せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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彼に届くまでの距離

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「湊くん……、違うよ。朔くんのことは、ちゃんと考えるけど……」
「考える? つまり前向きなんだ、君は。朔と君がどうなろうと、仕事の上で朔を冷遇したりはしないさ。まあ、彼は格別仕事が出来るわけじゃないからね、そのうち俺の前からいなくなるだろう」
「そうじゃないよ。そういうこと言いに来たわけじゃないの」
「じゃあなんだよ」

 湊くんの目に怒りが浮かぶから、息を飲む。

 私はいつも彼を煩わせる。はっきり言えばいいだけのことが、上手に話せないから。

「朔くんの気持ちは嬉しかったけど、付き合うとか……そういうことはないよ。朔くんにはちゃんとわかってもらえるように話すつもりなの。だから誤解しないで」
「誤解……か。まるで君は、まだ俺を好きみたいな言い方するんだな」
「湊くん……」

 だって好きだから。
 ずっと好きでいるって言ったじゃない。

 湊くんに好きな人が出来ても、私は湊くんだけを好きでいる。湊くん以外の人と結婚するなんて、考えられるわけないのに。

「そんな目をするから、誤解するんだよ。君は何もわかってないな……」

 湊くんの大きな手が私の髪を撫でる。

「湊くん……、私……」

 懐かしい彼の手に涙が込み上げる。好きだって気持ちを口にして元通りになれるなら、何度だって言うのに。でもそうじゃないから……。

「俺はまだ、君が好きだよ。あんな風に別れを切り出されたって、納得できるわけないだろう?」
「湊くん……、ダメだよ……」
「君が期待させるからいけないんだ」

 湊くんの顔がそっと近づき、私の瞳は臆病に揺れる。彼に触れたい、触れたらいけない。相反する想いに揺らぎながら、私は目を閉じる。ゆっくりと触れ合う唇は、次第にお互いを求め、深く重なっていった。

 湊くんの腕が私の腰を抱き寄せる。重なり合う唇に愛しさは込み上げて、お互いに離れられない。

 つい昨日はこんな風に綺麗な女性を抱き寄せていたのに、湊くんは私を好きだと言う。

 昨日の彼女の気持ちを思ったら、私のしていることは間違っていて、湊くんとの赤ちゃんを産みたいだなんて口にするのも間違っているような気がしてくる。

「沙耶……、戻ってこないか?」

 私の背中に腕を回し、耳元でささやく彼の言葉は嬉しい。

「ダメだよ、湊くん。もう別れたんだから、そんな話はしたくないよ」
「じゃあなんで、キスを拒まない?」
「湊くんもおかしいよ」
「俺が? どうして」

 湊くんの胸を押して突き放す。戻りたい。帰りたい。ずっと一緒にいたい。そう思えば思うほど、彼の側にいてはいけないと思う。

「新しい恋人がいるのに、こんなことしたらダメだよ……。私は遊び相手にもならないよ」
「恋人なんていない。君は勘違いしてるよ。俺の周りにいる女は、結城と結婚したい女ばかりさ」
「それでも、結婚するんでしょう?」

 好きじゃなくても、湊くんは政略結婚を受け入れるだろう。そういう家に生まれた人だ、彼は。
 だから湊くんのお母さんは、別れた後のことは心配いらないと言ったのだ。

「君さえ帰って来てくれるなら、誰とも結婚しないよ」

 湊くんは真剣な目で私と見つめ合う。その言葉に嘘偽りはないと感じられる。私を大切に思ってくれているのだ。それだけで幸せだと思う。

「湊くんは今でも……」
「なに?」
「今でも、私との子供が欲しかったって思ってる?」

 湊くんは一瞬沈黙した。だけどすぐに、うなずいた。

「思ってるよ。思ってるよ、沙耶。でもそれがどうしたんだ。沙耶は欲しくないって思ってるのに、俺が強要したと思ってるなら誤解だ。それが怖くて出ていったなら、何も心配しなくていい。もう無理強いはしないよ」
「……湊くん」
「沙耶を思うあまりにしたことで君を傷つけたなら謝るよ」
「湊くん、違うよ。無理強いなんてなかったよ。だから謝らないで」
「だったらどうして……」

 悲壮な顔をする湊くんは見ていられない。目をそらし、私は言う。

「私も湊くんとの赤ちゃん、産みたいって思ってる。でもごめんね」
「ごめん……って」
「会うのはこれが最後だよ。それが伝えたかったの」
「沙耶……、なんで」

 もう一度、勇気を出して湊くんと見つめ合う。ちゃんと言わなきゃいけないって思う。

「湊くんに好きになってもらえて嬉しかったよ。でもね、私はいろんなこと乗り越えられるほど、湊くんのこと好きじゃなかったみたい……」
「何があっても二人で乗り越えていく自信がないから別れるって?」

 そんな理由か、と理解しがたい表情で湊くんは私を見つめる。でも私はあえて微笑むのだ。最後ぐらいは笑っていたいから。

「大事なことだよ。結婚って、きっとそういうものだと思う」
「沙耶の気持ちはもう変わらないんだな」

 うん、とうなずく私から、湊くんはそっと離れてため息をつく。

「俺はずっと君にふられてばかりだ」
「そんなことないよ」
「あるよ。あるから、君のことをずっと諦められないでいる。だから……」

 湊くんは私に伸ばしかけた手を引っ込めて拳を握る。

「俺は結婚するよ」
「……湊くん」
「君より先に結婚する。そうしたら俺は、君をふったことになるだろう?」

 前髪をくしゃりと握りつぶし、湊くんはつらそうに眉を寄せた。

「俺が君を捨てたんだ。だから未練なんて残らない」
「湊くん、ありがとう」
「礼なんて……」

 彼は苦しそうに頭を振る。

「湊くんは幸せな結婚が出来ると思うけど、私……、祈ってるね」
「沙耶……。そんな幸せそうに笑うなよ」
「幸せだよ、私。湊くんの気持ちが私を救ってくれたから」
「意味のわからないことを……」
「湊くん、もう行くね。お昼ごはん食べる時間、なくなっちゃったね」

 湊くんはもう何も言わなかった。

 本当にこれが最後なんだってわかってくれたみたいに、静かに流れ落ちる私の涙を、ただじっと見つめていた。
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