せめて契約に愛を

水城ひさぎ

文字の大きさ
107 / 119
彼に届くまでの距離

3

しおりを挟む
***


 マンションの前まで来ると、見覚えのある車が停まっているのに気付いた。

 沙耶と別れてから、休日は自宅に帰って過ごすことが多くなっている。しかし、昨日の土曜日は仕事ということもあって、今日はマンションで過ごそうと思っていた。

 お昼ごはんを買って帰ってきたところだったが、車から降りてきた兄である秀人と顔を合わせたら、とてものんびり過ごせそうにないとため息が出る。

「珍しいな、秀人が迎えに来るなんて」
「母さんはおまえが心配で仕方ないのさ。そろそろマンションを引き払ったらどうだ?」
「まあそのうちね。沙耶の荷物はそのままだ」
「そう、そのことだが、近いうちに沙耶ちゃんの母親が荷物を引き取りに来るらしい」
「沙耶の母親が?」
「おまえのいないうちに取りに来たいらしい。立ち会いは俺がすることになったよ。おまえは余程あちらの家に嫌われたようだな」

 秀人はにやりと笑うが、彼にしては珍しく憐憫の眼差しをする。

「女は沙耶ちゃんだけじゃないさ。笹本氏のご令嬢もまだ、健気におまえの連絡を待ってるそうだ。たまには会ってやれよ」
「あんまり気が乗らないんだ」
「沙耶ちゃんは諦めろ。彼女はもう新しい男を作ったようだし、わりと幸せそうだ」
「山口朔のことならわかってるさ。あれは朔の片思いだよ」

 秀人は片方の眉をぴくりと持ち上げて、わざとらしいため息を吐いた。

「おまえは本当に何も知らないんだな。さすがに憐れむよ。気の毒な弟に、少しは情報をくれてやろうか」
「朔のことじゃないのか? なんの話をしてる?」
「俺も円華から聞いただけなんだけどな」

 秀人はそう言いながら、運転席に向かう。

「とりあえず乗れよ。今日は円華と食事の約束をしてる。おまえに一言言いたいことがあるらしい。久しぶりに三人で楽しい食事でもしようぜ」

 助手席に乗り込むとすぐ、秀人は近くのレストランへ行くと言って車を発進させた。

「円華に会うのも久しぶりだよ。秀人はよく会ってるのか?」
「いや、わざわざ会うことはないな。来月、円華の男がちょっとしたパーティーを開くらしい。俺にも来ないかって誘いの電話をしてきたんだ。といっても、ただおまえに話があっただけかもしれないけどな」
「パーティーか。沙耶は来ないんだろうな……」

 ぽつりとつぶやくと、秀人は噴き出して笑う。

「意外と未練がましいんだな。沙耶ちゃんが行方不明だって騒ぎの後、彼女に会ったんだったか?」
「ああ、もう二度と会わないって、それを言うためだけに連絡してきたんだ」
「へえ、それを言うためだけに、ね。それがいけなかったんじゃないのか? きちんと別れようなんて会ったりするから未練が残るんだよ。まあ、沙耶ちゃんとしては、きちんと区切りをつけたかったのかもしれないけどな」

 あの日のことは一生忘れないだろう。区切りをつけるというには、あまりにも残酷な時間だった。

「結局、沙耶が別れたいって言い出した理由は理解できなかったよ」
「沙耶ちゃんはなんて?」
「俺とじゃ、いろんなことを乗り越えていく自信がないとか、そんなこと言ってたな」

 ため息をつく俺を横目に、秀人はにやにやする。

「まあ、そうだろうな。沙耶ちゃんもよくわかってるじゃないか。つまり、頼りないって言われたんだろ? そんな風に言われたら理解したくもないよな」
「そんなに頼りないかよ」
「そうだなー、少なくともおまえは何も知ろうとはしないな。小さな異変に気付いても、大したことはないと勝手に判断するところは昔から変わらないしな。面倒くさがってたら女は逃げるさ」
「結構、大事にしてたんだけどな」
「確かに、おまえにしてはそうかもな。でもさ、もう忘れろよ。沙耶ちゃんはもう戻らないよ」

 秀人の車はレストランの駐車場に入っていく。広めの駐車場だが、見覚えのある円華の赤い高級車が目を引く。円華は先に来ているようだ。何を言われるのかと思うと憂鬱だ。

「降りるぞ」

 と、秀人に促され、シートベルトに手をかける。ふと、さっきの秀人の言葉を思い出して、車を降りようとする兄を引き止めた。

「そう言えば、さっき沙耶に新しい男がいるとか言ったな。あれはどういう意味だよ?」
「見たんだよ、沙耶ちゃんが男と食事してるのをさ。彼女の父親も一緒だったからな、それなりの関係だろうと思って声かけたら、沙耶ちゃんは『理解のある素敵な方』だなんて嬉しそうにしてたよ」

 こともなげに秀人は言うと車を降りていく。俺は唖然としたが、慌てて助手席から飛び出すと秀人を追いかけた。

「いつ? いつ、沙耶に会ったんだよ」
「いつだったかな……。まあ、最近だよ。その後、円華から電話があって、沙耶ちゃんの話になってな。円華も言ってたよ」
「円華がなんて?」
「沙耶ちゃんが父親の会社の従業員と時々会ってるってさ。年齢は俺よりも上らしいが、まあ悪くはない男だったよ」

 秀人の話に愕然とする。予想もしてなかったことだ。

「見合いでもしたのか?」
「詳しくは知らないさ。円華も直接沙耶ちゃんに聞いたわけじゃないらしいしな。そんなことがあるから、円華は沙耶ちゃんとおまえがどうなってるのか確認したくて、俺に電話してきたってとこだろう」
「……沙耶がそんな男と? 理解できない」
「理解したくないの間違いだろう?」

 笑う秀人に、俺はかみつく。

「山口朔、朔を知ってるだろう? 沙耶は朔を気に入ってたんだ。朔以外の男を選ぶ理由はないよ」
「沙耶ちゃんが誰を選ぶかなんて、俺たちにはわからないことだろ。ちょうど今、その男と山口朔をてんびんにかけてるのかもしれないしな」
「沙耶がそんな……」

 何度聞いても、どう聞いても信じられない話だ。

「少なくとも、沙耶ちゃんはその男を嫌がってはなかったよ。よほど包容力のある男なんだろうさ」
「俺には包容力がないって言いたいのかよ」
「過敏だなー。もう別れたんだから、沙耶ちゃんが誰と付き合おうが関係ないだろ。でも俺はまあ、喜んでるぜ」
「喜んでる?」
「新しい男に目を向ける余裕があって良かったと、俺は思うよ」

 俺を振り返る秀人は、「別れた女の幸せを願える男になれよ」と目を細めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

私は5歳で4人の許嫁になりました【完結】

Lynx🐈‍⬛
恋愛
 ナターシャは公爵家の令嬢として産まれ、5歳の誕生日に、顔も名前も知らない、爵位も不明な男の許嫁にさせられた。  それからというものの、公爵令嬢として恥ずかしくないように育てられる。  14歳になった頃、お行儀見習いと称し、王宮に上がる事になったナターシャは、そこで4人の皇子と出会う。 皇太子リュカリオン【リュカ】、第二皇子トーマス、第三皇子タイタス、第四皇子コリン。 この4人の誰かと結婚をする事になったナターシャは誰と結婚するのか………。 ※Hシーンは終盤しかありません。 ※この話は4部作で予定しています。 【私が欲しいのはこの皇子】 【誰が叔父様の側室になんてなるもんか!】 【放浪の花嫁】 本編は99話迄です。 番外編1話アリ。 ※全ての話を公開後、【私を奪いに来るんじゃない!】を一気公開する予定です。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

処理中です...