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彼に届くまでの距離
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マンションの前まで来ると、見覚えのある車が停まっているのに気付いた。
沙耶と別れてから、休日は自宅に帰って過ごすことが多くなっている。しかし、昨日の土曜日は仕事ということもあって、今日はマンションで過ごそうと思っていた。
お昼ごはんを買って帰ってきたところだったが、車から降りてきた兄である秀人と顔を合わせたら、とてものんびり過ごせそうにないとため息が出る。
「珍しいな、秀人が迎えに来るなんて」
「母さんはおまえが心配で仕方ないのさ。そろそろマンションを引き払ったらどうだ?」
「まあそのうちね。沙耶の荷物はそのままだ」
「そう、そのことだが、近いうちに沙耶ちゃんの母親が荷物を引き取りに来るらしい」
「沙耶の母親が?」
「おまえのいないうちに取りに来たいらしい。立ち会いは俺がすることになったよ。おまえは余程あちらの家に嫌われたようだな」
秀人はにやりと笑うが、彼にしては珍しく憐憫の眼差しをする。
「女は沙耶ちゃんだけじゃないさ。笹本氏のご令嬢もまだ、健気におまえの連絡を待ってるそうだ。たまには会ってやれよ」
「あんまり気が乗らないんだ」
「沙耶ちゃんは諦めろ。彼女はもう新しい男を作ったようだし、わりと幸せそうだ」
「山口朔のことならわかってるさ。あれは朔の片思いだよ」
秀人は片方の眉をぴくりと持ち上げて、わざとらしいため息を吐いた。
「おまえは本当に何も知らないんだな。さすがに憐れむよ。気の毒な弟に、少しは情報をくれてやろうか」
「朔のことじゃないのか? なんの話をしてる?」
「俺も円華から聞いただけなんだけどな」
秀人はそう言いながら、運転席に向かう。
「とりあえず乗れよ。今日は円華と食事の約束をしてる。おまえに一言言いたいことがあるらしい。久しぶりに三人で楽しい食事でもしようぜ」
助手席に乗り込むとすぐ、秀人は近くのレストランへ行くと言って車を発進させた。
「円華に会うのも久しぶりだよ。秀人はよく会ってるのか?」
「いや、わざわざ会うことはないな。来月、円華の男がちょっとしたパーティーを開くらしい。俺にも来ないかって誘いの電話をしてきたんだ。といっても、ただおまえに話があっただけかもしれないけどな」
「パーティーか。沙耶は来ないんだろうな……」
ぽつりとつぶやくと、秀人は噴き出して笑う。
「意外と未練がましいんだな。沙耶ちゃんが行方不明だって騒ぎの後、彼女に会ったんだったか?」
「ああ、もう二度と会わないって、それを言うためだけに連絡してきたんだ」
「へえ、それを言うためだけに、ね。それがいけなかったんじゃないのか? きちんと別れようなんて会ったりするから未練が残るんだよ。まあ、沙耶ちゃんとしては、きちんと区切りをつけたかったのかもしれないけどな」
あの日のことは一生忘れないだろう。区切りをつけるというには、あまりにも残酷な時間だった。
「結局、沙耶が別れたいって言い出した理由は理解できなかったよ」
「沙耶ちゃんはなんて?」
「俺とじゃ、いろんなことを乗り越えていく自信がないとか、そんなこと言ってたな」
ため息をつく俺を横目に、秀人はにやにやする。
「まあ、そうだろうな。沙耶ちゃんもよくわかってるじゃないか。つまり、頼りないって言われたんだろ? そんな風に言われたら理解したくもないよな」
「そんなに頼りないかよ」
「そうだなー、少なくともおまえは何も知ろうとはしないな。小さな異変に気付いても、大したことはないと勝手に判断するところは昔から変わらないしな。面倒くさがってたら女は逃げるさ」
「結構、大事にしてたんだけどな」
「確かに、おまえにしてはそうかもな。でもさ、もう忘れろよ。沙耶ちゃんはもう戻らないよ」
秀人の車はレストランの駐車場に入っていく。広めの駐車場だが、見覚えのある円華の赤い高級車が目を引く。円華は先に来ているようだ。何を言われるのかと思うと憂鬱だ。
「降りるぞ」
と、秀人に促され、シートベルトに手をかける。ふと、さっきの秀人の言葉を思い出して、車を降りようとする兄を引き止めた。
「そう言えば、さっき沙耶に新しい男がいるとか言ったな。あれはどういう意味だよ?」
「見たんだよ、沙耶ちゃんが男と食事してるのをさ。彼女の父親も一緒だったからな、それなりの関係だろうと思って声かけたら、沙耶ちゃんは『理解のある素敵な方』だなんて嬉しそうにしてたよ」
こともなげに秀人は言うと車を降りていく。俺は唖然としたが、慌てて助手席から飛び出すと秀人を追いかけた。
「いつ? いつ、沙耶に会ったんだよ」
「いつだったかな……。まあ、最近だよ。その後、円華から電話があって、沙耶ちゃんの話になってな。円華も言ってたよ」
「円華がなんて?」
「沙耶ちゃんが父親の会社の従業員と時々会ってるってさ。年齢は俺よりも上らしいが、まあ悪くはない男だったよ」
秀人の話に愕然とする。予想もしてなかったことだ。
「見合いでもしたのか?」
「詳しくは知らないさ。円華も直接沙耶ちゃんに聞いたわけじゃないらしいしな。そんなことがあるから、円華は沙耶ちゃんとおまえがどうなってるのか確認したくて、俺に電話してきたってとこだろう」
「……沙耶がそんな男と? 理解できない」
「理解したくないの間違いだろう?」
笑う秀人に、俺はかみつく。
「山口朔、朔を知ってるだろう? 沙耶は朔を気に入ってたんだ。朔以外の男を選ぶ理由はないよ」
「沙耶ちゃんが誰を選ぶかなんて、俺たちにはわからないことだろ。ちょうど今、その男と山口朔をてんびんにかけてるのかもしれないしな」
「沙耶がそんな……」
何度聞いても、どう聞いても信じられない話だ。
「少なくとも、沙耶ちゃんはその男を嫌がってはなかったよ。よほど包容力のある男なんだろうさ」
「俺には包容力がないって言いたいのかよ」
「過敏だなー。もう別れたんだから、沙耶ちゃんが誰と付き合おうが関係ないだろ。でも俺はまあ、喜んでるぜ」
「喜んでる?」
「新しい男に目を向ける余裕があって良かったと、俺は思うよ」
俺を振り返る秀人は、「別れた女の幸せを願える男になれよ」と目を細めた。
マンションの前まで来ると、見覚えのある車が停まっているのに気付いた。
沙耶と別れてから、休日は自宅に帰って過ごすことが多くなっている。しかし、昨日の土曜日は仕事ということもあって、今日はマンションで過ごそうと思っていた。
お昼ごはんを買って帰ってきたところだったが、車から降りてきた兄である秀人と顔を合わせたら、とてものんびり過ごせそうにないとため息が出る。
「珍しいな、秀人が迎えに来るなんて」
「母さんはおまえが心配で仕方ないのさ。そろそろマンションを引き払ったらどうだ?」
「まあそのうちね。沙耶の荷物はそのままだ」
「そう、そのことだが、近いうちに沙耶ちゃんの母親が荷物を引き取りに来るらしい」
「沙耶の母親が?」
「おまえのいないうちに取りに来たいらしい。立ち会いは俺がすることになったよ。おまえは余程あちらの家に嫌われたようだな」
秀人はにやりと笑うが、彼にしては珍しく憐憫の眼差しをする。
「女は沙耶ちゃんだけじゃないさ。笹本氏のご令嬢もまだ、健気におまえの連絡を待ってるそうだ。たまには会ってやれよ」
「あんまり気が乗らないんだ」
「沙耶ちゃんは諦めろ。彼女はもう新しい男を作ったようだし、わりと幸せそうだ」
「山口朔のことならわかってるさ。あれは朔の片思いだよ」
秀人は片方の眉をぴくりと持ち上げて、わざとらしいため息を吐いた。
「おまえは本当に何も知らないんだな。さすがに憐れむよ。気の毒な弟に、少しは情報をくれてやろうか」
「朔のことじゃないのか? なんの話をしてる?」
「俺も円華から聞いただけなんだけどな」
秀人はそう言いながら、運転席に向かう。
「とりあえず乗れよ。今日は円華と食事の約束をしてる。おまえに一言言いたいことがあるらしい。久しぶりに三人で楽しい食事でもしようぜ」
助手席に乗り込むとすぐ、秀人は近くのレストランへ行くと言って車を発進させた。
「円華に会うのも久しぶりだよ。秀人はよく会ってるのか?」
「いや、わざわざ会うことはないな。来月、円華の男がちょっとしたパーティーを開くらしい。俺にも来ないかって誘いの電話をしてきたんだ。といっても、ただおまえに話があっただけかもしれないけどな」
「パーティーか。沙耶は来ないんだろうな……」
ぽつりとつぶやくと、秀人は噴き出して笑う。
「意外と未練がましいんだな。沙耶ちゃんが行方不明だって騒ぎの後、彼女に会ったんだったか?」
「ああ、もう二度と会わないって、それを言うためだけに連絡してきたんだ」
「へえ、それを言うためだけに、ね。それがいけなかったんじゃないのか? きちんと別れようなんて会ったりするから未練が残るんだよ。まあ、沙耶ちゃんとしては、きちんと区切りをつけたかったのかもしれないけどな」
あの日のことは一生忘れないだろう。区切りをつけるというには、あまりにも残酷な時間だった。
「結局、沙耶が別れたいって言い出した理由は理解できなかったよ」
「沙耶ちゃんはなんて?」
「俺とじゃ、いろんなことを乗り越えていく自信がないとか、そんなこと言ってたな」
ため息をつく俺を横目に、秀人はにやにやする。
「まあ、そうだろうな。沙耶ちゃんもよくわかってるじゃないか。つまり、頼りないって言われたんだろ? そんな風に言われたら理解したくもないよな」
「そんなに頼りないかよ」
「そうだなー、少なくともおまえは何も知ろうとはしないな。小さな異変に気付いても、大したことはないと勝手に判断するところは昔から変わらないしな。面倒くさがってたら女は逃げるさ」
「結構、大事にしてたんだけどな」
「確かに、おまえにしてはそうかもな。でもさ、もう忘れろよ。沙耶ちゃんはもう戻らないよ」
秀人の車はレストランの駐車場に入っていく。広めの駐車場だが、見覚えのある円華の赤い高級車が目を引く。円華は先に来ているようだ。何を言われるのかと思うと憂鬱だ。
「降りるぞ」
と、秀人に促され、シートベルトに手をかける。ふと、さっきの秀人の言葉を思い出して、車を降りようとする兄を引き止めた。
「そう言えば、さっき沙耶に新しい男がいるとか言ったな。あれはどういう意味だよ?」
「見たんだよ、沙耶ちゃんが男と食事してるのをさ。彼女の父親も一緒だったからな、それなりの関係だろうと思って声かけたら、沙耶ちゃんは『理解のある素敵な方』だなんて嬉しそうにしてたよ」
こともなげに秀人は言うと車を降りていく。俺は唖然としたが、慌てて助手席から飛び出すと秀人を追いかけた。
「いつ? いつ、沙耶に会ったんだよ」
「いつだったかな……。まあ、最近だよ。その後、円華から電話があって、沙耶ちゃんの話になってな。円華も言ってたよ」
「円華がなんて?」
「沙耶ちゃんが父親の会社の従業員と時々会ってるってさ。年齢は俺よりも上らしいが、まあ悪くはない男だったよ」
秀人の話に愕然とする。予想もしてなかったことだ。
「見合いでもしたのか?」
「詳しくは知らないさ。円華も直接沙耶ちゃんに聞いたわけじゃないらしいしな。そんなことがあるから、円華は沙耶ちゃんとおまえがどうなってるのか確認したくて、俺に電話してきたってとこだろう」
「……沙耶がそんな男と? 理解できない」
「理解したくないの間違いだろう?」
笑う秀人に、俺はかみつく。
「山口朔、朔を知ってるだろう? 沙耶は朔を気に入ってたんだ。朔以外の男を選ぶ理由はないよ」
「沙耶ちゃんが誰を選ぶかなんて、俺たちにはわからないことだろ。ちょうど今、その男と山口朔をてんびんにかけてるのかもしれないしな」
「沙耶がそんな……」
何度聞いても、どう聞いても信じられない話だ。
「少なくとも、沙耶ちゃんはその男を嫌がってはなかったよ。よほど包容力のある男なんだろうさ」
「俺には包容力がないって言いたいのかよ」
「過敏だなー。もう別れたんだから、沙耶ちゃんが誰と付き合おうが関係ないだろ。でも俺はまあ、喜んでるぜ」
「喜んでる?」
「新しい男に目を向ける余裕があって良かったと、俺は思うよ」
俺を振り返る秀人は、「別れた女の幸せを願える男になれよ」と目を細めた。
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