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しきたりと願い

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「このところ、美鈴様はお元気がないようですねー。土曜日はあれほど楽しげに過ごされておりましたのに。やはり、日曜日に何かあったのでしょうか」

 三年一組の教室の前を通り過ぎると、一真が失意をあらわにして言う。最近の一真の関心事は美鈴のことばかりだ。

「放っておけばいい」

 美鈴のことばかりかまっている時間はない。彼女の全てを知ろうとするのは土台無理な話だ。

「冷たいですねー」

 俺の背中に投げかける一真の言葉には、落胆がこもる。

「落ち込むことぐらい誰にだってあるだろう。それをいちいち騒ぎ立てられては迷惑だ」
「おやおや、美鈴様のためということでしたか。しかし、自らは言い出せないこともあるかもしれません。優しい言葉の一つでもかけて差し上げればよろしいのに」
「それは俺のすることじゃないだろ?」

 立ち止まり振り返る。一真は涼やかな表情で胸に手を当てる。

「では、私がしましょうか」
「そうじゃなくて。他にいるだろう」
「橘安哉のことでしたら気にされることはありません。昨日今日と休んでいますから」
「休み?」

 初耳だ。安哉は目立つ男だが、休みとは気づかなかった。それだけ安哉に興味がないのだろうと改めて気づかされる。

「風邪をひいたようですねー。そういうこともありますでしょう」
「……理由はそれじゃないのか? 安哉は明日にでも元気になって学校へ来るさ、なんて励ますのは、ますます俺の役目じゃないな」
「卑屈な言い方されますね。しかし、それは間違いですよ。美鈴様がお元気ないのは月曜日からです。橘安哉が休むより前からなのです」
「ひまだな、おまえは。いつも美鈴を監視してるのか」
「監視とは物騒な。そうではありませんよ。気になる女性のことは自ずと目に入るものです」
「俺はそうでもないみたいだな」

 俺にはそんなことなどないのだと、皮肉げに唇の端を上げると、一真は驚きで目を大きく開く。

「なんと。美鈴様が気になる女性とお認めになりましたね。もう少し、素直さがあれば」
「そういう話じゃないだろう」

 すぐに自分の都合のいいように考えてしまう男だと、あきれる。

 大げさなため息をついた時、一組のドアが開き、美鈴が姿を現わす。彼女は俺と一真に気づくと、少しびくりと肩を震わせた後、目を伏せて歩き出す。
 俺は眉をひそめる。確かにおかしい。もともと廊下ですれ違った時に親しげに話す間柄ではないものの、このところは笑顔ぐらいは見せてくれるようになっていたのに、まるで俺たちをさけているようだ。

「白夜様、先日お話しましたこと、確かめてみませんか?」

 美鈴が俺たちの前を通り過ぎた後、一真は不意に言う。

「確かめるって、あれをか?」
「美鈴様のご様子も気になります。荒治療かもしれませんが、少しは何かわかるかもしれません」
「今じゃなくてもいいだろう」
「いえ。先ほどの美鈴様を見て危機感を覚えました。放っておいたら、もう関わりのないものになってしまうかもしれません」

 俺はますます眉をひそめる。一真の提案は極端だと思うのだ。

「しかし……、あれは俺たちのというより、美鈴の問題だ」
「だからこそですよ。美鈴様の心を射止めるためには、彼女ではどうにもできないことを解明する必要があるのです」
「……俺は気が進まない」
「ではこのまま帰すのですか? 私はとても嫌な予感がいたします」

 一真は心を痛めた目で俺を見つめる。そんなに深刻な状況だろうか。疑問はあるが、小さな引っかかりを見逃すと大きな失態を生むことも危惧する。

「一真の予感は外れないからな。仕方ない。試してみるか」

 迷う思いはまだ胸にある。けれど、廊下の奥に小さくなっていく頼りない美鈴の背中を見ていたら、呼び止めなければならないような気もしてくる。

「必ず近くにいろよ、一真。俺はどうなっても、彼女は……」
「言うまでもありません。白夜様の大切な人は、私の大切な人でもあるのです」

 俺は小さく笑った後、美鈴を追いかけた。

 美鈴に追いついた時、彼女は下駄箱で靴を履き替えたばかりのところだった。なんと声をかけるか迷った挙句、彼女の背中に近づいた。

「今日は山口彩斗美はいないのか?」

 それは俺にとって非常に重要なことの一つでもある。
 突然声をかけられた美鈴は驚いたように振り返ったが、視線を左右にさ迷わせた後、「彩斗美は帰ったの。たぶんもう家に着いた頃じゃないかしら…」と力なく答える。やはり元気がない。

「美鈴は? なぜ一緒に帰らなかった?」
「学級委員の仕事があったの。白夜くんもあったでしょう?」
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