せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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別離までの距離

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 そんなことをしても、湊くんのお父さんとの大切な思い出を減らしてしまうだけで、誤解が解けた時には後悔しか残らないのではないかと思った。
 しかし、この気持ちをどう話したらいいのかと悩むうちに、お母さんはまたため息を吐き出した。

「湊さんと沙耶さんが婚姻届を出していないことは、秀人さんから聞いたわ。その理由も」
「そうですか……」
「沙耶さん……、怒らないで。お父さんがこんなことをしたのは、私のせいだわ。あなたたちを憎んでのことではないの」
「私は怒ってないですし、誰のせいだとも思ってないです」

 湊くんもまた、結果的に結婚していなかったことを喜んでいたし、私たちは普通の恋人として、結婚までの道のりを歩んでいこうと決めることも出来た。
 それは政略結婚よりも、ずっと幸せな結婚が出来るということではないだろうか。

「私はね、上條家とのつながりが欲しかった時もなかったわけではないの」

 お母さんは誤解しないでと、私の手を握って離さない。

「お父さんの会社は順調だったけれど、若い頃のお父さんは、上條病院と提携できたら、もっと多くの命が助けられると奮起していらしたから。私もいつしか秀人さんと円華さんとの結婚を夢見るようになって。秀人さんが小さな頃は、円華さんと結婚するようにと話していた時もあったかもしれないわ」
「だから、秀人さんが円華と結婚しようって?」
「私がそう思い込ませていたと責められても仕方ないわ。秀人さんも、円華さんのことは気に入っていたようだし、私もその気持ちに反対はなかったわ」
「二人がうまく行かなかったから、今度は私と湊くんを……ですよね」
「それは違うわ」

 すぐさま否定したお母さんは、それだけは誤解しないでと強く言う。

「言ったでしょ? 私と雅哉さんを、湊さんと沙耶さんに重ね合わせていたと。そう思うようになったのは、湊さんがあなたを大切に想っていると知った時よ」

 それはもう昔のことで、はっきりといつだったかは覚えてないと、お母さんはさらに言う。

「だから、湊さんを応援したいと思ったの。私と雅哉さんの恋は成就しなかったけど、二人で過ごした日々はやはりかけがえのないものだったから、湊さんも想いを馳せた女性と結婚するべきだと思ったから……」
「そのお気持ちを、また誤解されたと?」
「お父さんは私が雅哉さんに固執していると思ったのかもしれないわ。だからこんなことをして、私に上條を諦めさせようとするなんて。私はただ湊さんの気持ちを応援していただけなのに」
「私が上條でなくても、応援して下さったと?」
「それはもちろんよ。もちろん、そう」

 そう力強く言いながら、お母さんは不意に憂い顔をする。

「でももう、ダメなのかしら……」
「ダメ……?」
「お父さんは頑固な方なの。とても実直な方だから、一度決めたことは曲げない強い方」
「私は気にしてないです。理由はどうあれ、湊くんとのことは認めてもらえるように……」
「ダメなの。ダメなのよ、沙耶さん」
「ダメって?」
「湊さんにはもう婚約者がいるの」
「え……」

 唐突な言葉に私は息を飲む。

 何もかもが湊くんのお父さんの一存で決まっていく結城家のことだ。何を聞かされても驚くことはないのだと知りつつも、やはり私はすべてを受け入れる準備は出来ていなかった。

「湊さんも、いろいろと手を尽くしたようだけれど、お父さんに敵うことはないわ。それは私も同じ」
「婚約者って」
「近いうちに二人を会わせることになっているわ」
「湊くんは承知しないと思います」

 お母さんは首を横に振って、ため息をつく。

「それはよくわかっているわ。でもね、沙耶さん。お父さんに認められない結婚はつらいものになると思うわ。それが私のせいだなんて本当に……私もつらいの。理解してほしいなんて、虫が良すぎるわよね。でもわかって。お父さんはもう上條家とのつながりを求めてはいないの。むしろ、年を経るごとに憎しみに変わってしまっているのかもしれない」
「ただの誤解なのに?」
「そうね、誤解ね。でも今更、言葉で示しても、お父さんのかたくなな気持ちは和らがないわ。着物を処分して……、湊さんの気持ちを断ち切らせたら、少しは私の気持ちを理解してくださるかもしれない」

 ああ……と私は息を吐く。

 湊くんのお母さんはとてもお父さんを愛しているのだ。
 その気持ちをわかって欲しくて、態度で示そうとしている。それが例え、正しい方法でなかったとしても、自らの気持ちを優先して、愛する人の心を取り戻そうとしている。

「だからね、沙耶さん」

 ずっと握られていた手が離れ、顔をあげた私たちの視線が絡み合う。
 それを言葉にする必要がないぐらい、お母さんの思いは痛いほど伝わってくる。

「だから沙耶さん、湊さんのことはすべてなかったことにして」

 その言葉はズシンと心にのしかかる。

 自らの身体を抱きしめた。湊くんに触れられた記憶はまだここにある。彼に愛された日々をなかったことにするなんて、そんなこと出来るはずはないのに。

「お願い、沙耶さん。湊さんと別れて……、別れてください」

 深く頭を下げたお母さんが頭を上げることはなかった。
 それはまるで、私に選択の余地はないのだと示しているようだった。
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