだよ。プライドを傷つけた女にふられたままでは、湊の気もおさまらなかったんだろう」
無言になる私に、秀人さんは図星だろうとばかりに薄く笑う。
「心当たりがあるだろう? 湊は傷ついて、相当腹を立てていたよ。君が陥落したなら、湊にとってはもう必要のない存在になったんじゃないのかな」
「だから湊くんは私を捨てるって言うの……?」
「湊は女と長く付き合える男じゃないよ。実際、彼女が出来ても一年ともった試しなんてない。ある日突然、出て行けと言われるのが関の山さ。だから、沙耶ちゃんも適当に遊んでやればいいのさ」
「そんなこと……」
「結婚してると思ってたから、真剣に湊のことを考えたんだろう? そうじゃなければ、今でも沙耶ちゃんは湊を拒んでたはずだ。何も深く考えることはないんだよ」
「今は湊くんのこと、真剣に考えてます……」
涙がこぼれそうでうつむく。秀人さんの言う通り、結婚したからこそ湊くんに前向きになったのだ。だからといって、今はもうそんな風には割り切れない気持ちがある。
「無駄だよ」
「無駄でも……」
「無駄だと言ったのは、そういう意味じゃない」
「え……」
顔をあげると、秀人さんは組んでいた足をほどき、ゆっくりと立ち上がる。
「沙耶ちゃんは残念なぐらいいい子だ。たとえ湊が君に飽きる日が来なくても、父さんは君たちの結婚を許したりはしない。真剣になるだけ無駄なんだよ」
そう言うと、胸ポケットを探り、手帳のようなものを取り出す。
「だったらどうして結婚したなんて嘘を? 湊くんの気持ちをいさめるためだけなら、こんなことしなくたって……」
「湊だけじゃなくてさ、もう一人、納得させなきゃいけない人がいるからだよ」
秀人さんは私の言葉を遮り、手帳にはさまれていた一枚の写真を、私の前へそっと置いた。
「これは……」
膝の上に置かれた風呂敷がずっしりと重く感じるのは、私の中にある抵抗感から来るものだろうか。
中には、着物が入っている。湊くんのお母さんが大切なものだと言って私にくださったもの。それを秀人さんは処分するという。
私は風呂敷に両手を添えて、ソファーに座っていた。ここは秀人さんが私室のように使っているホテルの一室。秀人さんは先ほどから電話をしていて、私は聞き耳を立てることもなく佇んでいた。
「沙耶ちゃんは物分かりがいい」
いつの間にか電話は終わっていたようだ。不意に伸びてきた腕が風呂敷を取り上げる。
「あ……っ」
驚いて手を伸ばしてしまう私が未練たらしく見えたのか、秀人さんはうっとうしそうに眉をしかめた。しかし、風呂敷の中身を確認すると、すぐに満足そうにうなずいた。
「もともと沙耶ちゃんがもらう筋合いなどないものだよ。これが処分されたからといって君が心を傷めることはないんだから、そんな悲しい顔をすることはない」
「でも、お母さんはとても大切なものだからと」
「それは知ってる。だから処分するんだよ。このことは父さんと山口朔しか知らないことだ。沙耶ちゃんももう忘れたらいい」
「このことを知ったら、お母さんは悲しみます……」
「きっと理解するさ。沙耶ちゃんに託そうと思った時点で、この着物がどうなろうと、母さんは覚悟しているだろう」
畳紙に包まれた着物にスッと指を走らせた秀人さんは、「こんなもの……」と、小さくつぶやく。
私には理解できないような感情を背負った着物なのだろうか。それを私に託そうとしたお母さんの気持ちを思うと胸は塞ぐが、私にはどうしようもないこと。諦めるしかないのだ。
お母さんにいくら恨まれても、それを受け止める覚悟をしなければならないのだろう。
しかし、それほどの思いがある着物を処分するという事実を知った彼のことが気になる。
「……朔くんも、大丈夫でしょうか」
私はおそるおそる尋ねた。
「沙耶ちゃんは優しいね。湊が嫉妬するよ」
秀人さんは愉快げに肩を揺らし、ごまかす。
「だって、本当に朔くんはただのお友達だから、迷惑かけられないんです」
「わかってるよ。彼のことは調査済みさ。一般的な家庭に育ったようだが、沙耶ちゃんが付き合うには問題のない青年のようだ。大事にするといい。いつか沙耶ちゃんの支えになる」
「朔くんとはお友達です、ずっと」
「そこまで介入しないさ。ただ沙耶ちゃんが湊以外に気を許す青年なんて、これから先もずっと彼以外に現れないんじゃないのかな。将来を考えたら、山口朔は君にとって大切な存在になると俺は思うよ」
「……私は、湊くんの側にいたいです」
秀人さんの声は穏やかだけれど、私と湊くんの未来はないのだと言われているみたいで悲しくなる。
結婚していなかった事実はショックだった。私が湊くんの側にいられるのは、結婚している事実があったからだ。
湊くんが私に愛想を尽かすことがあるなら、私たちの関係はすぐに終わらせることができる。それはきっと離婚するよりも、簡単なことだろう。
「前は湊を好きじゃなかっただろう? 今ならまだ引き返せるんじゃないか?」
「もう引き返せません。だから私……、覚悟を決めたんです」
「覚悟? 沙耶ちゃんは大げさに考えすぎてるよ。湊も遊びなんだから、沙耶ちゃんも気楽に付き合えばいい」
「遊び……?」
顔を上げた私の表情はみじめなものだろう。湊くんの気持ちを見失いそうだ。
一緒に暮らす前、不本意な結婚だと湊くんは言った。それは結婚するつもりなどなかったからだろうか。でも、今は違うはずだ。私と結婚できて幸せだと言ってくれた。
「湊が沙耶ちゃんに固執してる理由、わかるかい?」
「それは……」
わからない。素直に思う。湊くんには私じゃなくて、もっと素敵な女性が似合うと思うから。
秀人さんは私の向かい側に腰を下ろすと、長い足を組み、ソファーの背に横柄にもたれた。
「沙耶ちゃんは湊をふっただろう? だからだよ。プライドを傷つけた女にふられたままでは、湊の気もおさまらなかったんだろう」
無言になる私に、秀人さんは図星だろうとばかりに薄く笑う。
「心当たりがあるだろう? 湊は傷ついて、相当腹を立てていたよ。君が陥落したなら、湊にとってはもう必要のない存在になったんじゃないのかな」
「だから湊くんは私を捨てるって言うの……?」
「湊は女と長く付き合える男じゃないよ。実際、彼女が出来ても一年ともった試しなんてない。ある日突然、出て行けと言われるのが関の山さ。だから、沙耶ちゃんも適当に遊んでやればいいのさ」
「そんなこと……」
「結婚してると思ってたから、真剣に湊のことを考えたんだろう? そうじゃなければ、今でも沙耶ちゃんは湊を拒んでたはずだ。何も深く考えることはないんだよ」
「今は湊くんのこと、真剣に考えてます……」
涙がこぼれそうでうつむく。秀人さんの言う通り、結婚したからこそ湊くんに前向きになったのだ。だからといって、今はもうそんな風には割り切れない気持ちがある。
「無駄だよ」
「無駄でも……」
「無駄だと言ったのは、そういう意味じゃない」
「え……」
顔をあげると、秀人さんは組んでいた足をほどき、ゆっくりと立ち上がる。
「沙耶ちゃんは残念なぐらいいい子だ。たとえ湊が君に飽きる日が来なくても、父さんは君たちの結婚を許したりはしない。真剣になるだけ無駄なんだよ」
そう言うと、胸ポケットを探り、手帳のようなものを取り出す。
「だったらどうして結婚したなんて嘘を? 湊くんの気持ちをいさめるためだけなら、こんなことしなくたって……」
「湊だけじゃなくてさ、もう一人、納得させなきゃいけない人がいるからだよ」
秀人さんは私の言葉を遮り、手帳にはさまれていた一枚の写真を、私の前へそっと置いた。
「これは……」
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