せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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彼に届くまでの距離

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***


「沙耶、本当に今日が最後なんだね。さみしくなるけど、近いうちに家に遊びに行ってもいい?」

 ロッカールームの荷物を片付ける私を手伝いながら、純ちゃんはしみじみと言う。

「もちろんだよ、純ちゃん。お母さんも、純ちゃんと朔くんのことは気に入ってるの。いつでも来て」
「お兄ちゃんも?」

 純ちゃんは意外そうに目を丸くする。

「うん。朔くんね、よく来てくれるんだよ。いろいろ話聞いてくれて、相談に乗ってくれるの」
「へえ、あのお兄ちゃんがねー、初耳」
「朔くんは本当に優しいね」
「それしか取り柄がないんじゃない?」

 苦笑いする純ちゃんは、ロッカーのドアを閉めた私に気づくと、まとめた荷物を持ってくれる。

「純ちゃん、大丈夫だよ。このぐらいの荷物なら一人で持てるから」
「いいよ。お父さんのお迎えなんでしょ? 車のとこまで持ってく」
「本当に大丈夫だから。純ちゃん、仕事残ってるでしょ? ありがとう」
「そう? じゃあ、戻るね。またすぐ連絡するから」
「うん、ありがとう、私も連絡するね」

 純ちゃんは名残惜しそうだったけど、ロッカールームを出たところで私たちは別れた。

 入社した時はこんな風に会社を辞めるなんて想像もしていなかった。だいたい結婚すら、私とは無縁なことだと思っていたのに。

 急な退職だから、いろんなことが慌ただしくて、送別会はない。だけど、スイートピーが可愛らしい花束をもらった。

 会社を出ると、数段の階段がある。胸に抱えた花束が視界を遮り、足元に気をつけて階段を降りる。すると、「沙耶さんっ」と声がした。

 顔をあげると、笑顔で階段の下から私を見上げている朔くんと目が合った。

 会社帰りだろうスーツ姿の朔くんは、すぐに階段を駆け上がってくる。そして、「持ちますね」と私の手荷物全部を持ってくれる。

「お父さんがね、近くまで迎えに来てくれるの。お父さんも仕事が終わってから来るから、喫茶店で待ってようと思ってるの」
「そうですか。じゃあ、俺も一緒してもいいですか?」
「ありがとう、朔くん。朔くんとも話がしたいって思ってたから、誘おうと思ってたの」
「話って、あのことですか?」

 ちょっと気まずい雰囲気になる中、私は小さくうなずく。

松井まついさんは朔くんと会うことは何も言わないけど、やっぱり心配してくれるから、朔くんにも松井さんと仲良くしてもらえたら嬉しいと思って」
「そうですか……。とりあえず、喫茶店に行きましょう」

 立ち話ではなんですから、と朔くんは、階段を降りる私の足元に気を払いながら歩き出す。

 こんな風に私を大切に思ってくれる朔くんなのに、どうして私は彼を大切に出来ないのだろう。

「朔くん、ごめんね」

 そっと背中に声をかけると、朔くんは少し沈黙してから、「謝ることなんて……」と首を振り、笑顔を見せてくれた。

 喫茶店は思いの外すいていたが、父が来た時にすぐにわかるようにと、入り口に近い窓際の席に腰かけた。

 ゆったりと流れるクラッシックの曲が、朔くんと過ごす無言の時間を自然なものにしてくれる。

 でもきっと朔くんに、一緒にいると落ち着く、なんて言ったらいけない。朔くんとの友情を望むなら、口にしたらいけないって私は気づいている。

 注文したコーヒーはすぐに運ばれてきて、一口飲んだら、少し喉が渇いていたことに気づく。今日は一日緊張していたのだろう。

「お仕事、お疲れ様でした。辞めるのはもう少し先だろうと思ってたので、正直驚きましたが、無事に終えられて良かったです」

 朔くんはタイミングを見計らったように言う。

 朔くんの笑顔を見るとホッとする。何も隠さずに話せる相手は、純ちゃんと朔くんだけだ。

「悩んだけど、ちょっと体調も良くないの。お母さんも私の心配ばかりして疲れてるから、予定より早くなったの」
「まだ体調、良くないんですか? 病院にはちゃんと?」
「うん、大丈夫だよ。朔くんにはまだ言ってないんだけど、松井さんと結婚するのは、体調のこともあって」
「どういう?」

 朔くんは見当がつかないとばかりに、眉間にしわを寄せる。

「松井さんがお父さんの会社の従業員だって話はしたよね」
「ええ、優秀な方なんですよね。だから次期社長にと、望まれてると」
「そうなの。私のことがなくても、いずれは松井さんにって気持ちはあったみたい。だから松井さんも、私との結婚をお父さんに持ちかけられた時も自然なこととして考えてはくれたみたいなんだけど……」
「けど……?」
「けど、申し訳なくて」

 ちょっとため息が出る。朔くんはそのため息を違う意味で受け取ったのかもしれない。

「沙耶さんとの結婚が跡を継ぐ条件じゃないなら、今すぐする必要はないんじゃないですか? 沙耶さんの気持ちだってあるでしょう?」
「松井さんは本当に理解のある方なの。事情を話したら、私にとって最良の方法を考えてくれると言って下さって」
「どういう意味ですか? 結婚ではなく、婚約に留める……とか」
「そうじゃないの、朔くん。私は松井さんに言ったの。好きな人がいるって……」
「沙耶さん……、それは話さなくても」
「でも避けては通れないの。私……、赤ちゃんを諦めたくないから」

 一瞬、朔くんは眉をひそめた。理解できないというのが一番だったのだろう。

 何も言わない朔くんの目をまっすぐ見つめたら、朔くんの好意を受け止められなかった私の気持ちが少しは伝わったようだった。

「松井さんは自分の子として産んでもかまわないって言ってくれたの。ずっとずっと悩んで出してくれた結論だから……私、感謝してもし切れない。だから私も、松井さんとの結婚を決めたの」
「沙耶さん……それは……」
「松井さんとなら、幸せになれるかな」
「そうじゃなくて。沙耶さん、そのことを湊先輩は知ってるんですか?」

 私は口を結び、首を横に振った。
 知らないだろうというより、わからないといった気持ちの方が強い。

「お父さんは結城さんに話してくれたの。でも湊くんとの子だってことは認めないって……。だから知らないかもしれない」
「湊先輩はきっと知らないですよ。知ってたら沙耶さんに会いに来るに決まってます。先輩の気持ちはまだ変わってないでしょうから」
「朔くんは優しいからそう言ってくれるけど、今は違うかもしれないでしょ? 湊くんには湊くんの幸せがあるから、足手まといにはなりたくないの。でも、私のわがままで松井さんに迷惑かけてることもわかってるよ」
「だから俺の告白を断ったと、そう理解してもいいんですか?」

 朔くんも気持ちのやり場がなくて困ってる。そんな表情をするから、私は小さなため息を吐き出す。

「朔くんには、メリットがないもの」
「メリットがなければ、沙耶さんの苦しみを背負ったらいけないんですか? 簡単には出せない答えでも、俺だって……」
「ダメだよ、朔くん。朔くんにはもっと素敵な人がいるよ」
「沙耶さん……、そんな言い方は傷つく」

 朔くんは目を伏せ、つらそうに額に手を当てた。しかし、考えるほどの時間は与えられてないのだと理解したのか、そのまま両手で顔を覆った。

「沙耶さんがそんな結論を出す前に、もっと話を聞けば良かった」
「朔くんは十分相談に乗ってくれたよ。朔くんがいてくれたから、最良の方法が見つかったんだと思う」
「最良……」

 手のひらから面をあげ、朔くんはつぶやく。

「これが……最良の方法ですか」

 松井さんの勇気ある決断が間違っているなんて考えたくはない。これは私のわがまま。湊くんへの想いを断ち切れない私に、松井さんが出してくれた最良の……。

 だから、私は笑顔で言うのだ。

「最良の方法だと信じさせて……」
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