たとえ一緒になれなくても

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なんとなく

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 菅原さんに連れ出された私がたどり着いたのは、ちょっとした高級な雰囲気のある小料理屋だった。

 紫陽花あじさいと書かれた白いのれんをくぐって店内へ入っていく菅原さんに、仕方なくついていく。

「ここは初めて?」
「前はよく通りますけど、入ったことはないです」
「そう。じゃあ、ここのすき焼きは食べたことないね」

 菅原さんは亭主を呼ぶと、

「さしみ御膳とすき焼き御膳頼むよ」

 と、メニューも見ずに注文する。

 亭主に促されて、私たちは空いている座敷に向かい合って座る。

「菅原さんはさしみ御膳なんですか?」
「昨日すき焼きは食べたからね。ここのさしみはうまいよ。今度はさしみ御膳食べに来る?」

 にやりと笑う菅原さんの顔を見たら、ほおがひくつく。

「……その手には乗りません。お仕事でならお食事もご一緒しますが、プライベートで来るのは今日が最後です」
「ああ、そう。じゃあ早速プライベートの話をしようか。で、君はどうして彼氏と会うのに浮かない顔を?」

 菅原さんはずけずけと物を言う。

「そんなこと聞いてどうするんですか」
「好きな女性が彼氏とうまくいってないって聞いたら、誰だってチャンスだと思うだろう?」

 妙な間がほんの少しあった。

 タイミングよく現れた亭主がうっすら笑みながら緑茶を置いていく。

「……は?」

 沈黙を破ったのは私が先だった。

 柔らかく微笑む菅原さんがほおづえをついて私を見つめる。

 まるでそうしてうっとりと眺める時間が至福、みたいな目をする。不覚にもほおが赤くなるのを自覚して、バッと腕で顔を隠す。

「な、何を……」
「別に俺が藤本さんを好きだなんて言ったつもりはないけどね」
「は、はあ?」
「勝手に勘違いしたのは君だよ」

 くすくす笑う彼が憎らしい。

「からかうのはやめてください! 私だって、本気で悩んで……」

 不意に菅原さんが真剣な目をするから、ハッと口に手を当てる。

「君は優秀なのに、本当に残念なぐらい詰めの甘い女性だね。何を本気で悩んでるって? 言わないと帰さないよ」
「……そういうの、脅迫だと思います」
「違うね。君は話したくて仕方ないんだ。幸せな悩みなんて、女友達には出来ないだろう?」
「幸せなんかじゃないです」

 しばらく無言で見つめ合った後、はあ、と大きなため息をついて、目線を下げる。

「結婚を意識する年齢になって、結婚できない相手と付き合う意味はあるのかなんて考えたんです」

 この時ばかりは、辛抱強く私の言葉を待つ菅原さんの優しさが身にしみるようだった。

 彼の言う通りだ。
 私は誰かに話を聞いてもらいたかった。
 私を正当化し、夏也を否定してくれる誰か。萌乃香では言えない、私を甘やかす言葉をくれる誰かに。

「彼を嫌いなわけじゃないのに、……私を大事に思ってくれてないような気がして。都合のいい女みたい、私……」

 両手で顔を覆う。

 泣きたいのに涙は出てこない。

 菅原さんの前で泣くのはプライドが許さなくて、こんな時でも安堵する私がいる。

「私、……かわいくないですよね」

 だから夏也は結婚したがらない。私に足りないものがあるなら、守りたくなるような弱さだろう。

「そんなことないよ、って言って欲しがってる君は、少なくともかわいくはないよね」

 顔を上げたら菅原さんと目が合う。

 真剣に話してるのに彼は薄く笑う。

「なんなんですか……、嫌がらせですか……」
「俺はただ、会いたくもない彼氏に会う君の気持ちを知りたいと思っただけだよ」
「嫌いじゃないからです」
「好きだからとは言わないんだ? そんな男となんで付き合ってるの?」

 菅原さんは湯のみを持ち上げて口元に運ぶ。薄く湯気の立つ緑茶をとても美味しそうに飲むから、気が抜けてしまう。

「なんとなく……」

 ぽつりとこぼす。
 湯のみを傾けながら、菅原さんは横目で私を見る。

「別れる理由もなくて、なんとなく付き合ってるだけなんです……」
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