心を切りとるは身を知る雨

水城ひさぎ

文字の大きさ
19 / 46
第二話 名残の夕立

9

しおりを挟む
 朝晴に連絡した方がいいだろうか。家に帰ってるかもしれないし、病院から帰る途中なら、寄ってもらえるかもしれない。しかし、出てくるときに店の鍵とポストカードしか持ってこなかった。店に戻らないと、彼に連絡できない。

「苦しいんです」

 しぐれがやっとというように深い息を吐き出す。

「大丈夫ですよ。すぐに井沢さんに来てもらいますから」
「兄なんて呼ばないで」

 きつめの口調に驚いて、未央は口をつぐむ。

「ひとりでも大丈夫だから。私……、ひとりでやれるから」

 朝晴の手を借りたくないとばかりに、彼女は言う。まるで、自身に言い聞かせるように。

 身をかがめ、しぐれと目を合わせる。すぐにそらされたが、苦しそうにゆがむ瞳の中には涙が足りなかった。

 泣けないつらさを、未央は少しは理解しているつもりだった。苦しくて悔しくて、自分ひとりではどうすることもできずにもがいて。

 苦しみを生み出す相手が変わらなければ、永遠に消えない苦しみもある。その相手は、未央にとっては別れた婚約者だったのか、それとも、あの人だったのか……。それはいまだにわからない。しぐれにとっての苦しみを生み出す相手は誰なのだろう。

「ずっと苦しんでるんですよね」

 そっと声をかけると、しぐれはぽつりぽつりと話し出す。

「兄は東京にいたころ、有名なホテルで働いてたんです。高級志向のお客様相手に、プライベート展示会を企画するような仕事だって言ってました。忙しく働いて、家族を顧みるどころか、マンションには寝るために帰るだけみたいな、自分の身体の世話もできないような毎日だったみたいです」
「今の生活からは想像がつきませんね」

 朝晴本人も、以前と今の自分にギャップを感じて戸惑うことがあると言っていた。

「そんな生活でも充実してたみたいです。それなのに、私のせいで仕事をやめて、祖父母の家のある清倉に来て、教師になったんです」
「清倉へ来たいきさつは、井沢さんから聞いてます」
「兄は本当は、今でも東京にいたかったんだと思います」
「井沢さんは、井沢さんがそうしたいから清倉へ来られたと思いますよ」
「それはそうするしかなかったから。……私が征也を拒んだから」

 征也とは、別れた恋人だろう。

「拒むって?」
「征也は一生かけて償うって言ってくれたのに、すごくみじめな気持ちになって拒んだんです」
「そうだったの」
「なんにもできない身体になったのに、征也の手を突き放して、兄の夢や仕事まで奪って、情けない私が嫌い」

 しぐれを苦しめているのは、償うと言った征也ではなく、夢をあきらめた朝晴なのだろうか。そして、夢をあきらめるきっかけを作った自分に、彼女は苦しめられている。いくら朝晴が清倉の生活に満足していると言っても、彼女自身は納得しないように感じる。

 ぎゅっと胸もとを握りしめるしぐれの肩にそっと触れる。

「そんなこと言わないで」
「切り雨さんにまで迷惑かけて、情けないって思ってる」
「迷惑なんて」
「かけてる。足が動けば、こんなことになってない」

 泥まみれのタイヤをじっと見つめるしぐれの視線の先には、同じように汚れる未央の靴が映っているだろう。そして、汚れ一つない彼女自身の靴も。靴を汚してでも、自分の足で歩きたかったのだろう。だから、彼女は悔しがる。ほんの少しのへこみにつまずいたことが、大きな挫折に感じたのかもしれない。

「みんなに迷惑かけて、私なんか生きてる価値ない……」

 すぐさま、未央は首を横にふる。

「もう一生、立てないかもしれない。兄は好きだった仕事をもう二度とできないかもしれない。私のせいで……」
「もうじゅうぶんだから、言わないで。苦しいのはつらいと思います。それでも、生きていてよかったと思いますよ」

 生きてさえいれば……。未央はそれを何度思い、願っただろう。

 しぐれは口を強く結ぶと、手を伸ばした。肩をつかれたと気づいたときにはバランスを崩し、一歩二歩と後ずさっていた。

 しぐれと距離があく。焦燥感を覚える。離れたら、それが心の距離になりそうだった。

「しぐれさん……」

 間違っていただろうか。しぐれの苦しみを自身の経験と照らし合わせ、わかったような気になっていただろうか。だけど、生きていてよかったと思うのは真実だ。ただ目の前にいてくれる。そこにいてくれる。たったそれだけが尊いことなんだと知っている。

「あの……」

 誤解があるなら解きたい。その一心で近づこうと足を踏み出す。

「綺麗事言わないで」

 未央を突き放すように淡々と乾いた声でしぐれは言うと、やるせない感情に満ちた表情で、力いっぱい車椅子をこいだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...