せめて契約に愛を

つづき綴

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奪われるまでの距離

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 会社に戻ると、昼食を食べた様子もない湊先輩が、自分のデスクで物憂げに椅子にもたれ、天井を見上げていた。

 コンビニで買ってきたお弁当の入った袋が立てたカサッという音に、湊先輩は反応する。天井から目を下げて、俺を見つけると不機嫌そうに眉を寄せた。

「弁当なら食堂で食べろよ」
「湊先輩がまだオフィスにいるって聞いたので」

 そう言うと、先輩はますます眉をひそめた。

「聞いたからなんだよ」
「俺が沙耶さんの心配ぐらいしてもかまわないでしょう? 土曜日、沙耶さんは元気がなくて、俺がちゃんと話を聞けばこんなことにはならなかったかもしれないんですから」
「こんなこと?」

 湊先輩はまったく俺に心を開く気配のない、猜疑心に満ちた目で俺を見つめる。

「沙耶さん、マンションに帰ろうとしてましたよ。気が変わったなら、あの時、何かがあったとしか思えないんです」
「なんの話をしてる?」
「沙耶さんがいなくなったことは、さっき廊下で聞いてしまいました」
「立ち聞きしたか? 君は品性のかけらもないな」

 気色ばむ湊先輩は、ようやく合点がいったのか、険しい表情を崩す。

「君が沙耶のことを知らないなら、何も話すことはないよ。いや、もう沙耶の居場所はわかったんだ。出ていった理由を今更、蒸し返す必要もない」
「居場所がわかった?」

 俺は素っ頓狂な声をあげただろうか。湊先輩は唇の端を奇妙に歪めた。

「君が余計なことをするといけないから話しておくが、沙耶は両親のいる自宅に戻ってる。これは少しばかりの行き違いで、俺たちが別れることはない。君のつけいる隙なんてないよ」
「つけいるって……、俺はそんなつもりじゃ」
「そんなつもりだろ? だから沙耶に関わろうとするんだ。沙耶が迷惑してることにそろそろ気づけよ」
「沙耶さんはそんなに嫌がってましたか……?」

 俺にはとてもそうは思えない。沙耶さんと過ごす時間はかけがえのない楽しい時間だった。

「君が沙耶と話せるのは、山口純のおかげだろ?」
「それはわかってるつもりです。でも、今はそれなりに友人として関わっていると思えています」
「沙耶は違うよ。彼女に男友達なんてうさんくさい存在は必要ないんだよ」

 先輩は苛立ちをあらわにする。

「その言葉は沙耶さんから聞かないと、諦めがつきません」
「諦めね。やはり諦めなきゃいけないような気持ちが君にあるんだろう」
「だからそれは……」
「君の気持ちの問題に俺を巻き込むなよ、迷惑だ」

 鋭い眼光ににらまれては、俺ももう何も言えない。

「この話は終わりだ。君もこれ以上、沙耶のことを心配する必要はない」

 到底納得はいかないが、沙耶さんの無事が確認されているなら、俺はまた次に彼女に会える日を楽しみにするだけだ。

 湊先輩は俺と一緒にいるのが苦痛なのか、「少し出てくる」と、オフィスを出ていった。

 気づけば、昼の休憩ももう終わる時間だ。

 弁当は買ってきたが、食べる気力はない。純にも沙耶さんの居場所がわかったと連絡しなければいけない。

 何から手をつけたらいいのかわからず、少しぼんやりしていると、胸ポケットにいれたスマホが着信を知らせる。ディスプレイを確認して、電話に出る。

「もしもし、純?」
「今ね、沙耶の家に電話してみたの」

 純は前置きもなくそう言う。はやく俺に知らせようと思ってのことだろう。

「動きがはやいな。そのことだけど……」
「うん、沙耶ね、自宅にいないって」
「え?」

 椅子に座ろうと落としかけた腰を浮かせた。

「いない?」

 いないと言ったのか、純は。

 オフィスの入り口を振り返るが、すでに湊先輩の姿はない。

「うん。会社も休んでるけど、心配しなくて大丈夫だって、沙耶のお母さんに言われたよ」
「え……」

 いまいち理解できず、髪をくしゃりとつかんだ。

「沙耶さんがマンションに帰ってないことはご存知なのか?」
「その辺はあんまり話したくなさそうだったから聞いてないけど、とにかく大丈夫だからって」
「ご両親は沙耶さんの居場所を知ってるんだな」
「きっとそうだと思う」
「だったら、俺たちが出来ることはないよな」

 そう言いながら、俺は違うことを考えていた。

 湊先輩は沙耶さんの本当の居場所を知らないのだ。きっと事態は何も解決していない。
 しかし、沙耶さんのご両親が大丈夫だというなら、純にも下手な心配はかけない方がいいのだろう。

「沙耶さん、ちょっと一人になって考えたいことでもあるのかな」
「私に話してくれればいいのに」
「純のことは大切に思ってるさ。会社に来たら、今まで通り接してあげたらいいんだ」
「うん、それはわかってる」
「じゃあ、沙耶さんが戻るのを俺たちは待とう」

 純はそれで納得したようだった。俺も納得したふりをして、電話を切った。

 土曜日のことをもう一度思い出してみようと、俺はゆっくりと目を閉じた。
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