せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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彼に届くまでの距離

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***


 沙耶の自宅のチャイムを鳴らすのは、これが最後だろう。そんな気持ちで、指先にしっかりと力を込めて、ゆっくりとボタンを押した。

 すぐに沙耶の母親らしき声で、「はい」と応答はあったものの、俺が「結城です」と名乗った後は無言が続いた。

 ひどく嫌われたものだ。しかしそれも当然と言えば当然だ。
 沙耶が抱える悩みに気づきもしないで、ひとりよがりに感情をむき出しにしてきた俺に対する当然の報いなのだろう。

 もうこのまま誰も応答してくれないかもしれない。
 途方にくれかけた頃、玄関につながる長いアプローチの奥に、一人の女性が現れた。

「湊くん……っ」

 アイボリーのワンピースに、かかとの低いパンプスを履いた彼女は、足元に気を遣いながらも、まるで俺に一秒でも早く近づきたいとばかりに駆け寄ってくる。

「沙耶」

 思わず俺も玄関の門を押し開けた。沙耶とまたやり直せるんじゃないか、そんな風に錯覚するほど、彼女の目は一途に俺を見つめる。

「湊くん、どうしたの? お父さんが迎えに行きなさいって言うから。お父さんに呼び出されたの?」
「いや、違うよ。君のお父さんに話があって来たんだ。話だけは聞くと言われたけど、会ってもらえないかと思ってたよ」
「話って?」
「まあ、いろいろさ。君が結婚する前の、最後の悪あがきだな、きっと」
「湊くん……」
「来月なんだろ? 挙式」

 沙耶はうなずきつつ、目を伏せる。

「とんとん拍子だな。何も弊害がないと、簡単に君と結婚できるんだな」

 ハッと沙耶は顔をあげ、首を横にふる。その目は俺を非難するようで。

「亮治さんはすごく悩んでくれたの。簡単じゃないよ。ただ、お腹が目立つ前に挙式だけはって。亮治さんだって、もっと違う形で結婚したかったかもしれないのに、そんな言い方はないよ」
「俺はどんな形でも良かったんだ。君と結婚できるなら、誰にも祝福されなくたってかまわないと思ってた」
「そんな話をしに来たの?」
「確認したくてさ」
「確認?」
「本当に、俺の子がいるのか……」
「え……」

 沙耶の手がお腹に当てられる。その腕をつかみ、もう片方の手を沙耶の手に重ねた。

「実感したいんだ。俺の子だって……」
「本当だよ。湊くんの子じゃないなんてことないよ。だって……」
「だって、なに? 君に触れたのは俺だけだから? だから俺の子だって?」
「そう、だよ……」

 愛おしさが込み上げて、「沙耶」と彼女の頬を撫でる。拒まない彼女がうらめしくもあり、それでいてもやはりなお愛しい。

「今でも……君に触れたのは俺だけ?」

 沙耶の目が動揺する。それは否定なのかよくわからない。

「キスはした?」

 親指で彼女の下唇をそっとなぞる。否定しない唇に、俺は顔を寄せずにはいられない。

「今でもキスも出来ないような相手なら、結婚なんて無理だ」

 唇を重ねようとする俺を突き放すように、沙耶の細い腕が俺の胸を押す。

「したよ……、亮治さんと」

 沙耶はうつむく。苦しげな横顔を見せるのは、まだ俺を想うからだと信じたい。それでも俺の胸は傷つき、うずく。

「湊くんとの約束……破ったの」
「沙耶……」
「私、約束守りたかったよ」

 沙耶は両手で顔を覆う。頬に流れ出した涙は後から後からとどまることなく落ちてくる。

「湊くんのこと、ずっとずっと好きでいたかった……」
「沙耶、嫌なら結婚なんてしなくていいんだ」
「ダメだよ……。湊くんとの赤ちゃん生みたいから、結婚しないなんて出来ないよ」
「子供が出来なかったら、結婚しなかった?」
「そうだよ。赤ちゃん産むために結婚したいってわがまま、亮治さんは受け入れてくれたの。亮治さんとなら幸せになれるって思ったから結婚するの。もう湊くんのことは好きじゃないよ」
「それは本心なのか?」

 俺はいつも本心を見誤ってきた。沙耶の言葉一つ一つが本音だなんて信じていた俺は愚かだった。

「君の本心が聞きたいんだよ。君と別れて、苦しいのは俺も同じだ」

 沙耶は涙にぬれた目で俺を見つめる。俺への愛情に溢れたその目は、俺の願望がそう見せるものだとは思いたくない。

「湊くん……」
「沙耶、本当の気持ちを教えてくれ」

 沙耶の髪をそっと撫でる。抱きしめたい。そうしたらすぐに心をつなぐことは出来るのに。

「湊くんを好きになったことは後悔してないよ。本当の気持ちは、それだけだよ……」

 沙耶は不意に俺の胸にしがみつき、背中に腕を回してきた。

「今だけ……今だけこうしてて。もう湊くんのことは考えないようにするから」
「今だけなんて、酷だ」

 俺も沙耶を抱きしめようと腕を伸ばした。
 抱きしめたら、沙耶をもう二度と離さないつもりだった。
 しかし、沙耶に触れようとした瞬間、彼女は俺の胸を押し、うつむいたまま走り去った。まるで俺の気持ちから逃れるかのようだった。
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