せめて契約に愛を

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彼に届くまでの距離

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「二人とも久しぶりね。湊は意外と元気そうじゃない」

 秀人と俺が案内された個室に入ると、待ちくたびれていた様子の円華が笑顔で立ち上がる。

 いつも完璧に美しい彼女を秀人は満足そうに眺めるが、俺は彼女にあまり興味はなく、すぐに目をそらして席に着いた。

「円華も相変わらずだな」

 秀人が言うと、「相変わらず?」と円華は不服そうに眉を寄せた。

「いや、ますます綺麗になったんじゃないか? 一人の男で満足するにはもったいないな」

 バカにするように笑う秀人を見て、円華はますます眉を寄せたが、すぐに興味を失ったのか俺の向かい側に座る。

「沙耶とはどうなってるの?」
「いきなりだな。そんなこと言わなくてもわかってるんだろ」
「わかってないから聞いてるんじゃない。結婚はしなかったの?」
「してないよ」

 円華は首をかしげる。

「そうなの? 一緒には暮らしてたんでしょう?」
「普通に生活してたよ。沙耶が今どうしてるのかなんて知らないよ」
「沙耶とは連絡取り合ってないの? じゃあ、本当に何も知らないのね」
「そう言ってるだろ」

 矢継ぎ早に質問を浴びせてくる円華から不機嫌に顔をそらすと、メニュー表を開いていた秀人が口を挟む。

「適当に注文するぜ。湊は傷心だからお手柔らかに頼むよ」
「傷心? 湊が沙耶を振ったんじゃないの?」
「さあな、俺は何も知らないよ」
「秀人の知らないは当てにならないわね。で、湊はどうなのよ」

 店員を呼ぶ秀人から俺に視線を戻した円華は、漠然とした質問を投げてくる。

「沙耶が今どうしてるのか知りたいとは思うよ」
「それは未練があるってこと? じゃあ、本当に沙耶にふられたわけ? なんだか意外だわ」
「意外か。まあでも、冷静になって考えてみたら、最初から沙耶は俺との結婚を嫌がってたんだし、意外でもないのかもな」
「あら……」

 殊勝な態度の俺を見て円華は目を丸くしたが、すぐに首を傾げた。

「知らないの? 湊。沙耶は湊となら結婚してもいいって気持ちでいたのよ? いきなり結婚っていうことには戸惑ってたけど、湊との交際には最初から前向きだったわよ」
「まさか」
「本当よ。だから思ったのよね。湊より沙耶の方が本気なのかなって。別れることがあるなら、湊から言い出すんだと思ってたわ」

 首をすくめる円華を信じられない思いで見つめる。

「沙耶の方が本気とか……ないだろ。必死だったのは、いつも俺の方だったよ」
「じゃあ、沙耶は心変わりしたのね。彼もなかなか素敵な人らしいし、両親に見込まれた人と付き合うのは、沙耶にとっても幸せなことかもしれないわね」

 円華は勝手に納得し、一人で頷いている。どうやら円華は、秀人よりは沙耶の新しい男について知っているようだ。

「両親に見込まれた男ってなんだよ?」
「え? あ、知らない? 沙耶ね、最近よくおじさんの会社の人と会ってるのよ。おじさんもそろそろ跡取りのこと考えてるんじゃないかしら? 沙耶の夫が後を継ぐなら、何も問題ないわよね」
「それこそ政略結婚だろ。沙耶が認めるとは思えないよ」

 どうして急にそんな話になるんだ、といまだに理解できない。

「だから何度も会わせてるんじゃないの? 推測に過ぎないけどね。沙耶と結婚して次期社長にならないかって話を持ちかけられたら、彼の方は拒む理由はないんじゃないかしら? そのうえ沙耶が彼を気にいるなら、おじさんの会社も安泰よ」
「なんでいきなりそんな話になるんだよ。まだ別れたばかりだよ。まるでその話があるから別れたみたいじゃないか」
「おじさんが無慈悲にそんなことするとは思えないけど、結城と結婚するよりは幸せになれるかもと思ったのかもしれないじゃない」

 円華の言い分は否定できないが、それにしても考えにくい話だとは思う。

 父親に勧められた良縁のために俺と別れたなら、最後に沙耶はどうして泣いたのか。今でもあの時の涙が忘れられない。

「円華の推測もヒドイね」

 黙って聞いていた秀人は薄笑いを浮かべながらそう言う。

「ヒドイかしら?」

 挑むような円華の視線を交わし、秀人はうなずく。

「結城は無慈悲だけどね、上條さんにとっては、湊と沙耶ちゃんが結婚した方が会社の未来は安泰さ。それを理由に、というのは考えにくいね」
「じゃあ、秀人はどう思うのよ」
「俺は別に何も思わないさ。沙耶ちゃんがただ湊にあいそを尽かしただけだろ。湊には努力が足りなかった。それだけさ」
「言えてるわね」

 すんなり納得する円華は、そっとため息をつく。

「でも残念。湊が真剣に考えてくれるならって……、沙耶は本当に結婚を楽しみにしてたのにね」

 食事が運ばれてくると、円華は口をつぐんだ。俺も言いたいことはあったが、言葉を飲み込んだ。

 俺との結婚を沙耶は楽しみにしていたと円華は言うが、本当だろうか。

 父親の持ちかけてきた縁談を受けるために、沙耶は俺の前から姿を消した。もしそうだとしたら、沙耶の最後の涙に理由もつくが、どうしてもそうは思えない。

 俺との縁談を前向きに考えてくれたのは、沙耶の父親も同じだ。こんな形で沙耶の気持ちを無視して、縁談を持ちかけるような方ではないと、断言できるほどの優しい方だ。

 沙耶にもう一度会おうか。
 俺の中に、そんな思いがふくらむ。

 秀人と円華なら、どう言うだろう。今更だと、やはり笑うだろうか。

 思いきって沙耶と会ってみようと思うと相談しようとした時、秀人が口を開いた。

「うまいな」
「でしょう? なかなか評判がいいの」

 秀人が満足そうにするのを見て、円華は嬉しそうだ。このレストランを選んだのは、どうやら円華のようだ。

「ここにはよく来るのか?」
「そうね。大学時代の友人と集まる時は利用するわ」
「ふーん。だったらあまり利用しないでおこう」
「なによ、本当に憎たらしい言い方しか出来ないのね。そんなに私に会うのがいや?」
「あまり好ましくはないね。真由香を裏切るようなことはしたくないからね」
「意味のわからないことを」

 円華は困ったように眉を寄せる。秀人の秘めた思いに、円華は触れないで来たのだろう。

「俺も少しは丸くなっただろ」
「そうかしら? 秀人は最後には筋の通ったことするじゃない」
「へえ、円華に褒められるとは思わなかったな」
「褒めたつもりはないけど。秀人も湊も、結城じゃなかったらもっと自由なのかしらって、思ったことは何度もあるわ」

 円華は哀れむような、それでいて優しい眼差しをする。

「それはそうだ。だが、俺たちは結城だから俺たちなんだろう」
「そうね。私も沙耶も、上條だからあなたたちに出会えたんだとしたら、光栄だと思うべきかしらね」
「今日は円華とこんなくだらない話をするとは思わなかったな。なあ、湊」

 急に秀人に話をふられ、俺は「あ、ああ」と曖昧にうなずく。

「ちょっと気が変わった」

 円華と俺の注目を受けながら、秀人はナイフとフォークを置いた。

「なんだよ、急に」

 秀人は俺をじっと見つめ、不意に目をそらす。無表情な横顔からは秀人の気持ちは汲み取れないが、兄がこんな風に口火を切ること自体が珍しい。

「秀人……、何か知ってるのか?」

 そう尋ねると、固唾を飲む円華と目を合わせ、秀人はうなずいた。

「沙耶ちゃんは結婚するよ、新しい男と。それは湊のためだ。俺はそれだけ、母さんから聞いてる」
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