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別離までの距離
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***
このところ、俺たちが一緒に暮らし始めて、初めてと言っていいぐらい平穏な日々が続いている。
キッチンに立ち、料理を作る彼女を見ていると、結婚したんだなと実感がわいてくることもある。
彼女のいない生活が、俺の中で考えられなくなっていた。
そんなある日のこと、俺は突然秀人に呼び出された。
突然と言っても心づもりはあったから、怪訝に思うこともなく、沙耶には帰りが遅くなるとだけ告げて、秀人の待つホテルのレストランへと向かった。
「久しぶりだな。正月以来か? その様子だと特に不便もなく生活してるようだな」
「おかげさまで」
殊勝な態度の俺に秀人は皮肉げに唇の端をあげて笑い、椅子に座るよう手で促した。
「家政婦程度に家に置いておくには十分すぎるぐらいの女かな、沙耶ちゃんは」
「だから?」
秀人は俺を不愉快にさせて楽しむだけだ。いちいち耳を傾けていては憎悪が増すだけ。楽しい食事を期待していたわけではないが、いきなりこんなことを言われては今日の食事の目的が思いやられる。
俺がため息をつきながら椅子に腰かけると、秀人はテーブルに肘をついて両手の指を絡み合わせた。
「いや、あるいは、それもありかなと思ったんだけどね」
「それ?」
含みのある言い方はやはりしゃくにさわる。
「思ったより湊が沙耶ちゃんに熱をあげてるからさ。ずっと側に置いておく方法を模索しなかったわけでもない」
俺の眉はぴくりと上がる。
「本当に楽しく食事しようなんてことだけで秀人が俺を呼び出すとも思ってないけどさ、沙耶と俺のことは放っておいてくれないか?」
「俺だって好きで関わってるわけじゃないさ。おまえが何も気づかないから……いや、予想外に沙耶ちゃんがおまえに何も話さないから、俺が解決策を考えてやったんだよ」
「は? 沙耶が俺に何を話してないって?」
俺は眉をひそめる。
沙耶の様子がおかしかったのはいつのことだっただろう。
いや、そもそもこんな形で始まった結婚だ。沙耶が心から結婚を受け入れてくれたのは、最近のことのようにも思う。
「俺は優しいから忠告したんだぜ。別れるなら早い方がお互いのためにもいいだろう? だからさ」
「沙耶に余計なこと言ったのか?」
「親切だよ、親切。沙耶ちゃんがおまえ以外の男と楽しげに食事してたからさ、湊じゃなくてもいいんだと確信したんだよ」
秀人は愉快げにそう話す。
「いつの話だよ」
「さあ、忘れたな。相手の男は山口朔だよ。おまえの後輩だったかな。飼い犬に手をかまれるとはこのことだな。いや、彼を可愛がってもいないか。山口朔はおまえを慕ってもいなさそうだったしな」
「……朔と食事」
そんなこともあった。沙耶はあの日、俺の寝室を自ら訪れたのだ。
あれほど拒んでいたのに、俺を求めてきた彼女の心境の変化に気づけなかったのは俺か?
しかし、あの日に沙耶は秀人に会っていたのか。なぜそれすら話してくれなかったのか。沙耶は俺を信用していないのだろうか。
そう思った気持ちが顔に出たのだろう。秀人は「まあ、そうだろうな」と薄笑いを浮かべ、ようやくワインに口をつけた。
「おまえたちは夫婦にはなれないってことだよ」
「信頼関係ならこれから築くよ。たやすいことさ」
「沙耶ちゃんはそれを望んでないんだろ? だからおまえに大事なことですら話さない。おまえが問い詰めれば話すだろうが、毎回それをするのか? 一生? 湊にそれが出来るとは思えないね」
「いつか悩みを話し合える関係になれるさ」
「それはどうかな。その猶予がないから忠告したのに、沙耶ちゃんは何も解決しようとしない。それが彼女の本当の気持ちなんじゃないか? 湊と一緒にいるのは仕方ないからだけだってさ」
そんなことは言われなくてもわかっていた。
沙耶と一緒にいられるなら、どんな形でもいい。彼女の気持ちなど関係ない。
そう思っていたのは俺だ。だから今更、彼女と愛し合いながら生きていく人生を歩めないからと嘆くことはない。
最初からわかり合うつもりなどなかったのだから、沙耶が一緒に暮らしてくれているだけで俺は満足しているはずで。
「欲深になるから苦しむんだよ。形にとらわれずとも一緒にいられる方法があるなら、賭けてみるか?」
「賭ける?」
何を賭ける必要がある?
俺たちはもう夫婦だ。引き裂くものは何もない。
「おまえは沙耶ちゃんが側にいてくれさえすればいいんだろう?」
「ああ……」
「だとしたら意外に簡単かもしれない。おまえは沙耶ちゃんを家政婦として雇っていればいい。婚姻関係に何もこだわる必要はないだろう? その代わり、契約書はきちんとしておくんだな。父さんが介入できないようにね」
ますます眉をひそめる俺の前に、秀人は胸ポケットから取り出した名刺を差し出す。
「優秀な弁護士だ。懇意にしていて悪いことはない」
「ちょっと待てよ」
秀人の手を払う。秀人は笑みを浮かべたまま、名刺をテーブルの上に置いた。
「素直じゃないのは良くないぜ」
「前提がおかしいだろ?」
「おかしいと思ってるおまえが馬鹿なんだよ」
「沙耶が認めるわけがない……いや、俺は納得しないし、俺たちはもう結婚してる。父さんがどうしようが離婚する気はない」
「そうだな、離婚は出来ないだろうな」
秀人はニヤッと笑う。
「だったら……」
「おまえが哀れだよ。沙耶ちゃんもむごいことをする。おまえの妻のふりをして、他の男にも色目を使い、自分だけ助かろうとしてるんだ。はやくそれに気づけよ、湊。おまえだけ地獄を見る必要なんてないだろ?」
「何を……」
何を言っているのか理解できない、なんてことはない。俺はもう気付き始めている。ただ理解したくないと思っているだけだ。
秀人の話に耳を傾けたらいけない。そう危険信号は鳴るのに、秀人の提案も悪くないと俺はきっと感じていた。
「婚姻届は出してないのか……?」
喉がカラカラで張り付きそうだ。乾く唇でようやく吐き出した言葉に、秀人はようやく気づいたかと、薄く笑う。
「父さんは結婚を認めない。沙耶ちゃんには真実を伝えたよ。今回のことは母さんに上條を諦めさせる手段でしかない。そしておまえにも」
「沙耶に飽きると思ってたか?」
「父さんには予想外かもな。本来なら今頃、沙耶ちゃんに飽きたおまえは家に帰ってきている予定だった」
「沙耶を……、沙耶を何年待ったと思う?」
「手を出そうと思えば、いくらでもチャンスはあったはずだ」
「一方的じゃ、意味がないって思ってたんだ」
「でも結果はそうなった」
そうだ。秀人の言う通りだ。
沙耶が俺をふったりしたから、契約だけでしかない結婚を強いることになった。しかし、その契約すら、嘘だった。
「……沙耶はどんな様子だった?」
「さあね。彼女の気持ちまで推し量るほどヒマじゃない。ただ、山口朔は内心喜んでいただろうな」
「朔か……」
「沙耶ちゃんが逃げ出す前に契約書を作れ。彼女はもう山口朔という逃げ場を用意してる。おまえと別れても、彼女は痛くもかゆくもないぜ」
沙耶は朔にすべて話しているのだろう。俺を欺く行為だと、彼女は気付いているか?
「父さんはいつ動く?」
「最近客の出入りが激しい。おまえの見合い相手を選別してるのかもな」
「もう動いてるのか……」
「父さんの鼻を明かしたければ、すぐに弁護士に連絡を取れ」
「そんなこと言って、俺の動きは秀人を介して父さんに筒抜けだろ?」
今は誰を信じたらいい?
考えろ、と頭をフル回転させる。
「信用がないな、俺は。まあ、筒抜けになる前に動くことだ」
「じゃあ今、ここに弁護士を呼んで契約書を作る。もちろん、弁護士は自分で選ぶ」
「少しは賢くなったな。それじゃあ俺は、ゆっくりと食事をさせてもらうよ」
フォークを持ち上げる秀人の前で、すぐに俺はスマホから電話をかけ始めた。
このところ、俺たちが一緒に暮らし始めて、初めてと言っていいぐらい平穏な日々が続いている。
キッチンに立ち、料理を作る彼女を見ていると、結婚したんだなと実感がわいてくることもある。
彼女のいない生活が、俺の中で考えられなくなっていた。
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突然と言っても心づもりはあったから、怪訝に思うこともなく、沙耶には帰りが遅くなるとだけ告げて、秀人の待つホテルのレストランへと向かった。
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殊勝な態度の俺に秀人は皮肉げに唇の端をあげて笑い、椅子に座るよう手で促した。
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「だから?」
秀人は俺を不愉快にさせて楽しむだけだ。いちいち耳を傾けていては憎悪が増すだけ。楽しい食事を期待していたわけではないが、いきなりこんなことを言われては今日の食事の目的が思いやられる。
俺がため息をつきながら椅子に腰かけると、秀人はテーブルに肘をついて両手の指を絡み合わせた。
「いや、あるいは、それもありかなと思ったんだけどね」
「それ?」
含みのある言い方はやはりしゃくにさわる。
「思ったより湊が沙耶ちゃんに熱をあげてるからさ。ずっと側に置いておく方法を模索しなかったわけでもない」
俺の眉はぴくりと上がる。
「本当に楽しく食事しようなんてことだけで秀人が俺を呼び出すとも思ってないけどさ、沙耶と俺のことは放っておいてくれないか?」
「俺だって好きで関わってるわけじゃないさ。おまえが何も気づかないから……いや、予想外に沙耶ちゃんがおまえに何も話さないから、俺が解決策を考えてやったんだよ」
「は? 沙耶が俺に何を話してないって?」
俺は眉をひそめる。
沙耶の様子がおかしかったのはいつのことだっただろう。
いや、そもそもこんな形で始まった結婚だ。沙耶が心から結婚を受け入れてくれたのは、最近のことのようにも思う。
「俺は優しいから忠告したんだぜ。別れるなら早い方がお互いのためにもいいだろう? だからさ」
「沙耶に余計なこと言ったのか?」
「親切だよ、親切。沙耶ちゃんがおまえ以外の男と楽しげに食事してたからさ、湊じゃなくてもいいんだと確信したんだよ」
秀人は愉快げにそう話す。
「いつの話だよ」
「さあ、忘れたな。相手の男は山口朔だよ。おまえの後輩だったかな。飼い犬に手をかまれるとはこのことだな。いや、彼を可愛がってもいないか。山口朔はおまえを慕ってもいなさそうだったしな」
「……朔と食事」
そんなこともあった。沙耶はあの日、俺の寝室を自ら訪れたのだ。
あれほど拒んでいたのに、俺を求めてきた彼女の心境の変化に気づけなかったのは俺か?
しかし、あの日に沙耶は秀人に会っていたのか。なぜそれすら話してくれなかったのか。沙耶は俺を信用していないのだろうか。
そう思った気持ちが顔に出たのだろう。秀人は「まあ、そうだろうな」と薄笑いを浮かべ、ようやくワインに口をつけた。
「おまえたちは夫婦にはなれないってことだよ」
「信頼関係ならこれから築くよ。たやすいことさ」
「沙耶ちゃんはそれを望んでないんだろ? だからおまえに大事なことですら話さない。おまえが問い詰めれば話すだろうが、毎回それをするのか? 一生? 湊にそれが出来るとは思えないね」
「いつか悩みを話し合える関係になれるさ」
「それはどうかな。その猶予がないから忠告したのに、沙耶ちゃんは何も解決しようとしない。それが彼女の本当の気持ちなんじゃないか? 湊と一緒にいるのは仕方ないからだけだってさ」
そんなことは言われなくてもわかっていた。
沙耶と一緒にいられるなら、どんな形でもいい。彼女の気持ちなど関係ない。
そう思っていたのは俺だ。だから今更、彼女と愛し合いながら生きていく人生を歩めないからと嘆くことはない。
最初からわかり合うつもりなどなかったのだから、沙耶が一緒に暮らしてくれているだけで俺は満足しているはずで。
「欲深になるから苦しむんだよ。形にとらわれずとも一緒にいられる方法があるなら、賭けてみるか?」
「賭ける?」
何を賭ける必要がある?
俺たちはもう夫婦だ。引き裂くものは何もない。
「おまえは沙耶ちゃんが側にいてくれさえすればいいんだろう?」
「ああ……」
「だとしたら意外に簡単かもしれない。おまえは沙耶ちゃんを家政婦として雇っていればいい。婚姻関係に何もこだわる必要はないだろう? その代わり、契約書はきちんとしておくんだな。父さんが介入できないようにね」
ますます眉をひそめる俺の前に、秀人は胸ポケットから取り出した名刺を差し出す。
「優秀な弁護士だ。懇意にしていて悪いことはない」
「ちょっと待てよ」
秀人の手を払う。秀人は笑みを浮かべたまま、名刺をテーブルの上に置いた。
「素直じゃないのは良くないぜ」
「前提がおかしいだろ?」
「おかしいと思ってるおまえが馬鹿なんだよ」
「沙耶が認めるわけがない……いや、俺は納得しないし、俺たちはもう結婚してる。父さんがどうしようが離婚する気はない」
「そうだな、離婚は出来ないだろうな」
秀人はニヤッと笑う。
「だったら……」
「おまえが哀れだよ。沙耶ちゃんもむごいことをする。おまえの妻のふりをして、他の男にも色目を使い、自分だけ助かろうとしてるんだ。はやくそれに気づけよ、湊。おまえだけ地獄を見る必要なんてないだろ?」
「何を……」
何を言っているのか理解できない、なんてことはない。俺はもう気付き始めている。ただ理解したくないと思っているだけだ。
秀人の話に耳を傾けたらいけない。そう危険信号は鳴るのに、秀人の提案も悪くないと俺はきっと感じていた。
「婚姻届は出してないのか……?」
喉がカラカラで張り付きそうだ。乾く唇でようやく吐き出した言葉に、秀人はようやく気づいたかと、薄く笑う。
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「沙耶に飽きると思ってたか?」
「父さんには予想外かもな。本来なら今頃、沙耶ちゃんに飽きたおまえは家に帰ってきている予定だった」
「沙耶を……、沙耶を何年待ったと思う?」
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「でも結果はそうなった」
そうだ。秀人の言う通りだ。
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「……沙耶はどんな様子だった?」
「さあね。彼女の気持ちまで推し量るほどヒマじゃない。ただ、山口朔は内心喜んでいただろうな」
「朔か……」
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沙耶は朔にすべて話しているのだろう。俺を欺く行為だと、彼女は気付いているか?
「父さんはいつ動く?」
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「もう動いてるのか……」
「父さんの鼻を明かしたければ、すぐに弁護士に連絡を取れ」
「そんなこと言って、俺の動きは秀人を介して父さんに筒抜けだろ?」
今は誰を信じたらいい?
考えろ、と頭をフル回転させる。
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