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奪われるまでの距離
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湊先輩が俺のアパートに乗り込んできた時は驚いた。
沙耶さんも同じだ。怒りをあらわにした湊先輩に彼女は怯えた。しかし、「話がある」と言われたら、素直に先輩に従った。
本当のところは、湊先輩に会いたかったはずで。先輩に手を引かれたら、少しばかり握り返したようにも思えた。しかしそれも一瞬で、アパートの階段を降りていく時には、沙耶さんは自ら手をほどき、先輩の少し後ろを遅れてついていった。
取り残された俺は、追いかけようとする純を引き止め、「でもっ」と沙耶さんを心配する彼女に向かって首を横に振った。
「沙耶さんが湊先輩のところへ戻りたいなら、引き止めたらダメだ」
「沙耶はずっと言いたいことも言えずにいたんじゃないの? だからいきなりいなくなったんじゃないの? ミナトくんが強引に沙耶を連れて帰るかもしれないよっ」
純の言うことはもっともで、俺もそう思う。
沙耶さんは湊先輩を想うあまり、自分の気持ちに嘘をついてまで別れを決めたのだ。そうでなければ、あれほど先輩との未来を切望していた彼女が、簡単に別れるだなんて言葉を使うはずがない。
しかしそれは、別れたくないとわがままを言える環境を作らない湊先輩にも問題があるのかもしれないとも思う。
「沙耶さんが湊先輩に流されるなら、それもまた沙耶さんの意思だよ」
「お兄ちゃんはそれで沙耶が幸せになれると思うの?」
「沙耶さんが幸せかどうかは、本人が決めることだよ。苦しくても湊先輩といる方が、誰と過ごすよりも幸せかもしれない」
心とは裏腹な言葉が口から漏れた。正義心ばかり振りかざす、薄っぺらな俺だ。
「私はそうは思わない。沙耶が帰ってきたら今日はここで泊まるからね。お母さんにもそう言って出てきたから」
「好きにしていいよ」
「お兄ちゃんはリビングで寝てね」
「あ、ああ。てっきり出ていけって言われるかと思ったよ」
冗談交じりに笑うと、純はあきれたようだった。
すぐに純は、俺が頼むまでもなく、寝室にしている奥の部屋を片付け始めた。
それからほどなくして、アパートのチャイムが鳴った。
夜食を作っていた俺より先に、部屋を飛び出してきた純が玄関に駆け寄った。
「沙耶っ」
玄関ドアが開いた瞬間、「純ちゃんっ」と叫んだ沙耶さんが純に抱きついた。
「沙耶……」
純が優しく受け止めると、沙耶さんはこらえていたものをすべて吐き出すように、声をあげて泣いた。
泣き疲れた沙耶さんを、純がベッドのある部屋に連れて行ってから1時間近くが経った。
話し声も聞こえなくなった頃、閉ざされていたドアが開く。
「沙耶さん、落ち着いた?」
「うん、今寝たとこ」
奥の部屋から出てきた純は、缶ビールを差し出す俺の斜め前に腰を下ろし、「ありがと」と缶ビールを受け取った。
「沙耶、あんまりよく寝れてなかったみたい」
「そうか」
俺がいることを忘れたわけでもないだろうに、人目をはばからずに泣いた沙耶さんの苦悩を思うと、やるせない気持ちになる。
俺がもう少しはやく沙耶さんの変化に気づいていたら、あんな風になるまで彼女が傷つくことはなかったかもしれない。
「沙耶、ミナトくんと別れたんだって」
純はため息を落とす。
「湊先輩は承知したって?」
「ううん、わかんない。ただ別れたって」
「湊先輩と喧嘩でもしたのかな?」
「それは違うって。私も、結城の家のこととか沙耶からあんまり聞いたことないんだけど、ミナトくんのお母さんとはすごく良好だったみたいで」
「それはなんとなく知ってる」
湊先輩と沙耶さんの結婚を誰よりも祝福していたのは、先輩の母親だろう。そして、それを煙たがる父親が二人を別れさせたがっていたことも知っている。
「沙耶ね、先週の土曜日、ミナトくんのお母さんにお呼ばれしたみたい。ミナトくんのお兄さんの婚約者も来るからって、楽しみにしてたって」
「それで?」
純は目を伏せて、額に手を当てる。
「それで……、それでね、いきなりミナトくんと別れるように言われたって」
「母親から言われたって?」
「うん……。すごくショックだったみたい。一番頼りにしてた人に言われたから、なおさら……」
「別れるなら早いうちがいいと思ったのかもな」
湊先輩と沙耶さんが納得するうちに。俺にしてみれば、もう遅かったのではと思うが。
「私……、知らなかったよ」
「純?」
「お兄ちゃんは知ってたんだね。沙耶とミナトくんが結婚してないこと。沙耶、私にも黙ってた」
「純、それは……」
頼りなく眉を下げる俺に、純はそっとうなずく。
「うん、わかってる。黙ってたのは結婚するつもりだったからだよね。私の誤解を否定する必要もないぐらい、沙耶とミナトくんはうまくいってたってことだよね」
「あ、ああ……」
沙耶さんの幸せを願うくせに、俺はそんな話を聞くと胸がうずくのだ。
「沙耶……、後悔しないかな」
「これから先輩と別れたことを後悔しないような出会いがあればいいんだ」
「そんな出会いある?」
「あるって信じてるよ。湊先輩でなくても、幸せにしてくれる男がいるってことに気づかせてあげたいんだ」
わずかに純の眉があがる。
「気づかせてあげたい? あげたいって?」
純の見開く丸い目に凝視され、俺は思わず赤面する。
「まあ、そういうことだよ」
「え? えっ? まさかお兄ちゃんっ?」
「沙耶さんには言うなよ」
ぶっきらぼうに言って、何も言えないでいる純を横目にビールを一気に飲み干した。
「真面目に言ってるの? お兄ちゃん」
「冗談では言わないよ」
寝耳に水の純に、俺は小さく苦笑いする。
沙耶さんが湊先輩と結婚するなら、この想いを口に出すこともなかっただろう。
今までは心のどこかで、沙耶さんへの気持ちをセーブしていたのだと思う。湊先輩が彼女を本気で大切にするなら、俺なんて先輩の足元にも及ばない。だから、本気になるだけ無駄だという想いがなかったわけでもないのかもしれない。
俺はきっとずるいのだ。沙耶さんが思うほど優しくなんかないのだろう。
「お兄ちゃんと沙耶じゃ……」
純は俺と沙耶さんが並ぶ姿を想像したのだろう。天井を見上げてから首を何度も横に振る。
「お兄ちゃんに沙耶はもったいない」
「それはわかってるよ」
「きっとわかってないよー。それに、沙耶って自覚ないけど結構モテるんだよ? それでも今まで誰にも興味持たなかったのに、ミナトくんと別れたからってすぐに新しい彼氏作ったりするような子じゃないよ」
純は俺のことは全否定だ。少し笑ってしまう。
「何も今すぐになんて思ってないよ。湊先輩みたいにカッコ良くもないし、金もないけどさ、幸せにはしてあげたいって思ってるんだ」
「うわぁ、お兄ちゃんの口からそういうこと聞きたくないー。私に見えないところで沙耶にアタックしてよね」
「していいんだ?」
「なっ、私が許可したみたいに言わないでよーっ」
慌てる純を見て、くすりと笑った俺だったが、奥の部屋のドアを眺めて口元を引き締めた。
「沙耶さんは明日、ご自宅に連れていくよ。はやく元気になるといいな」
湊先輩が俺のアパートに乗り込んできた時は驚いた。
沙耶さんも同じだ。怒りをあらわにした湊先輩に彼女は怯えた。しかし、「話がある」と言われたら、素直に先輩に従った。
本当のところは、湊先輩に会いたかったはずで。先輩に手を引かれたら、少しばかり握り返したようにも思えた。しかしそれも一瞬で、アパートの階段を降りていく時には、沙耶さんは自ら手をほどき、先輩の少し後ろを遅れてついていった。
取り残された俺は、追いかけようとする純を引き止め、「でもっ」と沙耶さんを心配する彼女に向かって首を横に振った。
「沙耶さんが湊先輩のところへ戻りたいなら、引き止めたらダメだ」
「沙耶はずっと言いたいことも言えずにいたんじゃないの? だからいきなりいなくなったんじゃないの? ミナトくんが強引に沙耶を連れて帰るかもしれないよっ」
純の言うことはもっともで、俺もそう思う。
沙耶さんは湊先輩を想うあまり、自分の気持ちに嘘をついてまで別れを決めたのだ。そうでなければ、あれほど先輩との未来を切望していた彼女が、簡単に別れるだなんて言葉を使うはずがない。
しかしそれは、別れたくないとわがままを言える環境を作らない湊先輩にも問題があるのかもしれないとも思う。
「沙耶さんが湊先輩に流されるなら、それもまた沙耶さんの意思だよ」
「お兄ちゃんはそれで沙耶が幸せになれると思うの?」
「沙耶さんが幸せかどうかは、本人が決めることだよ。苦しくても湊先輩といる方が、誰と過ごすよりも幸せかもしれない」
心とは裏腹な言葉が口から漏れた。正義心ばかり振りかざす、薄っぺらな俺だ。
「私はそうは思わない。沙耶が帰ってきたら今日はここで泊まるからね。お母さんにもそう言って出てきたから」
「好きにしていいよ」
「お兄ちゃんはリビングで寝てね」
「あ、ああ。てっきり出ていけって言われるかと思ったよ」
冗談交じりに笑うと、純はあきれたようだった。
すぐに純は、俺が頼むまでもなく、寝室にしている奥の部屋を片付け始めた。
それからほどなくして、アパートのチャイムが鳴った。
夜食を作っていた俺より先に、部屋を飛び出してきた純が玄関に駆け寄った。
「沙耶っ」
玄関ドアが開いた瞬間、「純ちゃんっ」と叫んだ沙耶さんが純に抱きついた。
「沙耶……」
純が優しく受け止めると、沙耶さんはこらえていたものをすべて吐き出すように、声をあげて泣いた。
泣き疲れた沙耶さんを、純がベッドのある部屋に連れて行ってから1時間近くが経った。
話し声も聞こえなくなった頃、閉ざされていたドアが開く。
「沙耶さん、落ち着いた?」
「うん、今寝たとこ」
奥の部屋から出てきた純は、缶ビールを差し出す俺の斜め前に腰を下ろし、「ありがと」と缶ビールを受け取った。
「沙耶、あんまりよく寝れてなかったみたい」
「そうか」
俺がいることを忘れたわけでもないだろうに、人目をはばからずに泣いた沙耶さんの苦悩を思うと、やるせない気持ちになる。
俺がもう少しはやく沙耶さんの変化に気づいていたら、あんな風になるまで彼女が傷つくことはなかったかもしれない。
「沙耶、ミナトくんと別れたんだって」
純はため息を落とす。
「湊先輩は承知したって?」
「ううん、わかんない。ただ別れたって」
「湊先輩と喧嘩でもしたのかな?」
「それは違うって。私も、結城の家のこととか沙耶からあんまり聞いたことないんだけど、ミナトくんのお母さんとはすごく良好だったみたいで」
「それはなんとなく知ってる」
湊先輩と沙耶さんの結婚を誰よりも祝福していたのは、先輩の母親だろう。そして、それを煙たがる父親が二人を別れさせたがっていたことも知っている。
「沙耶ね、先週の土曜日、ミナトくんのお母さんにお呼ばれしたみたい。ミナトくんのお兄さんの婚約者も来るからって、楽しみにしてたって」
「それで?」
純は目を伏せて、額に手を当てる。
「それで……、それでね、いきなりミナトくんと別れるように言われたって」
「母親から言われたって?」
「うん……。すごくショックだったみたい。一番頼りにしてた人に言われたから、なおさら……」
「別れるなら早いうちがいいと思ったのかもな」
湊先輩と沙耶さんが納得するうちに。俺にしてみれば、もう遅かったのではと思うが。
「私……、知らなかったよ」
「純?」
「お兄ちゃんは知ってたんだね。沙耶とミナトくんが結婚してないこと。沙耶、私にも黙ってた」
「純、それは……」
頼りなく眉を下げる俺に、純はそっとうなずく。
「うん、わかってる。黙ってたのは結婚するつもりだったからだよね。私の誤解を否定する必要もないぐらい、沙耶とミナトくんはうまくいってたってことだよね」
「あ、ああ……」
沙耶さんの幸せを願うくせに、俺はそんな話を聞くと胸がうずくのだ。
「沙耶……、後悔しないかな」
「これから先輩と別れたことを後悔しないような出会いがあればいいんだ」
「そんな出会いある?」
「あるって信じてるよ。湊先輩でなくても、幸せにしてくれる男がいるってことに気づかせてあげたいんだ」
わずかに純の眉があがる。
「気づかせてあげたい? あげたいって?」
純の見開く丸い目に凝視され、俺は思わず赤面する。
「まあ、そういうことだよ」
「え? えっ? まさかお兄ちゃんっ?」
「沙耶さんには言うなよ」
ぶっきらぼうに言って、何も言えないでいる純を横目にビールを一気に飲み干した。
「真面目に言ってるの? お兄ちゃん」
「冗談では言わないよ」
寝耳に水の純に、俺は小さく苦笑いする。
沙耶さんが湊先輩と結婚するなら、この想いを口に出すこともなかっただろう。
今までは心のどこかで、沙耶さんへの気持ちをセーブしていたのだと思う。湊先輩が彼女を本気で大切にするなら、俺なんて先輩の足元にも及ばない。だから、本気になるだけ無駄だという想いがなかったわけでもないのかもしれない。
俺はきっとずるいのだ。沙耶さんが思うほど優しくなんかないのだろう。
「お兄ちゃんと沙耶じゃ……」
純は俺と沙耶さんが並ぶ姿を想像したのだろう。天井を見上げてから首を何度も横に振る。
「お兄ちゃんに沙耶はもったいない」
「それはわかってるよ」
「きっとわかってないよー。それに、沙耶って自覚ないけど結構モテるんだよ? それでも今まで誰にも興味持たなかったのに、ミナトくんと別れたからってすぐに新しい彼氏作ったりするような子じゃないよ」
純は俺のことは全否定だ。少し笑ってしまう。
「何も今すぐになんて思ってないよ。湊先輩みたいにカッコ良くもないし、金もないけどさ、幸せにはしてあげたいって思ってるんだ」
「うわぁ、お兄ちゃんの口からそういうこと聞きたくないー。私に見えないところで沙耶にアタックしてよね」
「していいんだ?」
「なっ、私が許可したみたいに言わないでよーっ」
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