せめて契約に愛を

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奪われるまでの距離

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 コツコツコツ……と、デスクに打ち付けるボールペンの音が、まったく聞こえていないふりをする山口朔の背中を、憎々しげににらみつける。

 沙耶はまだマンションに帰らない。自宅にも帰っていないようだ。
 沙耶が帰らなかった日、マンション近くの喫茶店で朔と一緒にいた沙耶の姿が、友人に目撃されていることを知ったのは、今朝だ。

 沙耶はどういうつもりで朔といたのだろう。もう会わない方がいいと思い始めていたのに。

 朔は沙耶の居場所を知っているだろう。
 もしかしたら、沙耶は朔のアパートにいるかもしれない。そんな風に考えたら、怒りの感情は高ぶるばかりだ。

 仕事も手につかず、昼休憩を知らせるチャイムが鳴ると同時に俺は立ち上がる。

 俺の様子を伺う周囲の様子に気づかないふりをする朔は、長財布を胸ポケットにしまう。

 今日は外食でもするのだろう。沙耶とするのか。それとも、沙耶の待つアパートへでも帰るつもりか。

「おい、話がある」

 朔がオフィスを出たところで、肩をつかんで止めた。

 朔は不思議そうに振り返り、俺と目を合わせると驚いた。

「どうしたんですか? そんな怖い顔をして」
「誰のせいだと思う?」

 一瞬口をつぐんだ朔は、「……さあ」と首を傾げながら、すぐに察したようだった。

「沙耶さんと喧嘩でもしたんですか?」
「しらじらしい」
「そう言われても困りますよ。いつも沙耶さんは悲しそうだから、そう思っただけです」
「悲しそう? やけに沙耶をわかったように言うんだな」
「まあ……、気づかないなら、その程度なんでしょうね」

 ふてぶてしい物の言い方に苛立つ。朔ごときが俺の上に立とうとするなんて。

 朔はすぐに行こうとする。わざわざ腕時計を確認するふりをして、急いでいるとアピールする。

「沙耶はもうお前に会わない方がいいって思ってたんだ」

 そう言うと朔は足を止めて振り返り、眉をひそめた。

「土曜日、沙耶はおまえに会いたくなかったはずだ」
「俺と一緒にいたことで喧嘩でもしたなら誤解ですよ。そうやって猜疑心ばかりむき出しにしてるから、沙耶さんが言いたいことも言えなくなるんじゃないですか?」

 朔は冷静だ。内心俺をさげすんでいるくせに、沙耶の気持ちをわかってやれと助言するのだ。

「俺はそんな話してるんじゃないよ」
「じゃあなんですか? 婚約者なんですから、誰よりも彼女のことを理解してるのは先輩でしょう?」
「嫌味にしては大したことないな。もっと俺に言うことはないのかよ。沙耶を騙して俺から奪ってやったと、腹の底では笑ってるんだろう」
「何を言ってるんですか」

 朔の顔が引きつる。しかし俺は冷静ではいられないのだ。

「二人で喫茶店に行った後、どこへ行ったのか聞いてる」

 彼に詰め寄ると、朔は眉をひそめた。

「どこへ?」
「ホテルの方へ歩いていく姿を見たやつがいる」
「まさか……」
「そのまさかは、どういう意味のだよ?」

 まさか、バレるとは思わなかったか?
 沙耶が朔を信用していることを利用したか?

 いらいらする俺の前で青ざめた朔だったが、首を横に振る。

「誤解ですよ。ホテルに向かっていたというなら、そう見えただけですよ。俺はマンションまで送っていくつもりだったんですから」
「つもりだった?」

 つまり、それをしなかった?

「そうです。沙耶さんが用事を思い出したからって、急に走っていってしまったので。追いかけた方が良かったですか?」
「いや。朔にそこまでは望んでないよ」

 あてが外れて、俺は一気に気落ちした。
 しかし、新たな希望も見出す。

 ホテルにいるかもしれない。どうしてこんな単純なことに気づけなかったのだろう。

 秀人を頼らなければならないのは癪だが、彼に任せた方が彼女を短時間で見つけ出せるだろう。

「湊先輩、沙耶さんがどうかしたんですか?」

 朔の質問に答えてやる義理も時間もない。俺は無言でその場を立ち去った。
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