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別離までの距離
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「ただいまー」
リビングに入ると、テレビを見ながらコーヒーを飲んでいた湊くんが、振り返って笑顔を見せた。しかし彼は、私の全身を眺めるとすぐに眉をひそめた。
「着物は?」
湊くんが気にするなんて思ってなくて、ちょっと動転したが、笑顔でごまかす。
「秀人さんが少し貸して欲しいって。すぐに返してくれるから大丈夫だよ」
「ふぅん。まあいいけどさ、秀人にひどいこと言われなかったか?」
「ひどいことなんてないよ。湊くんは誤解してるよ、秀人さんのこと」
「誤解ね。沙耶は純粋だから、善悪の区別がつかないんだよ」
「それより湊くん、お腹空いてない? 時間も時間だから、デパートでお弁当買ってきたの」
デパートのロゴの入った紙袋を持ち上げてみせて、リビングテーブルに置く。湊くんはすぐに側へやってきた。
「レストランに出かけても良かったのに」
「うん……。でも、ここにいたかったの」
「そうか。秀人に会ったんじゃ疲れるよな。まあ、昨日もあれだったしな」
「あれ……?」
首を傾げて湊くんを見上げると、彼はにやりと笑う。
「結構手加減したんだけどね、あんまり君が可愛いからやめれなかったんだ」
「あ……」
昨夜の記憶が鮮明によみがえってきて、頬に両手をあてる。両手では隠せないぐらい赤いだろう。今思えば、ずいぶんと大胆なお願いをしたものだ。
湊くんは私の身体に両腕を回し、耳元で囁く。
「今夜もいい?」
「湊くん……、あの……今夜は……」
戸惑う私を楽しむように、湊くんはくすりと笑う。
「違うよ。今夜も俺のベッドで寝る? って聞いたんだ。沙耶が横にいてくれるだけで安らぐよ」
「あ……、うん」
「やけに素直だね。だったらもう寝室は別々じゃなくていいね」
「でも、湊くんがお仕事で遅くなる時は別の方がいいだろうし」
「君は余計な心配ばかりするね。そういう時こそ、君に会いたいのにね」
湊くんは私の手を引く。ソファーに並んで腰かける。私の身体を優しく抱きしめてくれる彼との別れなんて、到底考えられない。
彼の胸に頬を寄せて目を閉じると、「疲れてるね」とそっと髪を撫でられた。
「湊くんとずっと一緒にいたい……」
たとえお父さんの許しが得られなくても、湊くんと別れないでいられる方法があるならと思う。
「ずっと一緒だよ」
私の指に触れる彼の指にも、お揃いのリングがはまる。私たちが恋人同士であるという唯一の証のようだ。
指から離れた手は私の頬を撫でる。「沙耶……」と、名前を呼ばれて顔をあげれば、優しく唇が合わさった。
湊くんが好きだ……という思いが彼を求めたように伝わったのか、ただ優しく重なっただけの唇は次第に深くなる。
こんな風に口づけを交わす相手は湊くんだけ。身体を許す相手も、何もかも。
「湊くん……」
「ん?」
「昨日ね」
朔くんと食事をしたことはきっと湊くんの耳に入るのだろう。誤解されてしまう前に、やはり私の口から話すべきだと思った。
「昨日?」
「たまたま朔くんに会ったの」
「朔?」
湊くんの眉が不穏にひそめられる。
「これからも朔くんには会うと思うの」
「会うなと言ったが?」
「昨日は偶然に会っただけだし、朔くんとはお友だちで、湊くんとは違うってわかってるよ」
「朔が何か言ったか?」
「朔くんは何も言わないよ。もし、もしもね、私たちが食事をしたって聞いても、湊くんが心配するようなことは何もないよ」
「昨日は朔と食事したのか……」
怒りより失望が湊くんの顔色を曇らせたのか。彼はため息を落とす。
「君は何もわかってないね」
「湊くん……」
「事実がどうであろうと、疑われることをしたらいけない。誤解されるのは簡単だが、誤解を解くのは難しいんだ」
「湊くんがわかってくれたら、それでいいの」
「それでは済まされないこともあるんだよ。朔は友だちじゃない、ただの私欲ある男だ」
どうしてそんな言い方ばかりするのだろう。
「朔くんは優しいよ」
「だから? 優しさは信用に値するか?」
「何か誤解してるのは、湊くんだよ。私は朔くんとお友だちになりたいの。昨日のことは湊くんに嘘ついたみたいになって反省してるの。これからは朔くんに会うって湊くんにちゃんと報告するから……」
「俺に認めさせてどうする? 公然と浮気する女だとでも噂されたいのか」
湊くんは大げさだ。私はただ、友だちになりたいって思ってるだけなのに。
「違う……違うのに……。どうしてそんな風に考えるの?」
「君があまりに無防備だから心配してるだけだよ。朔は君と友だちになりたいなんて、これっぽっちも思ってないさ」
「そんなことないよ……」
「朔のことは諦めろ。友だちなら他に作ればいい」
「朔くんは話しやすくて……」
「朔に固執するな。君が痛い目に合う」
湊くんは私の話を聞こうとしないで、ぴしゃりと言う。
「朔くんは何も悪くないよ。でも、偶然に会った時ぐらいは楽しくお話したい」
「偶然偶然と言うが、偶然は必然的に作り出すことも出来るんだ。朔だけじゃない。これから先、偶然を装ってやってくる男には十分気をつけるんだな」
「私は朔くんに会うことがあっても誤解しないでって言ってるだけ」
他の男の人がどうだなんて話、してるわけじゃないのに。
「俺は朔に会うなと言ってるだけだ。君はそれと同じことを俺に要求してるんだよ」
「……理解してくれないんだね」
「何を理解しろって言うんだ」
湊くんは声を荒らげ、不機嫌に顔を背けた。しかし、不安を顔に浮かべる私に気付くと、すぐに態度を和らげだ。
「沙耶の気持ちはわかるよ。だけど、俺も不安なんだって気持ち、わかってくれよ」
そんな風に弱みを見せてくれる湊くんは、やっぱり今までとは違う。私たちはきっと前より近づいている。
分かり合えないことも時にはあるのかもしれないけれど、歩み寄る努力が出来るなら、私は湊くんを信じてついていける気がした。
「ねー、湊くん」
「ん?」
「湊くんはチョコとか好き?」
急に話を逸らした私を、彼は不思議そうに見つめる。
「チョコ?」
「来月バレンタインでしょ。いつもはね、純ちゃんと交換するんだけど、今年は手作りしようかなって思って」
「そうか。まあ、あんまり好きじゃないが、沙耶が作るなら食べたいな」
「湊くんは優しいね。じゃあ、ケーキ焼くね」
「沙耶の好きなように。君が楽しそうな笑顔を見せると、不思議と嬉しくなるね」
そう言うと、湊くんは目を細めて優しく笑った。
「ただいまー」
リビングに入ると、テレビを見ながらコーヒーを飲んでいた湊くんが、振り返って笑顔を見せた。しかし彼は、私の全身を眺めるとすぐに眉をひそめた。
「着物は?」
湊くんが気にするなんて思ってなくて、ちょっと動転したが、笑顔でごまかす。
「秀人さんが少し貸して欲しいって。すぐに返してくれるから大丈夫だよ」
「ふぅん。まあいいけどさ、秀人にひどいこと言われなかったか?」
「ひどいことなんてないよ。湊くんは誤解してるよ、秀人さんのこと」
「誤解ね。沙耶は純粋だから、善悪の区別がつかないんだよ」
「それより湊くん、お腹空いてない? 時間も時間だから、デパートでお弁当買ってきたの」
デパートのロゴの入った紙袋を持ち上げてみせて、リビングテーブルに置く。湊くんはすぐに側へやってきた。
「レストランに出かけても良かったのに」
「うん……。でも、ここにいたかったの」
「そうか。秀人に会ったんじゃ疲れるよな。まあ、昨日もあれだったしな」
「あれ……?」
首を傾げて湊くんを見上げると、彼はにやりと笑う。
「結構手加減したんだけどね、あんまり君が可愛いからやめれなかったんだ」
「あ……」
昨夜の記憶が鮮明によみがえってきて、頬に両手をあてる。両手では隠せないぐらい赤いだろう。今思えば、ずいぶんと大胆なお願いをしたものだ。
湊くんは私の身体に両腕を回し、耳元で囁く。
「今夜もいい?」
「湊くん……、あの……今夜は……」
戸惑う私を楽しむように、湊くんはくすりと笑う。
「違うよ。今夜も俺のベッドで寝る? って聞いたんだ。沙耶が横にいてくれるだけで安らぐよ」
「あ……、うん」
「やけに素直だね。だったらもう寝室は別々じゃなくていいね」
「でも、湊くんがお仕事で遅くなる時は別の方がいいだろうし」
「君は余計な心配ばかりするね。そういう時こそ、君に会いたいのにね」
湊くんは私の手を引く。ソファーに並んで腰かける。私の身体を優しく抱きしめてくれる彼との別れなんて、到底考えられない。
彼の胸に頬を寄せて目を閉じると、「疲れてるね」とそっと髪を撫でられた。
「湊くんとずっと一緒にいたい……」
たとえお父さんの許しが得られなくても、湊くんと別れないでいられる方法があるならと思う。
「ずっと一緒だよ」
私の指に触れる彼の指にも、お揃いのリングがはまる。私たちが恋人同士であるという唯一の証のようだ。
指から離れた手は私の頬を撫でる。「沙耶……」と、名前を呼ばれて顔をあげれば、優しく唇が合わさった。
湊くんが好きだ……という思いが彼を求めたように伝わったのか、ただ優しく重なっただけの唇は次第に深くなる。
こんな風に口づけを交わす相手は湊くんだけ。身体を許す相手も、何もかも。
「湊くん……」
「ん?」
「昨日ね」
朔くんと食事をしたことはきっと湊くんの耳に入るのだろう。誤解されてしまう前に、やはり私の口から話すべきだと思った。
「昨日?」
「たまたま朔くんに会ったの」
「朔?」
湊くんの眉が不穏にひそめられる。
「これからも朔くんには会うと思うの」
「会うなと言ったが?」
「昨日は偶然に会っただけだし、朔くんとはお友だちで、湊くんとは違うってわかってるよ」
「朔が何か言ったか?」
「朔くんは何も言わないよ。もし、もしもね、私たちが食事をしたって聞いても、湊くんが心配するようなことは何もないよ」
「昨日は朔と食事したのか……」
怒りより失望が湊くんの顔色を曇らせたのか。彼はため息を落とす。
「君は何もわかってないね」
「湊くん……」
「事実がどうであろうと、疑われることをしたらいけない。誤解されるのは簡単だが、誤解を解くのは難しいんだ」
「湊くんがわかってくれたら、それでいいの」
「それでは済まされないこともあるんだよ。朔は友だちじゃない、ただの私欲ある男だ」
どうしてそんな言い方ばかりするのだろう。
「朔くんは優しいよ」
「だから? 優しさは信用に値するか?」
「何か誤解してるのは、湊くんだよ。私は朔くんとお友だちになりたいの。昨日のことは湊くんに嘘ついたみたいになって反省してるの。これからは朔くんに会うって湊くんにちゃんと報告するから……」
「俺に認めさせてどうする? 公然と浮気する女だとでも噂されたいのか」
湊くんは大げさだ。私はただ、友だちになりたいって思ってるだけなのに。
「違う……違うのに……。どうしてそんな風に考えるの?」
「君があまりに無防備だから心配してるだけだよ。朔は君と友だちになりたいなんて、これっぽっちも思ってないさ」
「そんなことないよ……」
「朔のことは諦めろ。友だちなら他に作ればいい」
「朔くんは話しやすくて……」
「朔に固執するな。君が痛い目に合う」
湊くんは私の話を聞こうとしないで、ぴしゃりと言う。
「朔くんは何も悪くないよ。でも、偶然に会った時ぐらいは楽しくお話したい」
「偶然偶然と言うが、偶然は必然的に作り出すことも出来るんだ。朔だけじゃない。これから先、偶然を装ってやってくる男には十分気をつけるんだな」
「私は朔くんに会うことがあっても誤解しないでって言ってるだけ」
他の男の人がどうだなんて話、してるわけじゃないのに。
「俺は朔に会うなと言ってるだけだ。君はそれと同じことを俺に要求してるんだよ」
「……理解してくれないんだね」
「何を理解しろって言うんだ」
湊くんは声を荒らげ、不機嫌に顔を背けた。しかし、不安を顔に浮かべる私に気付くと、すぐに態度を和らげだ。
「沙耶の気持ちはわかるよ。だけど、俺も不安なんだって気持ち、わかってくれよ」
そんな風に弱みを見せてくれる湊くんは、やっぱり今までとは違う。私たちはきっと前より近づいている。
分かり合えないことも時にはあるのかもしれないけれど、歩み寄る努力が出来るなら、私は湊くんを信じてついていける気がした。
「ねー、湊くん」
「ん?」
「湊くんはチョコとか好き?」
急に話を逸らした私を、彼は不思議そうに見つめる。
「チョコ?」
「来月バレンタインでしょ。いつもはね、純ちゃんと交換するんだけど、今年は手作りしようかなって思って」
「そうか。まあ、あんまり好きじゃないが、沙耶が作るなら食べたいな」
「湊くんは優しいね。じゃあ、ケーキ焼くね」
「沙耶の好きなように。君が楽しそうな笑顔を見せると、不思議と嬉しくなるね」
そう言うと、湊くんは目を細めて優しく笑った。
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