せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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彼に届くまでの距離

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「湊さんは聞いたの? 沙耶さんに」
「ああ、さっき聞いた。だから来たんだ。母さんだっておかしいって思うだろ。今の沙耶の状況を考えたら、他の男と結婚するなんてあり得ないだろ」
「沙耶さんのお腹の中の赤ちゃんのことを言っているの?」

 やっぱり母はそのことを知っていた。知らなかったのは俺だけかと思うと悔しい。

「そうだよ。俺に隠したままで過ごせると思ってる父さんはおかしいよ。沙耶だって同じさ」
「湊さん、少し誤解してるわ」
「誤解? 今更何を……」

 母はゆるりと首を傾げて、悩ましげに眉を寄せる。そして、「そうね、何から話したらいいのかしら……」と言いながら、片方の頬に手を当てる。
 そしてしばらくすると、ゆっくりと傾げた首を戻しながら俺を見つめた。

「さっきからあなた、お父さんの批判ばかりしているけれど、沙耶さんに湊さんと別れるように言ったのは私なのよ」
「母さんが?」

 と、驚きで眉をひそめる。しかし同時に、沙耶が帰って来なくなった日が、母に会うためにこの家へ来た日だったと思い出す。

「沙耶を呼び出したのはそのため? 母さんに料理を習うんだって、沙耶は楽しみに出かけていったのに」

 まさか、別れ話を持ちかけられるなんて思ってもいなかっただろう。
 当たり前の毎日は続いていくんだと俺が信じていたように、沙耶も信じていただろう。

「そうでもしなければ、沙耶さんと二人できちんと話をする時間なんてないでしょう? 沙耶さんは納得してくれたのだから、もう湊さんが悩むことはないわ」
「納得なんてしてないさ。仕方なく納得したふりしてるだけだろ」
「沙耶さんは沙耶さんが望む道を選んだだけよ。ただ湊さんとの結婚は諦めて欲しいと、私はお願いしただけ。別れを決めたのは沙耶さんよ」
「だからなんで? なんで沙耶と別れなきゃいけないんだよ」

 母の言い分が、まったく理解できない。

「どんな理由を並べても湊さんは納得しないでしょう? だから沙耶さんにお願いしただけよ」
「理由は何でもいいって言うのかよ。ただ沙耶が気に入らない。それだけだって、はっきり言えばいいんだ。沙耶だけじゃない。父さんが選んだ相手じゃなきゃ、誰も気に入らないんだろ。そうなんだろ」
「そうよ。そう言ったら、湊さんは納得するの?」
「沙耶がどうしても嫌で別れたいっていうなら考えたさ。でもそうじゃないだろ。沙耶は戻りたがってるよ。そうじゃなきゃ、俺の子を産みたいなんて言わない」

 前髪をくしゃりとつかみ、行き場のない怒りをなぐさめる。

 沙耶はまだ俺を好きでいてくれている。その思いは決してひとりよがりではないはずだ。

「沙耶さんは覚悟を決めてあなたと別れたのよ。それが愛情なら、湊さんも素直に受け入れるべきよ」

 まるで簡単なことだと言わないばかりの母の表情に、俺は失望する。

 沙耶は最初からこの家には招かれざる客で、同じ立場で嫁いできた唯一の理解者であるはずの母も、いつの間にか結城の家に染まっていたのだろう。

「俺はまだ諦めないよ。沙耶の婚約者とは話し合うことにする。だから邪魔するなと父さんにも言っておいて欲しい」
「お父さんは何もしないわ。何もしない代わりに、沙耶さんを救うこともしないだけよ」

 母は悲しげに笑うが、「それは優しさだと思わない?」と俺に問う。もちろん、うなずけるはずはない。

「沙耶が戻ってきたいと言ったら、認めてもらうから」
「沙耶さんは言わないわよ、湊さん。過去に縛られてるのはあなただけ」
「そんなことないさ」
「あるわよ。上條さんがおっしゃっていたわ。今夜、沙耶さんと過ごすように松井さんにお願いしたと。あなたも大人なんだから、その意味はわかるわよね?」

 母は俺の目をしっかりと見つめてくる。

「沙耶の父親が?」
「松井さんも遠慮なさるところがあるようだから、そうおっしゃったのでしょう。温かい目で見守って欲しいと、頭を下げに来られたの」
「つまり、結城に邪魔はさせないと牽制しに来たってことか?」
「そこまでは言わないわ。それでも沙耶さんを思うあまりの行動なのでしょう。そのお気持ちを、湊さんも踏みにじることのないようになさい」

 絶望が俺を見下ろす。希望などないのだと、なぜわからないと俺をあざ笑う。

 俺たちは無理やり引き裂かれた上に、お互いを求めあうことさえ許されない。

 沙耶は今夜、婚約者に抱かれるのだ。
 それも俺のために。

 そんなこと間違ってると叫んでも、きっと沙耶の耳には届かない。彼女だって、間違ってるとわかっているのだから。
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