せめて契約に愛を

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別離までの距離

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「秀人さんのお部屋のクローゼットにあったと、真由香さんが教えてくれたの。気づかなかったら、きっと今頃処分されていたのね」
「お母さん、私は……」
「大丈夫よ、沙耶さん。仕方ないもの。秀人さんに渡して欲しいと言われたら断れないわよね」

 お母さんは眉を悲しげにさげる。

「でも、処分されないように努力できなかったのは私です」
「沙耶さんなら大事にしてくれると思って渡したわ。でも、仕方ないこともあるの。あなたを責めたりはしてないわ。だってこれは、私とあの人の問題でしょう?」
「お母さん……」
「秀人さんから聞いたのでしょう? 私と上條さんのこと」

 切ない目に見つめられたら、胸がつまる。それでも私は頷かないわけにはいかなくて、ぎゅっとこぶしを握る。

「……はい」
「結論から言うと、この着物は私が処分するわ」
「それは……」
「いいの。だってずっと誤解されているなんて思ってもいなかったから。着物を処分して、あの人の心が救われるならお安いことよ」
「誤解……?」
「そうよ。もちろん、上條さんとお付き合いしていたのは事実よ。この着物もプロポーズ代わりに頂いたものだもの。でもね、この着物を大切にしていたのは、別の理由からよ」

 湊くんのお母さんが何を言いたいのかわからなくて、私は眉をひそめる。痛いほど悲しげな彼女の目に浮かぶ憂いを、私はどうすることも出来ない。

「沙耶さん、私の話を聞いてくださる? そしてお願いがあるの」

 お母さんは憂い顔のままそう言うと、私の手を引いて椅子へと導いてきた。

「何から話したらいいのかしら……」

 湊くんのお母さんはため息を吐き出すと共に言うと、わずかに目を伏せて、握ったままの私の手をさらに強く握った。

 何を話したらいいのかわからないのは私も同じで、黙ったままでいると、お母さんはやはり避けられないのだろうその名を口にした。

「上條雅哉さん……私と雅哉さんは幼なじみだったの。湊さんと沙耶さんと同じ」
「私と湊くんは幼なじみって言っても、再会したのは数ヶ月前のことで」
「そうね。それでも湊さんは沙耶さんのことをずっと身近に感じていたと思うわ。沙耶さんはすごくおとなしくて、共学に通わせるのは不安だったから私立を選択されたと伺ったわ。湊さんは学校が違うと知ってとても残念に思っていたし、何度か沙耶さんに会いに行ったみたいよ。沙耶さんのことで一喜一憂する湊さんを見ていたら、なんだか微笑ましくて……」

 お母さんの表情がほんのり和らぐ。

「湊くんが会いに来てくれたことは少し聞きましたけど……、私は何も知らなくて」
「それでも湊さんの気持ちに応えてくれたんだもの。感謝しているわ」
「そんな……」

 私は首を横に振る。感謝されることなど何もないような気がして。

「私ね、湊さんと沙耶さんに、昔の私と雅哉さんを重ね合わせていたようにも思うの」

 お母さんと目が合うと、彼女はゆっくりとうなずいた。

「私と雅哉さんも同じだったわ。ご近所に暮らしていたから昔からの知り合いだったけれど、頻繁に会うという仲でもなくて。それでも自然と惹かれ合って。雅哉さんがプロポーズしてくれるまでに、長い時間はかからなかったわ」

 お母さんは「とても幸せだったの」と息をつく。

 おじさんが亡くならなかったら、二人は結婚していたのだろう。そう思う私の前で、お母さんは悲しげに目を伏せる。

「とても幸せだったのに……」
「おじさんが病気になったんですね?」
「いえ……」
「いえ?」

 湊くんのお母さんは首を振る。

「雅哉さんがご病気になったのは、少し後のことよ。プロポーズの返事を迷っている間に、雅哉さんは体調を崩して……」
「迷うって……」
「そう。今でもわからないの。雅哉さんと過ごす日々はきらびやかだったのに、彼と目を合わせた時に、私は自分の心を見失ってしまったの……」
「彼……?」
「ええ……。雅哉さんに頂いたあの着物を着て、雅哉さんに会いに行こうとした日のことよ」

 苦しげに胸をおさえるお母さんは、何に自責の念を抱くのか。

「あの……」

 思い出すのもつらいことなら、何も話す必要はないのだと言おうとする私の手を握り、お母さんは何度も首を振る。

「申し訳ないの……」
「申し訳ない?」
「雅哉さんにも、彼にも。どうしてあんな気持ちになってしまったのかしら。雅哉さんを愛していたのに、彼の素朴な部分に触れたら、心が揺らいでしまって」

 私の胸はどきりとする。
 彼というのは、きっと湊くんのお父さんのことだろう。

 好きな人がいるのに、別の男性に心が揺らぐものだろうかと思いながらも、私の脳裏に一瞬浮かんだ朔くんの笑顔が、私の胸をざわつかせる。

 朔くんを好きなわけではないけれど、私は彼の優しさに安らぎを覚えたことがあるのではないかと。

「沙耶さんにはわからない気持ちだと思うわ」

 その気持ちがわかると答えたら、湊くんを裏切ったことになるのだろうか。そして私も、申し訳ないという気持ちにさいなまれるのだろうか。

 当惑する私に気づかないお母さんは、その日のことを話し出す。

「彼……、結城さんもご近所に住んでいたから、たまに会うことはあったのだけど、あの日は彼から声をかけて下さって。そんなこと滅多にないの。私の着物姿がとても綺麗で、声をかけずにはいられなかったと……、少し恥ずかしそうに言って下さって」
「心に残ったんですね……」
「そう……。雅哉さんから頂いた着物だったけれど、普段はおとなしい彼が勇気を出して褒めて下さったその気持ちに、私の心はどこか……」
「私にはわかりません」

 お母さんの言葉を最後まで聞く必要がない気がして、私は否定した。

「誰だって褒められたら嬉しいものです。その気持ちが心移りと直結するかなんて、今の私にはわからないとしか言えません」
「私も今でもわからないの。あの日から結城さんは私によく話しかけてくださるようになって。雅哉さんからプロポーズされたことも話したけれど、何も言わずに見守って下さって。雅哉さんがご病気になった時には、ずっと側で私を支えて下さった。私は二人の男性を愛していたのかしら……」
「……」

 お母さんの目はどこか遠くを見ている。今でも何かに苦しむよう。

「雅哉さんが亡くなった時は悲しくて悲しくて……。でも、結城さんがいて下さったから立ち直れたの。だから、結城さんにプロポーズされた時には素直に受け入れられたわ。あれからいろいろあったけれど、結城さんへの想いは確かなものだったわ。その気持ちが伝わっていなかったなんて……、今まで知らなかったの」
「そんなことありません。伝わってますよ……、きっと伝わってます」

 そう思っていないと、これまでの長い結婚生活を否定してしまうことになりそうで。

「沙耶さんは優しいのね。でも違うわ。伝わっていたなら、着物を処分しようだなんて思わないはずだわ」
「それは……」
「私は結城さんと親しくなるきっかけとなった着物として大切にしてきたの。けして雅哉さんへの想いを残していたからじゃないわ。でも……、結城さんには伝わってなかったのね」

 お母さんはため息を一つ落として、目元に指を当てた。

「着物は処分するわ。そうしたら、もう雅哉さんを愛しているわけではないと……、結城さんに伝わるかしら」
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