せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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彼に届くまでの距離

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***


 沙耶と別れた俺は、タクシーに乗り込むとすぐ、自宅の住所を告げた。

 本当なら沙耶を連れて自宅へ戻りたかった。沙耶だって、父に別れろと言われなければ今でも俺の側にいてくれただろう。
 そう思うと、諦めきれない思いが増す。父さえ認めてくれたら、俺たちは別れずに済むのだと思えてならない。

 自宅に到着すると、すぐさまリビングに向かった。まだそれほど遅い時間ではない。この時間なら、父はリビングにいるだろう。

 リビングの扉を勢い良く開けた俺は、案の定、すぐに視界に飛び込んできた父親の前へ駆け寄った。
 しかし、父親は長いソファーの真ん中を大仰に陣取り、開いた新聞から一切目をあげようとしない。

 久しぶりに自宅へやってきた息子に対する態度にしては冷淡で、しかし、それが父なのだと改めて再確認したような気がした。

「少し話があるんですが」

 そう切り出すと、父親が顔を上げるよりも先に、キッチンで晩酌の準備をしていた母親が俺の元へとやってきた。

「湊さん、いきなり帰ってきてどうしたの。お父さんは忙しいのだから、話があるなら連絡してから来なさい」
「忙しいって。俺の話を聞く時間ぐらいいつでも……」
「湊さん、これからお客様がいらっしゃるの。今日はお帰りなさい」
「そんなに時間のかかる話じゃない」
「それはわからないでしょう?」

 いつになく強引に母親に帰るように促され、背中を押される。その間も、父親は無表情に俺たちのやりとりを見つめるだけで何も言わない。

 最初から、俺が血相を変えて帰ってきたら、マンションに帰すようにと母に命じていたのかもしれないなどとも思った。

 リビングの扉が後手に閉まる音がして、無言で玄関へ向かって歩き出す俺の後ろをいつまでも母親がついてくる。

「なんだよ。見張ってなくても帰る……っ」

 苛立つままに振り返ると、眉を寄せた母親が廊下の奥を指差した。

「なに?」
「私の部屋で待っていなさい。話なら私が聞くわ、湊さん」
「え……」

 母親はゆっくりとうなずくと、すぐにリビングへと戻っていった。

 母親に呼び止める余裕もなく立ち去られた俺だったが、迷うことなく素直に母の部屋へと向かった。

 母の部屋は、普段ほとんど入ることがない。正直、前にこの部屋へ入ったのはいつだったか記憶にないぐらいだ。

 家の中は静かだった。秀人はいないのだろう。今日は金曜日だから真由香さんと会っているのかもしれない。

 沙耶もまた週末だから婚約者とデートに出かけようとしていたのだろう。そして、今頃は二人で過ごしているのだ。

 押しに弱い沙耶のことだ。彼に求められたら嫌とは言わないだろう。いずれそうなる日が来るのだとわかっていても、沙耶に触れる男がいるのだと思うだけで心は乱れる。
 間に合って欲しい。そう願いながら母の部屋の扉を開いた。

「あれは……」

 部屋に入るなり目に飛び込んできたテーブルに、俺はすぐさま駆け寄った。

 テーブルの上には一枚の着物が置かれていた。たとう紙が半分めくれ、中にある着物の生地が見えている。

「どうして沙耶の着物が……」

 あれはいつのことだったか。正月に母親にもらった着物を、秀人に貸したのだと沙耶が言ったのを思い出す。

 沙耶はまだ返してもらっていなかったのか。いや、返してもらえなかったのか。

 俺はなぜ一言聞いてやれなかったのだろう。着物はどうなったか、と。
 もしかしたら沙耶は、そんなささいなことでも悩んでいたかもしれないのに。沙耶が言い出せないことを、俺から聞いてやるべきだったのに。

「なかなか思い切れなくて、そのままなの」

 悔やむ俺の背後でふいに声がした。

「母さん……」

 いつの間にか俺の後ろに来ていた母親は、テーブルの奥に回り込むと、右手でそっと着物の袖を持ち上げた。

「大切にしたいのは気持ちなのにね。どうしても形あるものにこだわってしまうみたい」

 母親は悲しげに目を伏せる。長いまつ毛が小刻みに揺れるのを見て、俺は怪訝に眉をひそめる。

「沙耶さんはもう婚約者がいるそうね。この着物より、もっと素敵な着物をご両親は用意されるわね」
「母さんは沙耶が今どうしてるのか知ってるのか」

 知っていても不思議ではないが、だからこそ俺の語尾は強くなる。

 沙耶の妊娠をきっと母は知っているのだ。知っているのに、俺に黙っていたのだ。

「沙耶さんは本当に……、いい子だわ」
「だったらどうして俺と別れさせたんだ。父さんが余計なことを言わなきゃ、沙耶は心にもない結婚なんて選ばなかっただろ」
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