せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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奪われるまでの距離

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***


 山口朔はこのところ機嫌がいい。俺がイラついているからそう見えるだけなのか、沙耶と今でも連絡を取り合っているからなのか、真実はわからない。

 沙耶は今頃どうしているのだろう。本気で俺と別れるつもりだろうか。俺から逃げるなんて出来るはずもないのに。

 視界に入る朔の動きに合わせて、ゆっくりデスクから立ち上がる。

「朔」

 オフィスを出る朔を呼び止めると、彼はちょっと驚きつつ頭を下げた。

「あ、湊先輩、お疲れ様です」
「帰るのか?」
「はい、すみません」
「何か予定があるのか?」
「いや、別に」
「ふーん、てっきり女と食事でもするのかと思ったよ。今日の君はやけに浮かれていたからね」

 朔は無言で眉をひそめた。

「そんな不機嫌な顔するなよ。沙耶と会う予定でもあるのかと思っただけさ」
「沙耶さんのことは前にも言ったでしょう? 今は自宅で過ごしてますよ」
「だから会うチャンスはない? そんなことはないだろ? 沙耶は会社も休んだままだ。君と会う時間ぐらいいくらでも作れる」
「沙耶さんのことはそっとしておいてあげたらどうなんですか?」
「どうして君にそんなこと言われなきゃならない? 俺から沙耶を奪ったつもりでいるのかもしれないが、別れたつもりはないし、沙耶が君になびくわけないだろう?」

 朔は不愉快そうにますます眉を寄せたが、俺より優位に立っているつもりか、臨戦態勢は崩さない。

「先輩は別れたつもりがなくても、実際はどうなんですか? 沙耶さんが戻れる環境はあるんですか?」
「あるさ」
「ある?」
「沙耶が出ていっただけで、俺の周囲は何も変わってないさ」

 朔は眉間にしわを寄せる。

「湊先輩は仕事が出来て、憧れの存在でしたけど……」
「なんの話だよ」
「こんなに周りが見えない人だとは思ってなかったです」

 朔はわずかな怒りを見せながら、頭を下げると帰っていった。

「なんだよ」

 まるで沙耶のことを俺よりわかっているみたいな言い方は腹が立つ。怒りのやり場に困っているとスマホが鳴る。

「秀人か」

 沙耶かもしれない、なんて期待はもうない。秀人からの電話にはいい予感はなくて、ため息が出る。

「もしもし?」

 不機嫌に出ただろうか。秀人の苦笑いが俺を迎える。

「あいかわらず子供だな、おまえは。少しは感情を抑える努力でもしたらどうだ」
「嫌味を言うために電話したわけじゃないだろ? 用件を言えよ」

 苛立つまま喧嘩腰に言う俺に、秀人はため息を吐いた。

「短気なことだ。俺もひまじゃないから簡単に済ませたい。おまえに選択の余地はないが、週末帰ってこい。父さんの命令だ」
「週末? どうして」
「そこまでは知らないさ。じゃあ伝えたからな。必ず来いよ」
「おいっ……」

 一方的に電話は切れ、思わず舌打ちが出た。

 父さんに会えば、沙耶とのことを話さないわけにはいかないだろう。憂鬱なことばかりが増えていく。

 俺は深いため息を吐いて、帰路を急いだ。
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