せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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奪われるまでの距離

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「湊さん、急にレストランを変えたいなんて言ってごめんなさい。パパがどうしても湊さんに一度会いたいって、急に電話してきたものだから」
「いえ、笹本ささもとさんもお忙しい方ですから、こちらが合わせるのは当然ですよ」

 俺に寄りかかって甘える彼女の腰を抱きながら、笑顔で応える。
 心のない笑顔をするのは久しぶりだ。今日は一日中不機嫌だった。だから出来る笑顔なのかもしれないなんて、ほくそ笑んでしまう。

 彼女から匂い立つ甘い香水の香りも嫌いではない。顔立ちもまあまあ綺麗だ。腕を回した腰もしなやかで、華やかな男性経験に裏付けされた美を備えている。

 悪くはない。第一印象はそれだったが、それはあくまでも遊びとして付き合うならだ。結婚相手となると、また話は違う。

 笹本由季ゆきと会うのはこれが三度目だ。はじめて彼女に会ったのは、沙耶と別れてすぐの頃、父に呼び出されて行った先で。

 沙耶と別れた途端、ここぞとばかりに父は彼女を紹介し、結婚前提の付き合いをするように俺に命じた。

 父にとって俺の結婚相手は誰でもいいのだとその時思った。もし彼女との縁談を断れば、また別の誰かがやってくる。それだけのことだ。
 それも面倒で、俺は彼女に好意があるかのような振る舞いをして、なんとなく過ごしている。

 沙耶でなければ、本気で結婚を考える相手など必要ない。会いたいと彼女に望まれれば会うが、俺から求めるものなど何もないのだ。

「あの、湊さん」

 ハキハキした彼女にしては珍しく、由季さんは遠慮がちに口を開く。

「なんですか?」
「パパに会ってくださるということは、私との結婚に前向きと受け取って良いのかしら?」
「由季さんも気が早いですね。まだ知り合ったばかりですよ」
「重い女だなんて思わないで。私も実はびっくりしているぐらいなの。結城湊さんといったら、私たちの憧れなんですもの」
「憧れ? つまり、俺を前から知っていた?」
「もちろんです。湊さんは知らないのだわ、ご自身がどれほど有名なのか」
「有名ね。俺を知らない女もいますよ」

 苦笑いしながら思うのは、沙耶のことだけだ。彼女の心に触れるのにどれほどの時間を要したか。それなのに壊れるのは本当にあっけなく、簡単だった。

「そんな女性がいるとしたら、私たちとは生きる世界が違うんだわ。湊さんには似合わない女に決まってます」
「平凡な女はあなたの目には映らないのでしょうね」
「それは湊さんも同じでしょう?」
「まあ、そういうことにしておきましょうか」

 俺は胸ポケットを探った。少々イライラしてきている。たばこの一本でも吸いたい。

 沙耶のことを思うといつもこれだ。沙耶さえいてくれたら、俺は俺らしく笑ったり、楽しい話も出来るのに。

「あれ……」
「どうなさったの?」
「たばこをレストランに忘れてきたみたいだ」
「戻るの?」
「そうですね。ライターも一緒に忘れたようなので」
「ライターも? 確か、ブラファの……」

 由季さんは俺が使っているライターのメーカーを口にする。有名な海外ブランドメーカーだ。ステータスが大事な女は、沙耶では気づかないようなことまで気を払っているのだ。

「よくご存知だ。今までお付き合いしてきた男性も使ってましたか」
「え……」
「冗談ですよ。ただ俺は、そういうことにはうとい女性の方が好みなだけです」
「湊さん、誤解しないで。私は……」
「誤解なんてしませんよ。あなたを誤解するほど何も知らないんだから」

 キュッと口元を引き締めた彼女に、俺は笑顔を向ける。冷酷な笑いは彼女の顔をますます強張らせたが、そんな彼女の心を気遣う理由は俺にはなく。

「先にレストランに行っていてください。戻らなくてもご心配なく」
「え、待って、湊さんっ」

 引き止める由季さんの言葉に耳を傾けることなく、来た道を引き返した。

 笹本由季は予想通り追いかけては来なかった。逆鱗に触れることを恐れ、たいがいの女は深入りしようとはしない。彼女も例外ではないようだ。

 この縁談も今日で終わりか。そう思うと、ため息も出る。また父親に呼び出され、新しい女を紹介されるのだ。そんな日々にはうんざりしている。

 その一方で、沙耶は今頃どうしているだろうと、彼女を想わない日はない。

 どうしたら沙耶の気持ちを取り戻せるだろうかと何日も悩んだ。彼女の両親に会い、説得することも考えないではなかったが、それでは意味がない。沙耶が戻ってきても、結局同じことの繰り返しになるだろう。

 沙耶が別れたいと急に言い出した理由を今は知りたい。それさえわかれば、俺たちは前以上に分かり合える日が来るかもしれないのだ。

 先ほどいたレストランの前まで来たところで、大通りに近い歩道で抱き合うカップルが目に付いた。

 珍しい光景ではないものの、なんとなく目が離せない。こちらからはほとんど男の背中しか見えないが、男はスーツを着ていて、一見して会社帰りとわかる風体だ。

 男のスーツの袖下に見える女の手は力なく下がっている。嫌がっているようにも見えない。しかし、気になるのはそんなことではない。

 なんだか嫌な胸騒ぎがする。俺はあの男の背中を知っている、そう思えてならないのだ。

 ほどなくして、男が女を解放した。男はそれでも女の指はそっと握って離さず、何か女に語りかけている。女もまた、手を振りほどくわけでもなく、うつむいたままでいる。

 俺の胸騒ぎは一向におさまらない。それどころか、嫌な予感は増すばかりだ。

 あの男が俺の知っている男なら、彼の好きな女もまた俺は知っている。

 相手の女が俺の知る女でなければいい。彼女のことは諦めて、他の女に心を移したのだと思いたい。そうであって欲しい。

 そう願う俺の前で、女が顔をあげた。

 恥ずかしさで頬を紅潮させ、明らかに自分より背の高い男を上目遣いで見上げる。

 そんな目で見つめられたら男は誤解する。俺は何度となく、彼女に見つめられるたびにそう思った。

 沙耶…っ!

 声にならない声が俺の喉を割く。

 男は沙耶の赤らむ頬に指を触れさせた。そして何事かを囁く。沙耶は小さくうなずき、男と見つめ合う。

 心を移したのは、男ではなく、沙耶か。

 沙耶の手が頬に触れる男の手に重ねられる。すると男のもう一方の手が沙耶の頬を包む。
 沙耶はちょっと驚いて、顔を近づける男に、まるでそうじゃないんだと言うようにうつむこうとする。

 そんなことをしたら男の野心をあおるだけだ。沙耶は何もわかっていない。好意をはっきりと断らなければ、男が力づくで奪いに来ることを。そうしたくなる魅力を自分が持っていることを。何も気づいていないのだ。

 それはどんな男が相手であろうとも。女に臆病な、山口朔であってもだ。
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