せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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彼に届くまでの距離

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***


 松井亮治さんの運転する車で、ホテルのレストランへとやってきた。
 ワインを口にする彼に戸惑う中、私は前から尋ねてみたいと思っていたことを口にした。

「亮治さんは三人兄弟の次男なの? お父さんがそう言ってたわ」
「ええ、そうです。男ばかりの兄弟で、結婚してないのは僕ぐらいのものです」
「結婚を考えたことはなかったの?」
「どうだろう。仕事がとにかく楽しかったし、やりがいもあったので、あまり積極的に考えたことはなかったかもしれませんね」

 亮治さんは、女性関係のことで気にすることは何もないと、そっと微笑む。

 リスクのある女性との結婚を選んだ亮治さんを疑ってるように聞こえてしまったのかもしれない。そう反省しながら、私もそうじゃないのだと話す。

「私、お父さんの会社のこととか、本当のところはよくわからなくて。また教えてください。亮治さんのお手伝いが出来るようにならなくちゃ」
「それは嬉しいな。正直言うと、僕も不安だったので」
「不安?」
「それはそうでしょう? 僕も一人の人間です。思いがけない出来事に戸惑ったりもします」

 亮治さんは頼りなげに微笑む。

「……亮治さん、ごめんなさい。私のせいですね……」
「いえ、そうではなくて。実のところ、社長がそこまで僕を買ってくれているとは思っていなかったので」
「私のことがなくても、いずれは亮治さんにお任せしたいと思ってたみたいだから、そのことは自信を持ってくださって大丈夫です。私のことは……付属みたいなもので」
「付属だなんて」

 亮治さんは困り顔で首を横に振る。

「僕は第一にあなたのことを考えましたよ。僕にとっては最良の結婚でも、あなたにとっては違うかもしれない。そんな風に悩みました」
「結婚は私と父が望んだことだから、後悔するとかはないんです」
「そうですか。そうはっきり言ってもらえると少しは安心します」

 そう穏やかに言って、亮治さんはまた一口ワインを口にする。

「あまり飲みすぎないで下さいね。あの……、お車だし……タクシーで帰っても大変でしょう?」
「一口でも口にした時点で、帰る気はないんです。いや、帰る気がないから酒を飲んだんです」
「今日はホテルに泊まるの?」

 それなら安心だと、ホッと胸をなでおろす。車で帰ると言い出したら、どうたしなめたらいいのだろうと正直不安だったのだ。

「部屋はもう取ってあります。鍵もここに」

 亮治さんは胸に手を当てる。

「最初から泊まる予定だったんですね。あ、私のことは心配しないで。タクシーで帰るから」
「心配などしてないし、タクシーを呼ぶ必要もありません」
「え……?」
「ホテルは二人分で予約してありますから」

 驚きで薄く開いた唇が閉じ切らないうちに、亮治さんは立ち上がる。

「そろそろ部屋へ行きましょうか。続きはゆっくり部屋で話しましょう」
「部屋に行くって……」
「社長の許可は取ってありますから、ご自宅に連絡する必要もないですよ」
「でもそんな……急だし」
「嫌なら、無理にとは言いません。でも、いずれは乗り越えなければいけませんよ」

 差し出された手のひらは大きくて、私を怖がらせることなく、それ以上は近づかない。

「亮治さんの気持ちには……応えたいとは思います」

 ただ思うのと、実際に触れ合うのとではきっと違う。

「大丈夫です。無理強いはしません」

 その一言で心が揺らいだわけじゃない。断る理由はないと思ったから、私は手を伸ばした。

「あの……亮治さん……」

 亮治さんの手に手を重ねると、彼も安堵したのか、肩の力を抜いて、優しく私の手を引いた。

「そう言えば、まだ口にしていなかったかもしれない」
「何を?」

 見上げる先には、亮治さんの照れたような笑顔。こんな自然な笑顔は初めて見たような気がした。

「僕はあなたが好きですよ。純粋に、好きだなと思えています」

 優しい亮治さんの笑顔に、私の頬もそっと赤らんだ。

 この人となら、生まれてくる赤ちゃんを大切に育てていけるだろう。この人となら、湊くんは約束を反故にしようとしている私を許してくれるだろう。そんな風に思えた。

「きっとあなたを好きな男性はたくさんいるでしょうに、僕で本当に良かったんでしょうか?」
「亮治さんで良かったと思える人生にしたいです」

 そう言うと、亮治さんはハッとしたように息を吸って、私の手を優しく握りしめた。

「当たり前のことを言わせてしまいましたね。不安になってばかりいては夫失格だ」
「不安にさせてるのは私だから。亮治さんの苦しみを少しだけでも癒やしてあげれるなら私……」
「それ以上を口にする必要はないですよ。僕はもう心を決めています」

 ホテルを予約した時から、亮治さんは私と恋人になる決意をしてくれていたのだ。

 好きでもない人との突然の結婚話がいかに彼に負担をかけたのか、その気持ちは痛いほどわかる。だからこそ、私は彼を拒む理由なんてないのだ。

 手を引かれたら、それでも怖気付く私がいて。

「でも……あの、ちょっと私も不安だから」

 歩き出す亮治さんの背中に声をかけたら、彼は振り向いて私に顔を近づける。

「大丈夫です。無理はさせませんから」

 耳元で囁く亮治さんの声にどきりとする。

 本当に受け入れられるだろうか。不安だけど、胸の高鳴りは正常な判断を失わせるほどに激しくて。

 そしてまた、手を引かれて私は歩き出した。



「しばらく忙しくなりそうですね。結婚式は挙げたいとの社長の意向で。いくつか式場の候補もあります。ご覧になりますか?」

 ホテルの部屋に入ると、亮治さんはすぐに私の体を気遣って椅子に座るように促してくれた。
 そして、飲み物をテーブルの上に用意して、ビジネスバッグからパンフレットをいくつか取り出す。

「お父さんは家族だけでと言ってたけど、亮治さんはそれでいいの?」
「もちろん。両親も突然の話に驚いてはいますが祝福してくれています」
「でもあの……私の体のことは……」

 お腹にそっと手を当てると、亮治さんは眉を頼りなげに下げて、その大きな手を私の手に重ねる。

「僕の子だと、伝えてあります。だから何も心配いらない」
「亮治さん……、本当にいいの?」
「今更そんな話は必要ないでしょう。両親には優しい嘘をつくのです。もしいずれ疑念が浮かぶようなことがあっても、このことは決して他言しません」
「亮治さんにつらい思いをさせて……私、どう謝ったらいいのか……」
「謝ることなんてないでしょう。僕を傷つけていると思うなら、僕を好きになる努力をして下さい」
「それはもう。亮治さんを好きにならないわけはないわ……」

 それは感謝の上に成り立つ愛情だけれど、私はきっと湊くんを好きになったように、亮治さんを愛することが出来るだろう。

「彼はまだあなたを好きみたいだ」

 亮治さんは不安げに私の頬に手を当てる。

「愛し合うあなたたちの幸せを願うべきだと思うのに、あなたに会うたびに、そうならなければいいと願う僕がいるのも事実です」

 うつむく私の背中に回る亮治さんの腕は優しい。

「今夜は約束を」

 目を上げる私に、亮治さんの顔が近づく。

「僕はあなたを離さない約束を。あなたは僕から離れない約束を……」
「亮治さん……」
「目を閉じて、沙耶」

 亮治さんはそう優しく囁いて、私の唇に唇を寄せた。
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