せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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奪われるまでの距離

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 俺の後ろを歩く沙耶は、ひどい疲労感に満たされた表情でうつむいていた。

 一週間ぶりに会う喜びもなく、それどころか、俺の顔を見た瞬間に見せた彼女の表情には、怯えや憂いがあった。

「なんて顔してる」

 朔のアパートから少し離れた路上で足を止めた俺は、そう声をかけたが、彼女の表情は一向に浮かばない。

「この一週間、ずっと朔と一緒にいたのか?」

 さらにそう言うと、沙耶はパッと顔をあげて首を横に振る。

「違うよ。朔くんのアパートにはさっき来たの。純ちゃんが来るって言ったから……」
「山口純が来ると聞けば、君は男のアパートに一人で行くのか」
「……朔くんだからだよ」
「朔を信頼してるようだが、やつになら何でも話せるのか?」

 責めるように言ってしまう。沙耶は悲しそうに目を伏せる。

「朔くんはいつも心配してくれてるだけだよ」
「朔に居場所は知らせてたんだろう? 俺の知らないところで連絡を取り合うってことが、どういうことかわかってるのか?」

 苛立つ俺に、沙耶は萎縮していく。こんな風に俺はいつも彼女を追い詰めているのだろうか。そんな風にふと思ったが、俺の苛立ちはおさまりそうになかった。

「朔くんにはたまたま会っただけだよ。湊くんだって純ちゃんと一緒だったでしょ? それと同じだよ」
「同じか……」

 俺が山口純に会ったのは、本当に偶然だった。
 沙耶がいなくなってから外食が増え、今日もレストランへ行った。その帰り、俺は山口純に会ったのだ。

 彼女はスマホを片手に、歩きながらメールしていた。もしかしたら、山口純なら沙耶のことを知っているかもしれないと思い近づいた。その時見たのだ。沙耶あてにメールしようとしていたのを。

 俺は彼女を問い詰めた。すぐに沙耶の居場所を白状した彼女を引きずるようにして、朔のアパートへ向かった。

 沙耶が朔のアパートに来ていると知っただけで、血が逆流したような怒りが全身を走った。朔の部屋にいる沙耶を目の当たりにしたら、怒りはさらにわき上がった。

 それなのに、俺と山口純が偶然会ったのと、沙耶と朔が一緒にいた事実が同じだなんて言う彼女が理解できない。しかし、冷静にならなくてはとも思う。

「この際、この一週間のことは水に流そう。君の無事がわかっただけで本当は十分なんだ」
「湊くん……」
「このままマンションへ帰ろう」

 手を差し伸べると、沙耶の瞳は戸惑いに揺れる。

「大丈夫だ。この前のように、君を傷つけるようなことは言わない。出ていった理由が言いたくないなら、それでもかまわない。君だって話したくないこともあるだろうからね」
「……湊くん」
「さあ、帰ろう。君がいないと、全然落ち着かないんだ」

 帰って君を抱きしめたい。それさえ出来たら俺は安心する。
 そんな気持ちで手を伸ばすのに、沙耶はジッと俺の手を見つめたまま、ゆっくりと首を振るのだ。

「帰れないよ……湊くん。私、帰りたくない」
「どうして」

 沙耶に詰め寄る。彼女は少し顔を背け、何も言う気がないのか、唇をかたく結んだ。

「嫌なら言わなくていいとは言ったが、それは俺たちが元通りになるためだろう? このまま君が俺に会いたくないというなら、話は別だよ」

 大通りからそれた脇道に人通りは多くないが、近くのコンビニの明かりや、時折通る車のヘッドライトに照らされた沙耶の泣き出しそうな表情を、通りすがりの人々が奇異な目で眺めていく。

 きっと俺が沙耶を苦しめているように見えているのだろう。俺に注がれる視線は冷たく、沙耶には同情の目が集まる。

「近くに公園がある。そこで話そう」

 人目を気にする俺に、沙耶は憐れむ目をするだけで頷かない。

「沙耶、いつまでもこのままというわけにはいかないよ」
「……わかってるよ」
「だったら、君が本心を話せる場所へ行こう」
「話してるよ……話してる、湊くん」
「沙耶……」

 沙耶は目を伏せ、苦しげに胸を押さえる。

「私もう、湊くんと一緒にいられないよ。だから帰らなかったの。もうマンションにはいかない……」
「どう……」

 どうして?
 なぜ?

 そう尋ねても、答えは同じだ。

 繰り返す問答に意味はない。沙耶はただ、俺の側にはいたくないと言ってるだけだ。

「今は一緒にいたくないだけだろう? 気持ちが落ち着いたら帰って来ればいい。もう怒ったりしないから、俺に黙っていなくなる必要はないんだ」
「湊くん……」

 俺を見上げる彼女の目は途方に暮れている。

「俺が怖いか?」
「怖くないよ……」

 その言葉から本心はやはり見つけ出せない。

「だったら、別れないと言ってくれないか?」

 伸ばした指先が彼女の頬に触れた途端、緊張が走る。それでも俺は彼女に触れた。

「君がそんな顔をするから不安になる」
「湊くん……、ごめんね」
「何を謝る? 俺は何も怒ってない」
「もうダメだよ……」

 今までに別れたいと言い出した女の表情は皆、こんな風に憂いていただろうか。あまり気にしたことがないからわからないだけだろうか。

「ダメだなんてことはない」

 俺はまだ沙耶が好きだ。絶望するには早すぎる。それでも俺の指を濡らし始めた彼女の涙には、絶望しか見出せない。

「もうダメだよ。湊くんと別れたい……」
「沙耶」
「もう、疲れちゃったよ……」

 沙耶の頬に触れている俺の手は、離れる前に彼女の手によって引きはがされた。

「沙耶……」
「純ちゃんと朔くんが待ってるから、行くね」
「まだ話は終わってないよ」

 俺はまだ返事をしてない。別れたいと言われても、すぐに納得できるわけがない。

「沙耶っ」

 後ろを向いて歩き始めた沙耶の背中に叫ぶ。

「理由もわからず別れるなんて出来るわけないだろうっ?」

 一瞬止まった彼女の足は、ためらいを見せた後、そのまま歩を進めた。

「沙耶……」

 沙耶は振り返らなかった。
 何がいけなかったのか、取り残された俺には全く想像がつかなかった。

「別れるなんて……無理だろ」

 ぽつりと落とした言葉は夜風にさらわれたが、その声が彼女に届くことはないのだろう。
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